君の話をしたい
希都と瑞奏ちゃんと海に行くのは、お盆だからまだ先だ。真夏かと思うような陽気の五月から、六月になって梅雨に入った。じっとりと蒸し暑い雨模様が毎日続く。僕も優空も雨に濡れるのがあまり好きじゃなかったから、梅雨時に休みが重なるとこの部屋でくっついて過ごした。そして、雨音を聴きながら愛し合って、ソファでひとつの毛布にくるまって寄り添いあった。
優空がまだこの世にいた頃は、自分で処理する程度の性欲はあったのだけど、今は優空を抱いた記憶を手繰っても性的な昂ぶりはない。指でたどった優空の肌を想うと、息が止まるような切ない感覚がこみあげる。見つめあって交わしたキス。抱き寄せた腰のもろい細さ。僕を受け入れて、首にしがみついてきたときの優空の吐息。
雨の日はよくセックスしていた気がする。だから、雨音を聴いていると、優空と肌を重ねた記憶がちらちらよぎる。大事に愛した軆にもう触れられない事実に、心が虫に喰われる。自分でなぐさめる気も起きない。行為が終わって、同じ毛布の中ではにかんで咲った優空の顔が、僕をただ哀しみで包む。
仕事のない雨の日、ソファにひとりで座っていると、優空の不在がことさらきつかった。優空が亡くなって半年が経とうとしている。僕は相変わらず心を蝕まれ、その穴をぼんやり見つめながら泣いている。ふとしたときに優空のあの死に顔を思い出し、あの日から何か止まってしまったような感覚に引きずりこまれそうになる。
もう半年も優空の瞳を見ていない。声を聴いていない。手を握っていない。
おかしなものかもしれないけど、「死」というものが圧倒的過ぎて理解できなくなる瞬間がある。優空はこの世のどこにもいない。地球上すみずみ捜しても、いない。彼女が存在した痕跡はあの骨壺の中の遺灰だけ。
何で。僕の中にはこんなにも優空が生きているのに。それじゃダメなのか。僕がこんなに求めても、優空は戻ってこない。こんなに望んでも叶わない、絶対的なこの「死」ってものは何なんだ?
優空の唇が「好きだよ」と言って僕の名前を呼ぶことはない。優空の僕への想いだって残っていない。優空の心が見つからない。優空の軆は焼かれて、心は止まってしまった。もう彼女の心が動きだすことはない。僕を好きだと感じてくれることもない。
それって、いったい何だろう。そこまで精神を引きちぎる「死」って、何なのだろう。何だかよく分からないけれど、確かなのは、優空が僕に対して何かを紡ぎ出すことはもうないということだ。こんなに想っても、ひりひりするほど想っても、優空が咲ってくれることはないということだ。
優空は過去になってしまった。なのに、僕には現在があって、さらに未来まで課せられているのがつらい。けして優空の温もりと交差することはない未来。そんなの、苦しみしかない世界と一緒だ。
死にたいと思うわけじゃない。ただ、生きていくのがつらい。優空のいない将来を見たくない。未来が怖い。平然と明日が来ることから逃げたい。容赦なく毎日が昨日になって、優空との別れから遠ざかっていくのが地獄だ。せめてあのクリスマスイヴに溺れ、その先には進めることはなくなってしまえればいいのに。そしたら僕は、優空と永遠に生きていられる。
ため息をついて、ぼおっと部屋を見まわした。ずっと掃除をしていない部屋は散らかって、床では髪やほこりが絡まっている。水回りとか、本当はそろそろ掃除しないと汚れがしつこくなるのは分かっている。ゴミは出していても、正直、細かい分別は怠けている。そんなダメな生活が表れた部屋で、膝を抱えて今日も何もしていない。
優空に怒ってほしいなあ。しっかりしなさいって、頬をつねってほしいなあ。そうしたら、僕は何だって頑張れるのに……
梅雨を鬱々と過ごし、ようやく七月になったある日、仕事から帰宅して郵便受けを見ると、僕宛てのはがきがあった。浴衣の女の子の綺麗なイラストが描かれた暑中見舞いで、毎年梨苗ちゃんがくれるものだった。去年までは、もちろん僕宛てでなく優空宛てに来ていたけれど。
梨苗ちゃんは会社員をしながら、兼業で漫画家としても活躍している。WEB雑誌で連載も抱えているし、本も何冊か出している。もともとは主にネットで活動していた同人漫画家だったけれど、即売会に出たときに出版社に声をかけられて、それから趣味だった漫画を仕事にするようになったと優空は説明していた。「何かすごい親友だね」と僕が言うと、「希都くんもすごいと思うよ?」と優空は言って、何だか僕らの親友はすごいみたいだとあのときは笑ってしまったっけ。
部屋に帰宅すると、明かりをつけて荷物をソファのそばに置く。日中留守に蒸された室内はむっとしていて、汗だくの僕はクーラーをつけて冷風に当たる。そうしながら、梨苗ちゃんからのはがきを見直した。短い文章が書かれていたので目を通す。
『暑中お見舞い申し上げます。
いつも通り優空のぶんも描いてしまったので、真永くん宛てに送ります。
私はしばらく絵がガタガタだったけど、やっと描く線がゆがまなくなってきました。
真永くんはどうしていますか?
