ひとり遺されても
それから何度かやりとりをして、週末に休みがあった七月の下旬に梨苗ちゃんと会うことになった。通勤で通る大きな駅で降りた僕は、ちょっと迷いながら待ち合わせのカフェに向かう。
十四時、日射しはまだまだ空気を煮え立たせている。たどりついたのは、車が行き交う大通り沿いのカフェだった。ほてった体温をすうっと冷やす店内は広くて、客もけっこう入っている。
スマホを確認すると、『窓際の一番奥の席にいるよ。』という梨苗ちゃんのメッセが来ていた。入って左手はレジカウンターだったので、右手を目でたどる。すると、通りに面した窓際の一番奥に髪を右肩で束ねた女の子がスマホを見ていて、僕はアイスカフェラテをテイクアウトすると、その席に向かった。
「梨苗ちゃん。久しぶり」
声をかけると、梨苗ちゃんははたと顔を上げた。今日は銀縁の眼鏡をかけ、白いカットソーを着ている。垂れ目っぽい瞳や細い顎、痩躯の軆は変わらない。四人がけのテーブルで、僕は向かいの席に腰をおろした。梨苗ちゃんは僕を見つめ、「久しぶり」と言ったあと、「少し痩せた?」と首をかたむけてくる。
「冬頃よりは食べてるんだけどね」
「そう。ごめんね、ここまで呼び出して」
「ううん。このカフェ、よく来るの?」
「プロットとかネームをここで描いたりするかな」
「そうなんだ。あ、暑中見舞いありがとう。いつも見せてもらってたけど、やっぱり綺麗な絵だね」
「ありがと。今年から急に優空のぶんだけ描かないとかやっぱりできなくて」
「うん。優空もそのほうが嬉しいと思う」
ガムシロップをひとつ入れて、柔らかい香りをストローで混ぜてから、アイスカフェラテで喉を潤す。「暑いよね」と梨苗ちゃんはスマホをバッグにしまって、僕はうなずく。梨苗ちゃんも飲みかけのアイスティーを飲み、「何か変な感じだね」とあやふやに咲う。
「え」
「会うときはいつも優空もいたから」
「あ……うん。そうだね」
梨苗ちゃんは小さく息を吐き、「いろいろ早すぎて」とつぶやく。
「優空が癌って聞いたときも、かなりショックだったんだけど。それから、こんなに早く亡くなっちゃうなんて」
「うん……悪性が見つかって、あっという間だった。若いと進行が早いってほんとだね」
「しかも、クリスマスだもんなあ。もう一生クリスマスがトラウマになりそう」
「分かる。僕も……今年のクリスマス、自分が心配だ」
「私も。誰かといたほうがいいよね。私あんまりクリスマスパーティとか行かないけど、今年は行って気を紛らわせてるかも」
「僕は……どうしようかな。相手にしてくれる人いるかなあ。あ、優空の実家に行くかも」
「聖空さんも真永くんのこと心配してたよ」
「連絡取ってるの?」
「優空が亡くなって以来、ときどきね。私の漫画も昔から読んでくれてるし」
「優空も読んでたな。僕には読ませてくれなかったけど」
苦笑すると、「男の人向けじゃないからね」と梨苗ちゃんはくすりとする。
「たぶんジャンルはティーンズラブだし。学生時代はいろいろ描いてみてたんだけど」
「その頃から、優空とは仲良かったんだっけ」
「高校時代からだよ。部活でね。漫画はひとりで小学生のときから描いてた」
「あれ、優空と梨苗ちゃん部活一緒だったんだ。というか、優空が部活やってたなんて知らないや」
「あー、黒歴史だって言ってたもんなあ。あの子、文芸部だったんだよ」
「文芸部」
「小説書いてたの」
「そうなの?」
「うん。高校卒業して辞めたらしいけどね」
「知らなかった。えー、読んでみたかったなあ。梨苗ちゃんは読んだことあるの?」
「あるよ。というか、仲良くなったのが文化祭の展示のために原作と作画やったからだし」
「え。すごいね」
「私はもちろん漫研だったんだけど、文芸部と漫研のコラボを出そうってことになって、それで私は優空と組んだの。あれは楽しかったなあ」
「その作品って残ってないの?」
「小冊子にして配布したから、全部どこかの誰かにはけちゃった」
「自分用とか残さなかったんだ」
梨苗ちゃんは少し咲って、「優空がそれを真永くんに見せてないなら、私から見せるのもね」と言った。そう言われると、まあそうだな、と納得するしかなくて僕は椅子にもたれる。
「優空の卒アル見せてもらったりはしたけど、あんまり学生時代の話って聞いてあげられなかったな」
「まあモテたよね」
「はは、やっぱり」
「でも彼氏がいたからね。先輩の人」
「彼氏」
「優空はあんまりこういう話しなかった?」
「初めて聞いた。……そっか、彼氏」
「そのへん、優空は真永くんを気遣いそうだもんね。私は彼氏に初恋の話して振られたりしたもん」
「初恋の話で振られたの?」
「うん。嫉妬するのかな。複雑なのかな。振られたときはびっくりしたの、理由言われなくて。でも、そのうちうわさで『初恋の話されたのきつかった』って言ってたって」
「……その初恋、かなり真剣だった?」
「ん、まあ……今でも夢に見るくらいには」
「それはきついかもしれない」
「でも、そいつには彼女いて私には脈なかったんだよ。私のこと女として見てないし」
