風切り羽-23

荒らされた聖域

 結論から言えば、すごかった。僕が耳にする音楽はテレビで流れる軽いポップスだった。そういうのとぜんぜん違う。印象的にギターはゆがみ、ドラムスはリズムを取るだけでなく響き、それに絡んでベースも音を引っ張っている。
 ヴォーカルもすごかった。歌詞が強烈だ。僕はこんな歌詞を歌う歌手を聞いたことがない。咬みちぎってやるとか、吐き気がするとか、唾棄をかたちにしたような言葉を連発している。歌い方も生々しい。端正な声と喉を裂くような悲鳴を使い分け、危ない歌詞のときは本気で笑い声を上げたりする。
 このバンドが大衆に受けない理由も分かった。きつい歌詞や耳障りな音でなく、発散するものなのだ。聴く人に構っていない。自分の世界に閉じこもっている。聴く側を楽しませる魂胆がない。いろんな人に共感してもらうためでなく、自分の孤独を勝手に体現している。
 だから、同じように殻を持って他者に侵害されたくない人の心しか打たないのだろう。それ以外の人には、この音楽は自己愛まみれの雑音かもしれない。
 最後のシークレットトラックが終わったとき、茫然としてしまった。本当に、聴いただけなのに、打ちのめされてしまった。
 もう一回、それを聴いた。今度は、聴きながらブックレットを広げた。メンバーの写真が載っていて、つい見入ってしまう。
 変な写真だった。ありふれたアスファルトの道路に四人が並んでいるのだけど、左端の人はギターケースを背負ってそっぽを向いている。マジックペンの落書きで、“ギターフェチ”と矢印で指されている。中央のふたりは“ポルノ狂い”とされていて、左の人はポルノ雑誌を読み、右の人はポルノポスターを広げている。そのSMじみたポスターの下、一番右端にヘッドホンをかけてリュックを抱えた人がしゃがんでいて、“きちがい”とされている。
 その人が、無表情ながら、すごくかわいい顔だ。これが梨羽さんか、と思った。“ギターフェチ”が紫苑さんだろう。鋭い眼つきで表情は暗い。中央のふたりが、要さんと葉月さんなのだろうが、どちらがどちらかはしめされていなくて分からなかった。雑誌の人は耳にかかる程度に髪が長めで、容姿端麗だ。ポスターの人は、くせ毛で明るい顔立ちをしている。
 梨羽さんを見た。やや前髪は長くもさっぱりした髪、大きな瞳や無駄のない頬、華奢な軆つきは二十歳を過ぎているとは思えない。この人があの歌詞や声を繰りだすのも信じられなかった。
 ブックレットに、きちんとした歌詞はついていなかった。あのかわいらしい丸字での断章が、一面に引き伸ばされた無残なくまのぬいぐるみの白黒写真の上に散らばっている。陰惨な歌詞は文字にされていない。ひと言も書かれていない歌もあった。
 四人の写真の裏の面に、インナーがある。冒頭に“THANKS MISAGI”とあってどきどきした。そう、聖樹さんはこの四人と知り合いだった。それで感謝は終わっていて、以降は社交辞令のごとく名前が羅列してあった。
 末尾に、ふたたび梨羽さんの深長な一面が覗いている。そこには手書き文字でこうあった。

  ANTI THANKS
  この声 この喉 この魂に
  りわ

 悠紗の話が思い返る。梨羽さんが歌うのは嫌いだという話だ。これは、その示唆なのだろうか。
 聴くのが二度目だと、内容にも冷静になれた。一回通したときにはどれもどぎつく感じたものの、二、三曲、静的な味つけをされている曲もあった。
『DAYFLY』という曲は起伏が少なく、目立つ悲鳴もない。歌詞も攻撃ではなく苦痛を前面に出している。最後のつぶやきにはどきっとした。