よかったら、連絡くれると嬉しいです。』
そして、梨苗ちゃんの連絡先のIDが記されていた。冷たい風が汗ばんだ軆を冷やしていく中、そういえば梨苗ちゃんの連絡先って知らなかったな、と思う。あとで登録してひと言送ろうと思いつつ、軆がべたべたするのでシャワーを浴びることにした。はがきはローテーブルに置いて、僕はネクタイをほどきながら浴室に向かう。
汗が流れてさっぱりすると、Tシャツとスウェットになって、鏡の中の自分を見た。三十を過ぎてから、老けたなあとふと感じる瞬間はあっても、こんなに疲れた顔になったのは優空を亡くしてからだ。目元の陰が濃くなって、瞳そのものにも輝きがなくなった。こけた頬はくすんで、顔色にも張りが消えて、軆からも筋肉が落ちた気がする。こんな顔してたらダメだよなあ、と分かっていても、笑顔を作るのが苦しい。会社でスーツすがたで無理しているので精一杯だ。
僕はどうしているか。どう答えたらいいのだろう。描く線がゆがまなくなってきたということは、梨苗ちゃんは多少持ち直しつつあるのだろうか。僕はまだ、優空の死を受け入れること自体できていない。でも、それを素直に伝えて、梨苗ちゃんに心配をかけていいのか分からなかった。
リビングに引き返すと、ソファに座って梨苗ちゃんのはがきを眺め、優空はいつも暑中見舞いを返してたな、と思い出す。今年は僕が返すべきなのだろうか。絵も描けないし、綴るようなこともないのだけど。既製はがきでもいいから一応返すべきか。
そんなことを考えながら、梨苗ちゃんのIDを入力して検索にかけてみた。すると、『碧斗翠』という梨苗ちゃんのペンネームが出てきた。とりあえず友達に追加して、メッセージも送っておく。
『真永です。
暑中見舞いありがとう。
僕はまだぼんやりしていることが多いです。
情けないけどね。』
やや躊躇ったものの、それで送信した。既読はつかなくて、いそがしいのかな、とスマホをローテーブルに置くとソファに沈みこむ。何か食べないとな、と思い出したけれど、コンビニで買ってくるのを忘れた。冷蔵庫には何があっただろう。希都と食事をしたときは、これからは食べるのはちゃんとしようと思ったのに。さっそくやる気が出ない日が続いている。
ゆらゆらとキッチンに行って、ロールパンとロースハムを見つけたので、マヨネーズもはさんで二個くらい食べた。飲み物はミネラルウォーターで済ます。また味覚がよく分からなくなってる、と思いながら、残ったロールパンのふくろとマヨネーズを冷蔵庫に入れて、三切れだったロースハムのあまった一枚は口に押しこんだ。
涼しくなったリビングで、例によってテレビもつけずにソファでじっとしていた。日中の熱気にあてられて、疲れやすくなっている。眠気が早く訪れて、僕は片づけて寝支度をすると寝室に移った。こちらのクーラーをつけて、シーツに横たわってふとんでなく毛布だけかぶる。スマホを充電につないだときにも、梨苗ちゃんの返信は来ていなかった。ため息をついてまくらに顔を伏せると、うつらうつらしたのち、意識がのまれて優空の夢を見た。
夢の中で、優空はまだ制服を着ていた。写真で見たことがある。高校生のときのブレザーだ。その頃、優空は髪を長く伸ばしてもいた。何人かの友達と、咲いながら歩いて、クレープを食べたりプリクラを撮ったり。その頃から、優空の笑顔は愛嬌があってかわいい。『ずっとこのままだといいなあ』という優空の心の声が不思議と僕の心に伝わって聞こえてきた。
