死を映すもの
梅雨が明けると、一気に夏が始まる。
山場だった期末考査は過ぎても、飛季は勉強が遅れている生徒の家には通うし、受験を考える生徒に資料も届ける。家庭教師は、夏休みが来ても、むしろいそがしいくらいだ。
実摘との関係は相変わらずだった。実摘は、飛季の部屋でだいたいぼんやりしていた。ときどき異常を起こし、それを飛季がなだめる。軆を寄せ合うそのとき限り、飛季と実摘は親密になった。ほかは変わらなかった。
柚葉との関係も続いていた。ただ、とうとう実摘が“おでかけ”に誘わなくなったので、飛季はみずから街におもむいて、彼女に逢った。
性欲処理もあったが、柚葉といるのは楽しかった。彼女は一緒にいても疲れない。問題ばかり押しつける実摘とは違い、柚葉は飛季を心地よくさせる。やるのはセックスだけでも、柚葉は精神的なものにも快楽を持ちこませた。飛季はそれが好きだった。
七月の始めの週末、実摘の不在中に飛季は街に出かけた。空気はほてって、何もしなくても汗がにじむ。街は人混みの熱気が気温を上昇させている。
人を縫い、ずいぶん慣れた道を歩いていく。きらびやかなネオンや吐きそうな人間にも、衝撃を受けなくなっている。ここをうろついているのが職場に知れたら、問題になるのは承知している。なのに、飛季は危機回避より柚葉を選んでいる。
柚葉を想う。自分にとって、彼女は何なのだろう。時間を割いて危険な場所に踏みこんで、わざわざ会いにいって。地味な平穏を望む自分が、性欲のためだけにそんなことをするだろうか。
そんな疑問に、飛季は柚葉への視点を変えるべきかと思案している。飛季が週末に来るのは、柚葉も承知をしていて、その日もいつもの店で逢えた。「待ってた」と言う柚葉に、飛季は曖昧に咲う。柚葉はにっこりとして、「行こ」と飛季の腕を取った。
地上に出ると、街を遊歩した。そして、即座に路地裏を探すことなく、たわいなく話す時間もけっこう取るようになっている。
「今日も、ミミと来たの」
話題は、実摘に関してが多い。飛季も柚葉も、いまだにお互いの素性を知らない。共通の話題が実摘ぐらいだ。
「最近は一緒に来てないよ」
「そうなの。喧嘩?」
「俺の部屋を宿にはしてる。誘ってこなくなった」
柚葉はくすりとして、「何か気に障ることしたんじゃない?」と首をかたむける。飛季はうやむやな顔になる。
実摘の癪に障っている事柄は、分かっている。おそらく、柚葉だ。
「逢ってはいるんだね」
「まあ」
「この頃のミミ、すごくない?」
「え」
「知らない?」
「この街では他人だし」
「ここって、人前で乱交とか輪姦やっちゃうのも当たり前なんだよね。おととい見たんだ。ミミ、それに混じってた。いままでは一対一っていうのは崩してなかったと思うよ。たぶん」
乱交。輪姦。それは犯罪ではないのか、とぼんやり素人感覚で思う。
「ロウと何かあったなら、やつあたりかもね」
「あの子は、そんなに俺に執着してないよ」
「そうかな」
「便利なんで利用してるんだ」
柚葉は含み笑って、「かもね」と肩をすくめた。
そんな脈絡ない話や、心地よい沈黙で欲望を焦らしていると、柚葉が足を止めた。「あれ」と彼女は前方に目をやる。飛季はそれをたどる。
喉が硬直した。実摘が、くたびれたふうの中年男といた。
「ミミだよね」
うなずく。ふたりは触れ合っておらず、話をしている。実摘の横顔は無表情で、相手は何やら必死だ。
「あれは売りだね」
「え」
「ミミ、売りもやってんだね。知ってた?」
「……聞いてはいた」
実摘を眺める。不思議と、実摘がまったくの他人に感じられた。普段、あの子とベッドで抱きあって眠っているのが信じられない。
「あの子なりに、事情はあるみたいだけど」
「ふうん。ま、過去ありそうだよね」
飛季と柚葉は、実摘と男のやりとりを静観する。
つまらなさそうに男の話を聞き流していた実摘がうなずく。男はたるんだ笑みを見せた。腕が実摘の軆を這う。実摘は男にもたれる。そしてふたりは、こちらに足並みを向けてくる。
飛季は慌てて、柚葉を引っ張っていこうとした。だが、遅かった。実摘の視界に、すかさず飛季が入る。
実摘は目を剥いた。飛季はうつむいたけれど、それでも実摘の視線は刺さってきた。物凄い憎悪を塗りつけた視線が。柚葉が腕を引いてくる。飛季は乗った。
実摘の目は、しぶとく背中に突き刺さっていた。
