陽炎の柩-23

僕のものだから

 実摘に近づいたと思ったのは、こちらの錯覚だったのだろうか。乾いたにらを抱いて、実摘は飛季のベッドで眠った。飛季はベッドサイドの床に座り、実摘の無垢な寝顔を見つめていた。そのうち、睡眠不足と疲れにベッドに伏せって眠ってしまった。
 どのぐらい眠っていたのか分からない。目覚めてはっと顔を上げたとき、実摘のすがたは消えてしまっていた。
「元気ないね」
 街に出かけた飛季は、今日も柚葉と落ち合った。彼女と地上に上がって、人混みを縫って歩く。肌にまといつく空気には汗を流し、けばけばしいネオンには目を細める。
 ぼうっと視線を泳がせる飛季に、柚葉が腕を引っ張ってきた。覚醒した飛季は、慌てて柚葉を向く。
「何?」
「元気ないね、って」
「え、ああ、そうかな」
「ぼーっとしてる」
「ごめん」
 柚葉は窃笑して、引っ張った飛季の腕に軆を寄せる。
「悪いこと、考えてたの?」
「え、何で」
「謝ったじゃん」
 口ごもる。柚葉は笑い、そのあと小さなため息が聞こえた。盗み見ると、彼女の瞳には隠微な愁色がある。
「そういえば、あの子どうしたの」
「あの子」
「ミミ」
 どきっとした。実摘を想っていたと感知されていたのを、こちらも感知する。けれど、平静を装う。
「彼女が」
「探してたよね。見つかった?」
「こないだ、ちょっと逢ったよ」
「ふうん。どうだった?」
「元気、というか、まあ弱ってるとかはなさそうだった」
「そっか。あたしは、あの子見なくなったな。不思議な子だよね」
「不思議」
「淫乱が爆発したり、影もかたちもなくなったり。消える前、すごかったんだよ。話さなかったっけ」
「乱交、とか」
「うん。あの体力は、薬かもね」
 薬。飛季は抱いた実摘の軆を思い返した。注射の痕などはなかったが、薬物を摂取するのが注射だけではないのは知っている。
「心配?」
「え」
「ミミ」
「いや、別に」
 柚葉に瞳を覗かれる。飛季はそれを気まずく受ける。彼女はくすりとして、正面に向き直った。
「今時、薬なんて誰でもやってるもんね」
「俺はやってないよ」
「そりゃ、先生がやってちゃあね。しててもおもしろいけど」
「君はしてる?」
「しないよ。あたしはあたしでいるのが一番楽しいんだ」
 飛季は柚葉に目をそそぐ。飛季の視線に、柚葉は居心地悪そうに首をかたむける。
「何?」
「すごいな、って。そういうふうに、自分を言えるって」
 柚葉は決まり悪そうにして、「うぬぼれてるんだよ」とはぐらかした。飛季は少し咲った。
「ロウは、自分でいるの嫌い?」
「自分が自分でしかないのは、分かってるよ。好きかどうかは」
「そっか。何で自分は自分なのかって悩む奴いるよね。自分以外のものになりたいとか。あたし、そういうの分かんない。自分でくらい愛してやらなきゃ、誰があたしを愛するのって思うよ。そういうことに悩む時点で、その人は誰にも愛されないよ」
「そうかな」
「自己否定する人って嫌だよ」
「俺はけっこうしてるよ」
「してないよ。ロウは自己嫌悪じゃない?」
「自己嫌悪はしてもいいんだ」
「いつもしてたら困ってもね。ぜんぜんできない人も嫌だな。それはそれで厚顔無恥じゃん」
 言いながら、柚葉は飛季の脇腹に軆をつける。夏の薄着は肌の感触をよく通す。飛季も彼女も汗をかいている。
 しばし、無言で街を歩いた。ざわめきや、すれちがいざまの人の話し声が断片的に聞こえる。音楽もかすめる。柚葉は飛季の体温に目を細める。飛季は彼女のさらさらと揺れる髪を見つめる。だんまりとしても、居心地は悪くない。
「ねえ」
 柚葉の首筋に流れた雫が、よぎった桃色の光を反射したときだ。柚葉が沈黙を破いた。
「訊いてもいい?」
「うん」
「ロウって、さ。あたしをどう想ってる?」
「えっ」
「あたしのこと」
「………、どうって」
 柚葉はぴったりと肌を寄せてくる。飛季は狼狽える。
「あたしも大バカじゃないし、その場の雰囲気とかは分かるの。というか、分かっちゃう。でも、ロウは分かんないよ」
 柚葉は数秒口をつぐみ、つぶやく。
