静かな夜明け
柚葉と長いこと時間を共にした飛季は、明け方になる直前、深夜帰宅をした。あくびを噛み殺してマンションに入り、エレベーターを待つ。やってきた無人のエレベータに乗りこむと、そのまま六階に到着した。
降りて数メートル廊下を歩く。飛季は何気なくドアを見やった。
はっと立ち止まった。部屋の前にカーキのリュックを背負った背中がしゃがみこんでいた。
まさか。そう思った瞬間、その人物が飛季を仰視してくる。実摘だった。立ちすくんだ飛季に、実摘は瞬時にして凄まじい殺意をみなぎらせた。
思わず後退る。彼女は立ち上がって、一度ふらつきながらも、駆け寄ってくる。飛季のにおいを嗅ぎ、さらに殺意を強める。
「行ってたの」
「えっ」
「行ってたの。あそこ行って、あの人とやってたの」
「え、いや、その、……うん」
実摘は肩を震わせた。明らかに怒りだった。
「あの人が好きなの」
「は?」
「僕がここにいたの、怒ってるんでしょ。ほんとは、あの人を連れてきたかったんだ」
唐突な話に飛季は口ごもる。飛季を睨みつける実摘は、まくしたてはじめる。
「僕が邪魔するのが嫌で、連れてこなかったんでしょ。この部屋でやりまくりたかったんだ。あの人のあそこに、かちかちになったもの突っ込んで、あの人の中に、汚いものをまきちらすんだ。そうなんでしょ。僕なんかいなきゃいいんだ。僕がいなきゃ、この部屋で、あの人とさんざん、バカみたいに──」
飛季は慌てて実摘の口を塞いだ。実摘はもがいて、地団駄を踏んだ。
最悪だ。近隣に聞こえなかっただろうか。実摘に早く部屋に入るのをうながしても、実摘は癪に障ったふうに踏んばる。飛季は、彼女を無理やり部屋に押しこんだ。
部屋に入ると、今度は実摘が強引に飛季の腕を取った。反抗しても実摘を暴れさせるだけだ。飛季は従順にした。
連れていかれたのは、バスルームだった。いつになく分かりやすい感情を表す彼女に、飛季はとまどっていた。タイルに踏みこむと、実摘は飛季の服をはぎとって捨てた。飛季の胸元や鎖骨に残る口づけの痕に、実摘は殺意を向ける。わけが分からない飛季は、ただ実摘を見つめる。
実摘は飛季を丸裸にすると、座るよう命じた。どうにもできずに、飛季はおとなしくそうする。実摘はシャワーヘッドとボディソープをふくませたスポンジをつかみ、飛季の軆を洗い出した。実摘は服を着たままで、彼女の服にもリュックにも、飛沫が飛ぶ。
実摘は無心に飛季の軆をこすった。柚葉の跡形を徹底して削った。切実だった。湯で泡を落とすと、飛季の肌が赤くなっているときもあった。そのときは、実摘は炎症に口をつけて、舌の慰撫で熱を鎮めた。
飛季は、だんだん彼女の様子に胸が痛くなってきた。この子は、どのぐらい飛季の部屋の前に座りこんでいたのだろう。ずっと飛季を待っていた。柚葉と抱き合って、ささやきあっていた頃の飛季を。
実摘は、首を垂れて飛季の股間を洗っている。シャワーのぬるい飛沫が内腿に飛んでいる。飛季は、実摘の頭に手を置いた。実摘は肩を揺らした。顔は上げない。
飛季は手を実摘の頬にすべらせる。拍子、指が硬くなった。実摘の頬は濡れていた。
「実摘──」
驚きで、つい彼女の名前を呼んだ。途端、実摘がいきなり声を上げて泣き出した。取り落としたシャワーヘッドが水圧に跳ね上がり、雨が彼女自身に降りそそいだ。飛季は慌ててそれを取り除き、バスタブに放る。
実摘は、飛季の膝に顔を埋めて泣いた。実摘の涙は、シャワーと同じ温度だった。握りしめられたスポンジが泡立っている。
「実摘」
飛季は彼女の腋に腕を通して、顔を上げさせる。実摘は、ぽろぽろと涙をこぼしている。ぐちゃぐちゃになった顔は痛々しく、飛季は罪悪感と後悔にさいなまれた。
飛季は実摘の顔をぬぐってやる。実摘は水分で束になっている睫毛を伏せ、口を開く。
「何で飛季は、僕を抱かないの」
「え」
「そんなに、あの人がいいの。僕、つまんないの」
「………、実摘」
「僕、僕のほうがいいもん。何で。飛季、僕──」
飛季は実摘を抱きしめた。実摘はスポンジを落とし、飛季の胸にすがって嗚咽を高くした。リュックごと、飛季は彼女をきつく抱いた。
たまらなかった。実摘に対してこらえきれないものがあふれた。濡れてしまった彼女の髪に頬を寄せる。実摘は飛季に抱きついた。飛季は実摘の背負うリュックをはがし、バスルームの外に置いた。にらも湿っているのではないかと思ったが、実摘には黙っておいた。言えば、おそらく、今ここで彼女を抱くのが流れてしまう。
服を着たままの実摘を、飛季は彼女に脱がされた服の上に寝かせた。実摘は飛季を見た。瞳が狼狽えていた。挑発の色はない。それでも、飛季は欲情していた。初めて自発的に彼女に勃起している。口づけながら、彼女の服を脱がせる。
実摘にあの妖艶さはなく、むしろ軆を縮めようとした。子供っぽい、受動体になっている。これが本来の彼女の性なのかもしれない。あの嬌態は、“陽炎”になって自分の存在を確かめる手段だったのだ。