  俺はただここにいたいのに
  たったそれだけがうまくできないよ

 アルバムは一気に一周していた。僕が仕切りにもたれてほうけていると、悠紗がやってくる。
「萌梨くん」
 はっと悠紗を向く。ずいぶん頭をやられていて、めまいがしていた。不愉快なめまいではないことに、自分でびっくりする。
「へへ。すごいでしょ」
 深呼吸し、ヘッドホンを下ろすとうなずいた。悠紗はにこにこすると、僕の隣に来て背中を仕切りに預けた。いつのまにか勉強道具は片づけられている。
 悠紗は僕の手にあるブックレットを取ると、写真のところに折り曲げた。「会えるんだよね」と嬉しそうにする。
「ポスターの下の人が梨羽さんだよね」
「知ってるの?」
「かわいいし」
「そっか。うん。こっちが紫苑くんでね、その横が要くん。ポスター持ってるのが葉月くん」
「すごいポスターだよね」
「んとね、しゅみ、なんだって」
 把握していない口調だ。ポルノが趣味である、ということの意味はどうやら分かっていない。
「これ、四年前の写真だもんなあ。梨羽くん以外は大人になってるよ」
「ほかのには写真載ってないの」
「うん。これはね、ファーストだからって自己紹介で入れたんだって」
 悠紗はブックレットをめくり、インナーの“THANKS”を指さすと、「次からはここに“悠紗”って入ってるんだよ」と得意げに言った。何だかうらやましかった。
 その日聴いたのは、『EIRONEIA』一枚だった。二枚三枚と続けるには体力がいりそうで、追いつける自信がなかった。コンポを片づけ、あとは悠紗のゲームにつきあった。
 日ごと早くなる日没が過ぎた頃、聖樹さんが買い物ぶくろを提げて帰ってくる。夕食や風呂にばたばたして、やっと落ち着いてくると悠紗が眠気に負けて寝室に入る。悠紗の就寝後、聖樹さんとふたりで話すのが日課になっている。
 僕がXENONのCDを聴かせてもらったのを話すと、「聴いてなかったんだ」と聖樹さんは咲った。
「どうだった」
「すごかった、です。普段、音楽を聴いたりしてなかったぶん」
「そっか。性には合ったんだ」
「はい。ああいうの、自分に一番遠いと思ってました」
「梨羽たちは、ジャンルで動かすんじゃないしね」
 聖樹さんはコーヒーをすする。僕の前では、やっぱり眼鏡はかけていない。
「梨羽さんの歌もすごかったです。あんな歌詞をはっきり歌う人、いるんですね」
「梨羽は歌に自分の全部をぶつけるんだよね。だから、合う人の心は強く動かせても、合わない人にはとことん嫌われる。本人たちに言わせると、『表現者としての意識がない』だって」
「表現者、ですか」
「音楽で稼ごうとしてないんだよ。インディーズだしね。あの四人、音楽じゃなくてバイトで生計立ててる」
 カップを手のひらで包み、「そんなに売れてないんですか」と訊く。聖樹さんは首をかたむけ、「僕はそうは思わないよ」と言った。
「ライヴはお客さんたくさん来てるし。ポップスターって感じではないな。カルト的。好きな人のあいだでは、梨羽は神様にされてる」
「神様」
「梨羽が心の深層をえぐるせいでね。何でもお見通しの神様だって」
「梨羽さん──は、喜びそうじゃないですね」
「うん。梨羽は共感されればされるほど、怖いんだ。自分がくだらないって思ってるんで、自分と同じ人間がいるほど、この世に希望を失くすみたい」
 紅茶を飲み、変わってるなあ、と思った。表現をする人は、共感を求めるものだと思っていた。それとも、梨羽さんがそれを求めないので“歌手失格”なのだろうか。
「でも僕は梨羽に共感しちゃうな」と聖樹さんがつぶやく。
「僕も気を抜いたら梨羽みたいになって、そのまま越えちゃいそうになるしね」
 聖樹さんを見つめた。聖樹さんは微笑んだ。愁色がちらついていた。僕は聖樹さんの傷口を感じる。梨羽さんみたいになって、そのまま越える。意味は明確につかめずとも、ぎりぎりにいる梨羽さんを越えるのが何につながるかは分かる。
 聖樹さんは話を転換させて、僕は逆らわずに騙された。察していた。聖樹さんにとって、XENONは安らぎであると共に、聖域だ。僕がそうであるように、聖樹さんもみずからの聖域を望むのは苦痛なのだろう。
 痛ましく踏み荒らされたそこにたたずんだって、途方もなく深い傷を思い知るだけなのだから。

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