「友達だったの?」
「何だろ……幼なじみかな」
「あー……それはきついなあ。え、じゃあ彼氏に話したときにもその人は梨苗ちゃんのそばにいたの?」
「家は近くにあったけど。でもそいつ、ほんとに中学から彼女にべた惚れで、そのまま大学時代に結婚までしたし」
「………、今でも連絡取ってる?」
梨苗ちゃんは首をかたむけると、指先をストローで遊ばせ、氷がからんと涼しく響く。
「彼女さんが、私と連絡取るのやめるならプロポーズ受けるって言ったらしくて」
梨苗ちゃんは睫毛を伏せ、「まあそのまま」と言った。それから不器用に微笑んで、「あのときは優空の前でいっぱい泣いたなあ」と続ける。
「優空が一番、話を聞いてくれたんじゃないかな。私のことなんて気にしなくていいじゃないとか。わざわざ言うってことは牽制だよねとか。彼女さんは私の気持ち知ってたんだと思う。でも、あいつは……そう言われても、疑問持てよって。彼女さんの言う通り、私をシャットアウトするってことは、私の気持ち分かってたんじゃないか……とか。いまだに考えてるとぐしゃぐしゃする。はは、確かにこれは彼氏になってくれた人には、話しちゃいけない感じだね」
梨苗ちゃんは笑って見せて、この子もいろいろあったんだな、と僕はカフェラテを飲みこむ。
「そういう……ぐしゃぐしゃってなったときは、いつも優空が話聞いてくれてた。これからは誰に話せばいいんだろうね。ふっと落ちこむとね、つらいの。優空がいないことがすごくつらい」
僕は梨苗ちゃんを見る。「ごめん」と梨苗ちゃんは目をぬぐい、僕は小さく首を横に振る。
「ほかの友達じゃダメなんだよね。優空だから話せたのに。正直、今から優空ほどの親友作ろうとして作れる気もしない。どうしても、較べるだろうしね」
「……分かるよ。僕も優空に埋めてもらってたものをどうやって満たせばいいのか分からない」
「代わりを見つければいいって人もいるだろうけど、そういう問題じゃないよね。代わりがなぐさめてくれるときは来るのかもしれなくても、今は切り替わらないよ。代わりなんて受け入れられない」
梨苗ちゃんはため息をついて、「いつか、優空がいなくても平気でいられる人間になるのかって思うと怖くて」と伏し目になる。
「それが健康なんだって分かってても、そんな残酷なことないじゃないって感じる。忘れるってわけじゃないのは分かってる。優空の不在が当たり前になるんだろうね。優空いなくてつらいなあって気持ちそのものが当たり前になる。痛いって感覚はなくならないけど、その痛みに何も感じなくなるというか。大事な人を亡くして、いつまでも傷ついたままじゃないのは、大事なことなのかもしれないけど、薄情な気がしちゃう」
僕はいつまでも傷ついていそうな気がするけれど、違うのだろうか。いつかこの痛みは日常になり、気にならないものになっていくのだろうか。忘れるわけではない。僕もそう思う。優空の死が消えていくことはない。でも、この哀しみはいずれ終わり、傷痕になるのか。希都も言っていた。喪い、遺されても生きていくということは、強くなるということ。言い換えれば、にぶくなるということだと。
僕も優空との想い出をぽつりぽつりと語り、「優空がいなくなって、明日どうやって生きたらいいのかも分からなくなった」と言った。僕が喪った道しるべの光。暗闇が怖い。寒くて寂しい。息が苦しい。でも、確かにこの不安が永遠ではないことがつらい。優空の死を乗り越えることがつらい。梨苗ちゃんの言う通り、それは薄情に感じるからだ。でも僕は、死ぬまで未来が恐ろしい状態でいることにも耐えられそうにない。
二時間ぐらいそのテーブルで話して、十六時過ぎに梨苗ちゃんとカフェを出た。青空からの容赦ない白い日射が、アスファルトや行き来する車の鋼を焼いている。
駅まで並んで歩きながら、「今、梨苗ちゃんはつきあってる人とかは?」と訊いてみると、「最近、会社のほうで部下の男の子がかわいいとか思ってるから、おばさんになったよね」と梨苗ちゃんは苦笑いした。梨苗ちゃんの恋愛を見てきた優空は、いずれ初恋の話なんか出なくなるほど幸せになってほしいときっと願っていただろう。「出逢いがあったら大切にしてね」と僕が言うと、梨苗ちゃんはこくりとして、「真永くんも」と微笑んだ。
梨苗ちゃんはこの駅が最寄りで、ここから少し歩くマンションに住んでいるそうだ。だから、僕を駅まで送ってくれたら、「また連絡してね」と手を振って騒々しい人混みに紛れていった。僕はそれを見送ると、早くも汗ばむ軆と熱気からのめまいを感じながら、混みあう夏休みの駅構内へと歩き出す。
出会いがあったら大切に。自分で言った言葉だけど、僕にはそんなのあるわけない、と思う。そうだ。優空以上なんて、そんな子、いるわけがない。僕をあんなに理解して、思いやって、愛してくれる女の子がまた現れるなんて、そんな奇跡あるはずがない。
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