実摘の軆に、生々しい男の痕はなかった。実摘の白い肌を飛季は贅沢に犯せた。瑞々しい肌を味わうと、飛季は彼女の性器に指を這わせる。実摘は弱く喘いだ。水音がしてくるまで、指先でそこをやわらげてから、飛季は先端が先走った性器で彼女に侵入した。
実摘は震えて軆をよじった。拒否ではないのを確認すると、飛季は性器を彼女に収める。
腰を動かすと、飛季と実摘の熱が絡み合った。軆の奥に、火が届く。こめかみや頬が発熱する。性器を締め上げる実摘の熱に、喉でうめいた。実摘も頬をほてらせ、呼吸を乱している。
実摘は、飛季の腰に大胆に脚を絡めてきたりはしなかった。飛季に与えられる快感に痙攣し、か弱い喘ぎだけもらす。
シャワーの水音が遠かった。湯気が室内に充満する。実摘の軆に、飛季の汗が雨になった。荒い息遣いが反響し、めまいを呼んだ。飛季の肩越しにそそぐ白熱燈に、実摘はまぶしそうにする。
飛季は実摘を見つめた。実摘も見つめ返してくる。実摘の瞳は潤んでいた。彼女は恥ずかしそうに睫毛を伏せる。
愛おしかった。熱に浮かされて腰を振った。飛季も実摘も絶頂に達した。いつ射精したのかはっきり分からない。でも、目の前が真っ白になったのは確かだ。飛季は実摘に覆いかぶさる。実摘の切れぎれの息が、耳をくすぐる。
余韻が過ぎると、飛季はだるさをおして軆を起こした。実摘は不安そうに飛季を見上げる。飛季は彼女に微笑み、はりついた髪をはいで口づけをした。
実摘は飛季の軆に抱きついた。飛季は実摘の軆を抱き起こすと、座ったかたちで擁した。実摘は、飛季の首筋に顔を埋めて震えている。頭を撫でてやると、実摘は飛季の肌に食いこみそうに密着してきた。
しばらくそうしていた。シャワーの水音がほてった鼓膜に透き通ってくる。水滴の流れる曇りガラスの向こうは、白みはじめていた。
飛季は、シャワーで自分と実摘の股間をすすいだ。コックを捻って湯を止めると、実摘を抱えてバスルームを出た。実摘は飛季に貼りついて離れない。飛季はリュックの肩紐をつかんで、洗面台に行く。
耳元でなだめると、実摘はおとなしく飛季を降りた。飛季はひざまずき、彼女の軆をバスタオルで丁寧に拭く。肩の傷がふやけていた。彼女の肌に水気がなくなると、飛季は自分の軆は適当に拭き、実摘を部屋に連れていく。
大きすぎる飛季の服を着せ、飛季も着衣する。実摘は飛季の服を握ってきた。問うと、彼女はぎゅっと抱きついてくる。飛季は実摘の頭にぽんぽんと手を乗せる。
思い出してリュックを渡すと、実摘は受け取った。はたとした様子で飛季を離れ、中を覗く。引っ張り出されたにらにはやはり水の染みがあった。実摘はおろおろと震え、飛季を仰いでくる。
良心が痛んだ。欲望でにらを犠牲にしたのは飛季だ。朝陽が昇ってきている。乾したらいいというと、実摘は執拗に拒否した。いつだか、にらが空中に逃げたときを忘れられていないのだろう。「留めておけばいいよ」と言っても実摘は躊躇う。太陽で乾かしたほうがいいのと、陰干しでは臭いがつくのを重ねて諭すと、実摘はにらを抱いてしぶしぶうなずいた。
朝陽が満ちる前のベランダは、蒼然としていた。空気は冷めていて、蝉もまだ鳴いていない。飛季はふとん留めを彼女に手渡す。実摘は手すりににらを干し、それで留めた。もぐもぐとにらに謝っている。飛季も、何となく内心でにらに謝った。
部屋に入ろうとすると、実摘はかぶりを振った。「ここにいる」とろくに掃除をしていなくて汚れている地面に腰をおろした。狭いし、これから暑くなるのを言っても、実摘は頑として動かない。飛季はさすがにあきれる。
眠かった。考えれば、ふたりも立て続けに抱いた。腰の疲労もある。正直、そこまで実摘につきあう気にはなれなかった。寝ていいかを訊くと、実摘は理不尽なそぶりはしても、許してくれる。飛季は一応謝罪して、部屋に戻った。
ベッドに倒れこんだ。スプリングがきしんだ。重たく仰向けになり、大きく息を吐いた。意識が薄らいでいく。
が、その状態が持続し、なかなか消えなかった。天井にひかえめな光がさらさらと踊り始める。
上体を起こして肘をつき、足元のベランダを見る。レースカーテン越しに実摘の背中がある。昇る朝陽に紛れてしまいそうだ。そう感じて、何だか怖くなった。
砂のおばけ。本当に、砂になって消えそうだった。軆を横たえていても、気になって実摘がいるか確認してしまう。
それを何度か繰り返し、飛季は息をついて起き上がった。そばについていないと、どうも心配だ。砂になって消える。実摘だと笑い飛ばせなかった。
飛季は、ベランダに行った。実摘は首を折ってくる。飛季はガラス戸を閉めて実摘の隣に座る。実摘はまばたきをする。いないほうがいいかと遠慮すると、実摘は首を横に振った。
にらと、その向こうの朝に切り裂かれていく空を実摘と眺めた。狭いここは蒸し暑く、水分をむしり取って汗を流れさせる。実摘が肩に頭を乗せてきた。飛季は彼女を一瞥し、その頭に頬を乗せ返す。
彼女の呼吸に、飛季のそれが重なる。朝の蒼さに光の微粒子が交わっていく。蝉の声も眠っていて静かだ。生温い夏風に、にらがはためく音だけが響く。
【第二十三章へ】