「ロウには、いつもミミがちらちらしてて」
 心臓がこわばった。ミミ。実摘。実摘がちらちらしている。そんなつもりは──
「ミミがいるのはよく分かるの」
「いないよ」
「いるんだよ。あたしは、分かんない。知りたいの。あたしを、どう想ってる?」
 飛季が言い澱んでいると、柚葉は足を止めた。飛季も立ち止まる。道端で、近くに路地裏はない。
 柚葉は飛季に軆を重ね、そばのシャッターに飛季の背中を当てた。飛季はシャッターと柚葉に挟まれる。暗がりに柚葉の瞳が炯々としている。
「柚葉、」
「分かんない」
「え」
「あたしだって、何でロウにほかの人がいるのがムカつくのか、分かんない。恋愛なんかするつもりなかったのに」
 すぐ手前には人通りがある。しかし、誰も注意は向けない。
「教えてほしいの。悪い返事でも構わない」
 飛季は何も言えない。
 強い罪悪感があった。ちっとも感づけなかった。この少女を、飛季とは次元の違う少女を、こんなに思い詰めさせて──
「あたしはね」
 柚葉はかかとを上げる。
「あたしは──」
 唇がぶつかる。引くヒマはなかった。柚葉は飛季の首に腕をまわし、きつく吸う。激しかった。貪られる飛季は、彼女の痛切さに圧倒されて受けるしかできなかった。
 柚葉。嫌いではない。好きだと思う。けれど飛季のそれと彼女のそれは釣り合っていない。確かに飛季にはちらついている。紛れそうな背中、澱んだ瞳、破壊された心──
『飛季……』
 飛季は向こうを見やった。そして、目を剥いた。そこには敵愾心をあらわにし、全身をわななかせて踏んばる少女──
 実摘が、いた。
 飛季が気づいたのに気づくと、実摘は瞳に殺意をたぎらせた。その先が柚葉であるのを悟り、柚葉と軆を離そうとした。遅かった。突進してきた実摘は、柚葉の腕を鷲掴んだ。
 柚葉は振り向き、目を開く。実摘は飛季から柚葉を引き離すと、手を振り上げた。飛季はとっさに実摘を抑えこむ。それでも実摘はめちゃくちゃに暴れ、飛季の腋の下に首だけを捻り出した。立ちすくむ柚葉に、彼女は大量の唾を吐く。
「この淫乱っ、病気もほどほどにしろ、こいつに手え出すんじゃねえっ。こいつは人殺しなんだよ、てめえになんか手に負えないんだ。身の程知らず! とっとと失せろ、ムカつくんだよ、目障り──」
 飛季は、実摘の口を塞いだ。実摘は飛季の手を咬んだ。それでも外さなかった。
 柚葉に『行け』と目配せする。柚葉は躊躇いつつも、その場を後退る。何度か振り返りながらも、彼女は人混みにいなくなった。
 暴れる実摘を飛季は抱きこんだ。実摘は落ち着かない。頭を撫でても頭蓋骨を揺すぶり、口づけようとすれば舌に咬みついてこようとする。さすがにこの実摘の狂態には怪訝そうにする人がいる。
 飛季は実摘を無理に抱き上げた。実摘は手足をばたばたさせた。まるで、飛季が彼女を誘拐しようとしているようだ。
「実摘」
 実摘はばたつかせる脚で飛季を蹴飛ばしてくる。
「実摘、俺の部屋に行こう。おうちに帰ろう。あそこで落ち着いたほうがいいよ。俺も一緒にいるから」
 実摘はいきなり暴れるのを鎮める。
「いっしょ……」
「そう。一緒に帰ろう。そばにいるよ」
 実摘は静止し、そのあと、軽くむずがった。飛季はそっと彼女を地面に下ろす。実摘は真正面の飛季の胸を見つめると、苦しげにうなだれた。
 飛季は彼女の肩に手をかけようとして、気づく。実摘が着ているのは、数日前、やっと再会したときに飛季が着せた服だ。大きすぎる、飛季の服だった。捨てなかったのだ。初めて、再会した彼女が同じ服を着続けているのを見た。
 飛季は胸が痛くなり、つい手を浮かせっぱなしにしてしまった。すると、実摘は再び肩を怒らせた。はっと緊張した飛季の腕を乱暴につかむと、ずんずんと引っ張り出す。その強引さに飛季の脚はもつれかけた。
 名前を呼んでも無視される。どうも、触るのを躊躇されたと思ったらしい。あきれるより、切なくなった。

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