眼鏡の秘密
昨日の悪い気分が燻り、翌日の月曜日も体調が悪かった。クッションをまくらにして床に横たわり、悠紗のやるゲームを眺める。それでも、悠紗の見舞う言葉に咲い返すぐらいにはなっていた。
仰向けになり、RPGの攻略本を読む。登場人物紹介のページは、ゲームをやらなくてもおもしろい。キャラクターの容姿や生い立ちが細かく設定されていて、よくこんなの考えつけるなあ、と思う。
その中で、眼鏡をかけたキャラクターのページに当たって、ふと手を止めた。
眼鏡。何でかな、と思っている。
昨日、聖樹さんはなぜか眼鏡をかけていた。沙霧さんが来るまでは眼鏡はかけていなかったのに。
「どうしたの」と悠紗が僕の顔を翳らせてくる。僕は胸に本を置いた。悠紗は、昨日の聖樹さんが不思議ではないのだろうか。
「気分悪いの」
「ううん」
「あのね、今日お昼ごはんはピザとかでいいよ。おとうさん言ってたもん」
「平気。作れるよ」
寝返りを打って、軆を起こした。本を脇に置くと、「あのね」と悠紗に言う。「うん」と悠紗は僕を見つめる。
「訊いてもいい?」
「うん」
「聖樹さんって、家では眼鏡かけないじゃない」
「うん」
「どうして、昨日はかけてたのかな」
悠紗は睫毛を上下させ、「沙霧くんがいたでしょ」と簡単に返答した。僕のほうがまごつく。
「聖樹さんって沙霧さんと仲いいよね」
「うん」
「なのに、かけるの」
「うん」
「………、聖樹さん、あの眼鏡をどんな基準でかけてるのかな」
「分かんない。あ、梨羽くんたちの前ではかけないよ」
「そうなんだ」
「ほかは、んー、知らないなあ。萌梨くんには外しちゃったね。僕もびっくりしちゃった」
「何で、かな」
「さあ。まあ、僕も思うかな。沙霧くんには眼鏡外さないのかなーって」
「……うん」
「でも、どっちでもいいよ。おとうさんがそうしてるのがいいなら、そうしてたのがいいんだ」
コントローラーを握り直す悠紗に、何だか僕は詮索して恥ずかしいな、と息をついた。
十二時をまわっている。喉元に触れ、もやもやしていた暗雲が減っているのを確かめる。立ち上がると、悠紗が一時停止をして仰いできた。
「どうしたの」
「ごはん作るよ。何食べたい?」
「お金あるよ」
「いや、その、知らない人と電話で話したりするのが」
悠紗はまばたきをして、それ以上デリバリーは勧めなかった。
「何があるかな」
「ごはんは朝になくなっちゃったよね。先週、聖樹さんが買い物はしてきてたっけ」
「僕、何でもいいよ」
「じゃあ、あるもので作るね」
こっくりとした悠紗はゲームに戻り、僕はキッチンに立った。ここの勝手にも慣れてきている。引き出しをあけると、ポテトとクリームチーズ、二種類のグラタンがあるのを見つける。悠紗に訊いてみると、「食べたい」と返ってきた。
悠紗の心配に添えて調理はなく、皿に盛って焼くだけだ。食器棚に耐熱のグラタン皿もあって、それぞれソースを流しこむ。電子レンジをオーブンに切り替え、時間を設定するとリビングに帰った。
「悠紗、ポテトとクリームチーズ、どっちがいい?」
「え。んー、クリームかな。味、同じじゃないの?」
「うん」
「ひと口ちょうだいね」と言う悠紗に、笑んでうなずく。グラタンが焼き上がるのには、ちょっと時間がかかる。悠紗のかたわらに腰を下ろした。
僕がここに来て一週間と少しで、ゲームの物語はだいぶ進んだ。悠紗はここのところ物語の進行を放棄し、クリアした洞窟や峠を行き来して主人公たちのレベルを上げている。ボスをひかえた探検ではないので、魔法や必殺技を使いまくっている。そのCGには、相変わらず感嘆しそうになる。
そのうち、グラタンの匂いがしてきた。焦げていないか様子を見にいこうとしたとき、オーブンがベルを鳴らした。
扉を開けると、真っ先にクリームチーズの匂いがした。料理用の手ぶくろをつけ、きょろきょろと下敷きを探す。ポットの近くにひとつあって、それに悠紗のぶんのグラタンを置いた。軽い焦げ目もついているし、悪くなさそうだ。
引き出しから薄めの下敷きを探し出し、それに自分のぶんを置く。ゲームをたたんだ悠紗は、自分のぶんは自分で持っていった。食べる前に飲み物を用意して、僕たちはテーブルにつき、昼食を始める。
「ねえ、萌梨くん」
悠紗はグラタンをかきまぜて湯気をあふれさせ、えびとマカロニを選び取っている。
「うん」
「さっきのおとうさんの眼鏡の話ね」
「あ、うん」
熱いじゃがいもを口にふくむ。
「あれ、知らない人にかけるのかもしれないよ」