柚葉は飛季を路地裏に連れこんだ。死角に入り、何とか実摘の目を免れる。飛季が息をつく前に、柚葉が息をついた。目を合わせると、彼女は咲った。
「ビビったね」
「うん──」
飛季はすまなくなって彼女に謝った。柚葉は微笑む。
「ロウが謝らなくてもいいよ。すごかったね。あんな本気の殺意、初めて浴びた」
柚葉は飛季を奥に引っ張る。飛季は逆らわない。
「あの子が殺意向けたのって、どっちだろ」
「俺じゃないかな」
「そう?」
「君に殺意向けたって」
「ロウでも説明つかないよ」
「あの子は、俺は部屋で番をしてればいいって思ってるんだよ」
柚葉は立ち止まり、息をついた。飛季は彼女の頬に指を動かす。柚葉は飛季を見上げる。
その瞳には孕まれているものがあった。察知した飛季は、気まずくなる。
柚葉は口元で咲った。急に飛季に軆をぶつけてくる。汗の匂いがした。彼女は飛季の腰に腕を絡ませ、背伸びすると、ささやいてくる。
「じゃ、やろっか」
柚葉との情事のあと、部屋に帰った飛季は、ドアの前にたたずんだ。部屋のドアに黒い足痕があった。
どうやら、スニーカーの、泥底の、蹴りによる足痕だ。
飛季はため息をついて、鍵を取り出す。犯人は明らかだとしても、なぜこんなことをするのか謎だ。
まず、こんな足痕はぬぐい去らなくてはならない。雑巾を取りにいくために、飛季は鍵穴に鍵をさしこんだ。
やがていよいよ夏休みが近づいてきて、予想通り、毎日が慌ただしくなった。
柚葉との関係は変わりなかったが、実摘とは変化があった。実摘はあの足痕を残した日を境に、飛季の部屋を訪ねてこなくなった。徹底的に飛季の視界を失せ、消えたかのように飛季の毎日からいなくなっている。彼女と顔を合わせず、十日以上が過ぎていた。
以前、実摘に冷たい言葉を浴びせ、彼女が来なくなったときがあった。あのとき同様、会えない日が募るにつれて、飛季は彼女が心配になった。
あのとき以上かもしれない。彼女の危うさを飛季はさんざん見せつけられた。彼女の不在には、最悪の事態が真実味を帯びる。
何も考えられなかった。日々の中で、癪に障ったこともあったかもしれない。それも憶えていなかった。実摘が心配だった。柚葉にも実摘を見かけたかどうか訊いた。飛季の真剣な訊き方に、彼女は複雑そうにしていたが、「消えたってうわさは聞かないよ」と言った。
光に割れてしまいそうな背中や、震えていた軆の感触が蘇り、飛季の不安をかきたてる。実摘は放っておくと蒸発してしまいそうな子だ。心配でたまらなかった。
そして、週末には夏休みに突入している七月の中旬だった。仕事を終えた飛季は、その日も実摘を想いながら帰宅した。耳に残る蝉の声に渋面し、流れる汗をべとついた手の甲でぬぐう。足痕は綺麗にぬぐったドアを開ける。
無造作にドアポストを開いた。ここに万札の痕跡を残されたことがある飛季は、つい覗いてしまう。もちろん、いつも何もない。期待もしていない。けれど、その日は何かがあった。飛季は色めいてそれを手に取る。
ビデオテープだった。ケースには収まっていても、ラベルも何もない。実摘だろうか。あのゾンビものであれば実摘だ。部屋に入ると、クーラーをつける。汗の染みた服は着替えず、シャワーもあとまわしにして、ビデオを再生させた。
全裸の男が暗闇に転がる、奇妙な映像が映った。飛季は眉をゆがめる。見憶えのないものだ。
少なくとも、あのゾンビ映画ではない。あれなら確信が持てたのに。落胆していると、たぶん英語ではない物語が始まる。
進むにつれて、その映画が物語と呼びがたいのが発覚していく。主人公かと思われた男は、すぐ服毒自殺を図ってしまった。そんないろんなパターンの自殺と、最初の暗闇を転がる男の死体が腐っていくさまが交互に現れる。
変な映画、と思っていると、その死体が蛆にまみれた映像が容赦なく映し出された。飛季はビデオを止めた。無意識に顰蹙していた。音も聞こえそうな蛆の蠢動がまぶたに焼きついていた。
狼狽に目を彷徨わせつつ、尻を床につける。実摘だ。実摘に違いない。
証明の仕方はともかく、安堵できた。実摘は生きている。ここに来たのだ。よかった。
飛季はビデオをデッキから取り出すと、ケースにしまい、テレビのそばに置いた。内容には喪心させられても、実摘の痕跡だ。丁重にあつかった。
黒いテレビ画面を見つめた。生理的に拒否感のある映画だった。それ以上に恐ろしかった。実摘のいつも観ているゾンビ映画とは、対極だったからだ。
