陽炎の柩-24

幻になるように

 その調子で街を出て、駅前を抜け、彼女は飛季の部屋に向かう。夜が更けていた。通り過ぎる街燈には、蛾などの虫がひらついている。その虫にさえぎられたり放たれたりしながら、歩道に光が降りそそぐ。
 実摘がかなり怒っているのが見て取れた。自販機やコンビニの明かり、車のヘッドライトにくっきり照らされたりすれば、実摘の白い肌に青い血管が浮いているのさえ艶めく。どう落ち着けるか悩んでいるうち、マンションに着いていた。
 エレベーターは、しばし待たなくてはならなかった。飛季はおそるおそる実摘を見おろす。実摘はつけいる隙のない眼で、こちらを睨めつける。エレベーターが来ると、実摘にぐいと腕を引かれ、飛季は続く。実摘は六階を押した。
 浮遊感覚がする。実摘は肩を震わせ、爆発をこらえている。飛季は子供のように畏縮してしまう。どうも飛季は、この子といると大人の威厳をたもてない。
 六階に着くと、部屋に引っ張られて鍵を開けさせられた。室内は熱気がこもって蒸している。ドアを閉めた途端、実摘の慮外の力で軆を裏返しにされる。構える間もなく、頬を強かに引っぱたかれた。
「実摘──」
「このくそったれ、またあいつとやりやがったなっ」
 まだしていなかった、と情けない反論が口を突きそうになったが、その前に実摘に部屋に押しこまれる。平手でつけられた白熱燈は、実摘の激昂した瞳に飲みこまれた。
「てめえの竿は突っ込めればどんな穴だっていいのか、ああっ? ちきしょう、お前の頭の中はやることだけなんじゃねえのか、一日中あいつにぶちこむことばっかり考えてるんだろっ。てめえの頭の中は腐ってるんだよ、根暗は頭が狂ってるんだ。てめえは気違いだ、淫乱だ、一生治せない目障りな病気なんだよっ。淫乱は抹殺しろ! 紙クズは燃やしちまえばいいんだ。紙クズのくせにのさばりやがって、てめえは鬱陶しいんだよっ。何でそんな、えぐりたくなる目しかできないんだよ。お前は犯罪なんだ、そこにいるのが犯罪なんだよっ。てめえは存在が罪なんだ、まだ分かんねえのかよ、死ねって言ってんだよっ。ここから失せろ、淫乱のくせに! 全世界の淫乱を抹殺しろ、燃やせ、冒涜だ、淫乱は冒涜だ、世界中、世界中の淫乱を抹殺するんだっ。そのくそったれの竿は、ちぎって燃やすんだ。変態は全部焼け死んで、土の中でやってればいいんだっ」
 実摘は喉を剥いて笑った。返り血を浴びたような哄笑だった。
 飛季は茫然としている。あまりの脈絡のなさと、凄まじい憎悪に。
 突然実摘は笑いを絶ち、飛季に目を剥いた。胸倉をつかまれ、引き攣った顔が間近に来る。飛季は息を詰める。
「てめえは死体になってもあいつとやるんだろ、ふざけんなよっ。ちぎってやるからな、てめえの竿なんか咬みちぎって踏みつぶしてやる。てめえは冒涜だ、犯罪だ、そんなもんは斬っちまったほうがいいんだっ。お前の竿はクズだ、冒涜なんだよ、病気に竿はいらねえんだ。斬っちまえっ。斬って燃やせっ。淫乱の竿は役立たずだ、ゴミだ、この世の終わりだ!」
 唾が顔にかかる。実摘の顔は近すぎて見えない。飛季は言葉を失っている。
 実摘は嘲弄の暴言を連綿と吐き続ける。どうしたら紡ぎ出せるのかと思うほど、どぎつくとめどがない。
 実摘は飛季を押しやった。急な反動に飛季はベッドのシーツに手をつく。実摘は、飛季の顔面に中指を突き立ててくる。飛季は首をすくませる。
「てめえの竿はこれなんだよ、中指だ、てめえの竿は冒涜なんだ。穴に冒涜をぶちこんで喜んでるんだっ。変態だ、病気だ、狂ってる、くたばっちまえばいいんだっ。全部殺せ! 淫乱なんか、全部──」
 飛季は実摘の中指をつかんだ。実摘は一瞬息を飲み、その瞬刻に飛季はつけいる。
「君だってそうだ」
「……えっ」
「淫乱なんだろ。君もクズじゃないか」
「………」
「君も冒涜だ」
 実摘は唇を舐めた。こもった笑いをもらした。頬を痙攣させ、彼女は笑う。
「そう、そうだ。僕も淫乱だ。変態だ、冒涜だよ。僕はクズだ。見えない、いない、土の中だ。人間のゴミだ。かす、カスだけだ。からっぽ、からっぽ、から──」
 実摘はふわりと脱力した。飛季は慌てて崩れた彼女を抱きとめた。実摘は震える。もうあの憤慨でなく、怯えた子供の震駭だ。