火傷しないように咀嚼したしたじゃがいもを喉に通してから、「知らない人」と僕は復唱する。
「おとうさんの、何ていうのかな、見るだけじゃ分かんないもの。あるでしょ」
「……うん」
「おとうさんは、普通の人とは違うところがある。そういうの持ってるって知らない人には、眼鏡かけるの。沙霧くんは、おとうさんが普通じゃないのは知らないんだよね」
「知らないのかな」
「知らないと思うよ。おとうさんは、それに触られるのが嫌いなんだ。話もぜんぜんしない。それをいちいち知られるのが嫌なんだよ。沙霧くんとは仲いいから、もっと知られたくないのかも」
僕は紅茶に口をつけた。悠紗はグラタンを嚥下し、「沙霧くんが悪いんじゃないよ」とつけたす。
「分かんなくて普通なんだ。おとうさんが隠したがってるしさ。僕だって、ちゃんとしたの分かんないもん」
口ごもる僕は、グラタンを食べる。
聖樹さん。あの夜は夢ではなかったし、ベランダでの蒼ざめた頬も錯覚ではなかった。僕が聖樹さんに心を許せた共感も、そこに秘密があるのだろうと思う。
昼食が終わると、僕は食器を洗って、悠紗は音楽の勉強を始めた。スポンジを泡立てる僕は、聖樹さんやXENONについて考える。
そういえば、昨日読みあさったXENONの記事に、アルバムのジャケットを使っている雑誌があった。ここにあのアルバムはないのだろうか。
あったら聴いてみたいな、と思っていると、少ない食器はすぐ片づいた。気候に合わせて水道水が冷たくなり、指先に熱が戻るのに時間を要するようになっている。
リビングに戻ると、悠紗にアルバムのことを訊いてみた。「あるよ」と悠紗は答え、鉛筆を放るとコンポに駆け寄った。僕もついていく。
「三枚あるの」
「アルバム」
「うん」
「中学生のときにできたって聞いたけど。それで三枚」
「ううん。初めてCD出したのは、僕が二歳のときだよ」
悠紗が二歳、というと四年前だ。四年でアルバム三枚。多いのか少ないのか、基準を知らない僕には測りかねた。
悠紗は引き出しを開け、一番手前の三枚を丁寧に取り出す。奥にもCDが何十枚も並んでいる。
「いっぱいあるね」
「梨羽くんがくれたの。はい」
手渡されたアルバムの、一番上のジャケットに目を落とす。天使みたいな金髪の女の子が、くまのぬいぐるみを抱えて、にっこりとしていた。その子の隣に、落ちついた文字で『XENON EIRONEIA』とある。何だか意外だ。
「それね、裏返したら怖いよ」
裏のジャケットを見ると、女の子が抱えていたくまのぬいぐるみが、引きちぎられ、綿をはみだして捨ててあった。上のほうに、立ち去るエナメルの靴がある。
二枚目は、黒帯で目隠しした人が自分で銃をこめかみに突きつけていた。スプレーで落書きしたように大きく『MADHOUSE』とある。目を凝らすと、その人がつけている首輪に『XENON』と焼きつけられている。裏では、血の海に転がった銃と投げだされた腕が映っていた。
三枚目には見憶えがあった。雑誌に使われていたものだ。これはジャケット一面に死体や骸骨が山積みになっていて、それに『XENON MORGUE』とどろどろの文字がかかっている。裏返すと、優しいクリーム色を背景に、切断されたすらりとした前腕が一本転がっていた。
悠紗と顔を合わせる。何と言えばいいのだろう。むごい、というか、えぐい、というか──
「すごい、ね」
「うん」
「誰が考えるの」
「梨羽くんたちだよ」
「意味、あるのかな」
「タイトルに合わせてるって」
一枚ずつ見直してみた。一枚目と三枚目のタイトルは、意味も発音も分からなかった。
二枚目の『MADHOUSE』の“house”が“家”なのは分かる。“mad”は、“狂っている”という意味だった気がする。狂った家。あんまりジャケットにつながらない。直訳ではいけないのだろう。
「聴いてもいい?」
「うん」
「うるさいかな」
「音はね。僕はいいよ」
「ヘッドホンしようか」
悠紗はやりかけの勉強を一顧し、開けていた引き出しをしまった。そして、下の引き出しにあったヘッドホンを出し、僕に渡す。コンポの操作も教えてくれて、「初めはボリューム下げたほうがいいよ」と言って、勉強に戻っていった。僕はそろそろとヘッドホンをかけ、素直に音量を下げておく。
まず、ファーストアルバムであるらしい、天使の女の子のCDをかけた。
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