生きた名残もない、物が転がっている映像だった。凄まじい死の心象が映っていた。この映画と実摘を照らし合わせ、不安になる。死をこんなに伝えてくる映画──遺書じゃないよな、と思う。
飛季はうなだれる。なぜこんなに彼女が心配なのか、分からなかった。でも、実摘が死の淵に立つのを想像すると怖くなる。抱きしめ、この胸で落ち着かせ、思いとどまらせたくなる。
実摘は無事でいるのだろうか。飛季はわずらい、視線を落とした。
すぐに夏休みが始まった。蝉の声も騒がしくなり、汗は背中や喉を流れていく。
受け持つ生徒の中で、夏休みに入ってますます厄介になっているのは、あの万引き騒ぎを起こした生徒だ。彼は相も変わらず、飛季を部屋には入れるが、つくえに着こうともしない。彼の両親と話し合い、受け持ちを交代することも検討しはじめていた。「あの子を見捨てないでください」と母親は言うが、「ほかの先生と、もっと相性がいい可能性もありますから」と飛季はやんわりと辞退の意思を伝えはじめていた。
ひとり暮らしを始めて以降、盆が近づくと、いかにして帰郷の誘いを断るかには悩まされる。が、今年も何とか「受け持つ生徒が心配だから」という言い訳が通った。
それでも、脳に雑音が介入してくる。飛季は実摘と再会していない。
実摘は、もうこの部屋には来ない。そう信じかけていた。その反動か、飛季はよく街に出かけた。
ここなら実摘に逢えないだろうかという期待もあれば、柚葉で気を紛らしたいのもあった。柚葉はきちんと飛季の相手をしてくれた。飛季も、彼女を抱いている最中は実摘を忘れられる。柚葉のしなやかな軆に熱中し、彼女を愛おしんだ。
「よく来るね」
飛季を体内に受け止めながら、柚葉は熱っぽい息と共に言う。今日も交わっているのは、そのへんの路地裏だ。じっとりとはしていても、人混みの熱気がないだけ涼しくもあった。
「え……」
「最近。ロウ。よく、ここに来る」
「そう、かな」
「あたし、ロウとしかやってないもん」
「俺としか」
「うん。前は、ほかの人でつないでた」
彼女の声が、よく聞き取れない。近づく絶頂がすべてになっている。いつからか、柚葉は飛季にコンドームを強制しなくなった。飛季は彼女のじかの体内で、うねる快感に囚われている。
「まさか、学生じゃないよね」
「え、うん。何で」
「夏休みじゃん。それで、解放されたとかさ」
「ちゃんと働いてるよ」
「そっか」
「君は」
「普通だよ。たぶん、ロウが思ってるとおり」
「高校生」
「うん」
柚葉は喘ぐ呼吸を整える。解き放たれそうな快感がかすめはじめていた。こめかみがほてって、鼓動が乱れる。飛季も唇を噛み、卑猥な呼吸をこらえた。
「そっちは」
「え」
「働いてるって」
口ごもる。こんな半端な仕事は恥ずかしい。だから、いい加減に嘘をついた。
「……教師」
「え?」
「中学の教師」
柚葉は首を捻ってくる。飛季は後ろめたくうつむいた。
「マジ」
「まあ」
柚葉は戻した頭を垂れさせ、腰をよじらせる。
「先生か」
彼女は息を吐き、壁にあてた手をこぶしにする。
「何か、興奮する」
飛季は彼女の背中を抱きこむ。腰を揺らすと、柚葉は軆を震わせた。狭い通路のあいだに喘ぎ声が揺らめく。
軆の芯が際立ち、外気にしたたる汗と内部の刺激による汗が混じりあう。飛季は、柚葉のうなじに唇を埋めた。こすりあげて、張りつめた性器は限界が近い。柚葉を壊すように、何度か強めに飛季は柚葉をつらぬく。
柚葉はうめいて、飛季の荒っぽい動きに奥を締めた。その絞り取る刺激に、飛季の脳は白くなって一瞬で果てる。
吐いた息に、柚葉のため息が重なる。精液の匂いがただよう。胸に倒れた柚葉を抱きとめる。柚葉は飛季の左肩に頭を乗せ、喉を剥き、長く呼気する。
飛季は背中を後ろの壁に預けた。汗に湿った服に、壁の湿気も染みこむ。飛季の荒い呼吸に合わせ、柚葉の軆も上下する。喉元や長い前髪を水滴がすべっていく。
余韻がおさまると、柚葉は動き出す。飛季と軆を離し、手早く後始末をする。飛季がぼんやりしていると、こちらの股間も片づけてくれた。
彼女は飛季に抱きつき、胸に頬をあてる。柚葉は飛季に抱かれて、心地よさそうにする。飛季も彼女の軆がなじんだ。まだしばらくこうしていようと、飛季は柚葉の髪に唇を寄せた。
【第二十二章へ】