「実摘──」
「いや、あ、いない、いないよ。僕なんかクズなんだ。病気だよ。死ねばいいのに。こんなの狂ってる。人間じゃないよ。ゴミだよ。嫌だ。助けて。お願い。殺して。助けて。触らないで。嫌だよ。ごめんなさい。たすけて。はやく。ころして、たすけて、さわって、いやだ、さわらないで、こわいよ。たすけて……」
 実摘はとりとめのないうわ言を繰り返した。彼女の涙が飛季の服を濡らしていく。震える軆は、自分が無意味だと怯えている。
 彼女がゴミでも飛季はよかった。変態でも、病気でも、構わない。彼女が冒涜であっても、この子は無意味じゃない。少なくとも、飛季には──
 飛季は実摘を抱いて頭をさすった。無性に実摘が愛おしかった。この子が愛おしい。
 淫乱。変態。冒涜。この子のすべてを許したい。
「飛季……」
 実摘の細い声が沈黙をめくる。覗きこんだ実摘の瞳は、しっとり濡れている。映る飛季が揺らめく。実摘は飛季に抱きついて、胸にもぐりこんでくる。飛季も実摘を抱きしめる。
 汗の匂いがする。飛季はあの傷に軽く口づけた。実摘は飛季にしがみつく。
「飛季」
「ん」
「飛季ね、あったかいの」
「え」
「ぬくぬく」
 飛季は実摘の栗色の髪を見つめた。実摘は照れた様子で飛季の胸に鼻をこすりつける。飛季は微笑んだ。あったかい。意味は分かった。実摘はいつも、寒いか熱いかだったのだ。
 飛季ははにかむ実摘の頭を撫でた。実摘は嬉しそうに喉の奥を鳴らす。
 彼女は飛季に体重をかけて、ベッドに押し倒した胸にぱたんとうつぶせてくる。背負いっぱなしのカーキのリュックがごそっと音を立てる。「ねむねむ」と言う彼女に、飛季は咲った。抱えた実摘ごと、ベッドと軆の向きを平行にする。
 まくらに頭をおさめた飛季の腋に実摘は顔をうずめてくる。彼女の軆は心地よさそうに力を抜く。眠るかを問うと実摘はこくんとした。飛季は実摘の背負うリュックをおろさせ、上体を伸ばして彼女の向こうのベッドの下に置く。「一緒」と彼女が言うので飛季もシーツに横たわった。盗み見た時計は、零時をまわっていた。
 リモコンで明かりを消すと、実摘が絡みついてくる。腕は背中に、脚は脚に。お互いの体温が肌に伝い合う。
 クーラーはつけず、部屋は蒸し暑かった。それでも飛季と実摘は、密着するのを厭わなかった。混じり合った汗が肌を蕩かしていく。
 実摘はぴったりと飛季にくっついている。飛季は彼女を感じた。鼓動も聴こえる。実摘の心臓は激しく脈打っている。
 飛季は秘かに揺蕩う。自分はこの子が愛おしい。心を蝕まれていると思う。けれど、彼女は──。
 飛季が髪に口づけると、実摘はほてった息を吐く。抱きしめる彼女の軆は深々と熱い。もう自分は、この子の心を摘みとってもいいのだろうか?
 ──翌朝、目覚めると全身が汗びっしょりだった。仰向けになった飛季はこめかみや胸に流れる、わざとらしいほどの汗にため息をついた。前髪をかきあげてのっそり起き上がる。カーテンの隙間の朝陽がよれたシーツに伸びている。
 シーツの皺に手を這わせ、その湿り具合に驚かされた。ひとりでこんなに汗をかいたのか。そう思って、気づく。違う。ひとりではない。昨日は実摘と眠った。
 ベッドを見下ろした。この軆の自由の通り、実摘はいない。きょろきょろしても、どこにも実摘のすがたはない。窓辺にもキッチンにも、シャワーやトイレで物音もしない。
 出ていったのか。そう思い当たって、思わずうなだれた。
 昨日こそは、実摘の心と疎通できたと思ったのに。またもや勘違いだったらしい。いったい、彼女はどういうつもりなのだろう。飛季の交遊を妨げ、罵り、許容すると甘える。飛季に気を持たせると、こうして勝手に蒸発する。わけが分からない。もてあそばれているだけなのか。
 シーツの肌触りが急激に忌ま忌ましくなる。変えなきゃなとベッドを降りようとした。
 そして、初めて気がつく。実摘の気配は完全に失せているのに、そこにカーキのリュックとわずかにはみでたにらまでもが、置き去りにされていることに。

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