『このままなら、私、真永を遺して死ぬこともなかったのに』
僕ははっと優空のすがたを見た。不意に景色が消えた。優空が暗闇にたたずんで僕を振り返っている。僕もいつのまにか同じ暗闇に立っている。優空のすがたは、僕と出逢う前の学生時代のすがたのままだ。
「ごめんね」
優空は哀しそうに顔を伏せる。
「私に出逢ったせいで、そんなにつらい思いをさせてごめんね」
……違う。そんなんじゃない。僕が優空に言われたいのはそんな言葉ではない。優空に出逢ったせいだとか、そんなふうに考えたこともない。確かに、優空に出逢わなかったら僕はこんなに傷つかなかったかもしれないけど、その代わり、いまだにあの家庭で陰鬱に燻ぶっていたかもしれないのだ。
「優空に、出逢えてよかったよ」
今回の夢では声が出た。僕がそう言うと優空は顔を上げ、ゆっくりまばたきをしたあと、柔らかく微笑んだ。あの夜桜の公園で僕に声をかけたときと同じ笑顔だ。そう、優空に出逢えてよかった。それは間違いないのだ。優空がいなければ、今の僕はなかっただろう。すべて優空のおかげだ。僕が生きているのも、たとえ痛みでも心が何か感じるのも、こんなにも人を愛せているのも。優空に出逢わなければなんて、それだけは絶対に思わない。
「私も」
はっと顔を上げると、優空はいつのまにか僕と過ごした時間のすがたになっていた。ショートボブ、ほのかな化粧、すらりとしたシルエット。
「真永に出逢えて幸せだよ」
その声は確かに耳元で聞こえた気がして、僕ははっと目を覚ました。冷風の音が部屋を巡っている。仰向けで、ベッドの上でしばらく動けなかった。天井はまだ暗い。優空の言葉が鼓膜に引っかかっている。
僕に出逢えて幸せ。
……そう、なのかな。本当に、そう思ってもらえているのかな。だとしたら、僕はすごく嬉しい。僕との出逢いが優空にとって幸せだったのなら、それが僕にとってもまた幸せだ。優空は天国で、僕との出逢いを優しく思い返してくれているのだろうか。
泣いていたりはしない? 僕を想って泣いてはいない? 安らかに僕との出逢いに微笑んでくれている?
ようやく寝返りを打つと、僕はまくらに顔を伏せて少し泣いた。今見た夢の、優空の言葉がせめてもの救いだった。優空が、僕に出逢えたことを慈しんでくれているのなら。
緩く微睡むまま朝を迎え、のっそりと身を起こした。冷房が軆に染みこんでだるい。ため息をつきながら前髪をかきあげ、習慣でスマホを手に取った。時刻は五時半だ。外では蝉の声がちらほら目覚めかけている。何となく、相変わらず通知を切るメッセの着信を確認したら、梨苗ちゃんの返信が来ていた。
『真永くん、登録ありがとう。
情けなくなんてないよ。
私は打ち切りにならない意地で作業には集中してるだけ。
優空がいなくなったなんて、信じられないままだよ。
今度、よかったらお茶でもしようね。
優空のことを誰かと話したい。』
着信した時刻は四時半過ぎだ。漫画の作業で徹夜していたのだろうか。
優空のことを話す。そうだな、と思った。僕も優空のことをよく知る人と優空を偲びたい。梨苗ちゃんとなら、ゆっくり優空のことを語り合える気がする。僕は目をこすってから、こちらこそよければお茶をしたい旨を返信してから、今日も出勤するためにベッドを降りた。
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