大人は情けない
遥を思い切れないのには、思い切るには彼が問題を起こして、目を引かせるのもある。鬱になったり、切れたり、不良化したり、保健室送りになったり──
今回も遥が厄介を起こしたおかげで、僕はあえなく彼を思い切ることを害されてしまった。
「天ケ瀬」
六月も中旬に入った木曜日、その日は小雨が降ったりやんだりの煮え切らない天気が停滞していた。
四時間目が終わったあと、さすがにこんな天気の日は教室で昼食を取る。つくえを動かすのが面倒で、僕たちは教壇にたむろしていた。白熱燈を映す新鮮に赤いプチトマトを片づけようとしていた僕は、不意に名字を呼ばれて顔を上げた。
思わず頬が引き攣りかけて、慌てて止める。声のした入口にいたのは、遥を切れさせて以来、すっかり二年七組ではおとなしくなった数学の広田だった。
天ケ瀬、とは僕だろうか。遥だろうか。広田が好きこのんで遥に会いにくるとは思えなくても、「遥ならもう帰りましたよ」と段に座る僕は浅はかに言ってみる。
「そうか。ちょうどいい。お前に話があるんだ」
桐越たちと顔を合わせた。「何かしたのか」と桐越が小さく訊いてきて、僕は首を振る。
「話って──」
「すぐ終わる」
「あいつの甘い言葉は正反対に取っていいぞ」
日暮が忠告し、同意でうなずきながらも、そこにいるのを無視するわけにもいかない。「落ち着けないねえ」と笑った成海を小突くと、僕は教壇に弁当箱を置いて入口に駆け寄った。
「何ですか」
「ちょっとこっちに」
広田はやけに恐縮していて、僕は桐越たちに首をかしげてみせて、ついていった。
階段の手前で、太った広田と小柄な僕は向き合う。
薄暗さを白熱燈で紛らす廊下には、雨の日特有の、心細い空気がただよっていた。生徒の行き来はあっても、肌寒いせいか階段で昼食を取る生徒はいない。右手の窓の先では、頼りない小雨が本棟とあいだでしとしとしている。
「天ケ瀬──遥のことなんだ」
広田の口調は歯切れ悪く、面持ちは心苦しそうだった。広田といえばねちこく尊大、という印象ができている僕は、そんな、普通のおじさんみたいにされても困ってしまう。
「遥が何か」
「家では、どうだ」
「………、学校と変わりませんよ」
「そ、そうか。今日はあいつは来てたのか」
「三時間目にはいました。そのあとどっかに」
「そうか」と広田は上の空にうなずく。
何だろう。遥なんて、この人は無視しておきたいのではないか。僕が怪訝に眉と瞳をゆがめていると、「実はな」と彼は教頭に学年主任として遥を指導しろと言われたのを語りはじめた。
遥が僕と同じクラスだと伝えにきたのが教頭だったように、遥の過去は上層部にも伝わっている。僕の両親にも、元いた病院にも、手荒くあつかわないように言われていた学校側としては、遥が変なのとつるんで非行に走るなど名誉の大問題なのだった。
担任では手に負えないと判断され、学年主任の広田にお鉢がまわってきた。そのへんの生徒には、その立場を大いに利用してしごいてくる広田も、遥にはその肩書き本来の重さを感じさせられて参っている様子だ。
「それで、先生はあいつと話をしなきゃならないんだが──」
「遥にそれを伝えとくんですか」
空腹で胃が痛みを起こしはじめていた。そうとしか思い当たれなくて言うと、「それもあるんだが」と広田は言い渋る。腹減ってんのに、と僕はその態度に即物的にいらだつ。
「いや、その、伝えなくても、あいつが来たのを先生に教えにきてくれてもいいんだ」
「あー、はい。分かりました。じゃ」
さっさと身を返そうとすると、「こらっ」と広田は理不尽に僕をしかりつける。僕はうんざりと振り返って、「お腹空いてるんですけど」とごく正当な抗議をする。広田は少し臆しても、「お前はあいつの家族なんだろう」といつものえらそうな態度で威してくる。僕は隠微に瞳に軽蔑を混ぜて、広田の前に戻った。
「先生が遥を呼び出すことに、僕は関係ないじゃないですか」
「そ、その、こないだのはお前も憶えてるだろう。お前にも迷惑をかけたんだし」
「あ、また切れさせたときに、前もって謝っておくんですか」
「いや、その──切れさせないように、立ち会ってほしいんだ」
「は?」
「先生と一緒に、あいつとの話し合いに混じってほしいんだよ」
「何でですか」
「あいつが癇に障ったとき、お前が察してなだめてほしいんだ」
「そんなん、自分でしてくださいよ」
広田は僕を見て、あ、と僕も口ごもった。言ってしまった。この失言のくせは、どうかならないのか。
だが、広田は遥に関して自信がないのか、「確かにな」と首を垂れた。
「先生には、あいつがどういう基準で切れたり冷めたりするのが分からないんだ」
「僕も分からないですよ」
「ある程度は察せるんじゃないか」
「分かんないですよ。僕は僕の基準でいらつくんですし」
「……そうか。じゃあ、お前の感覚でいらつくと思ったときだけでも、あいつに気を遣ってほしい。頼むよ」
僕は、胡散臭く広田を見つめた。
そんなもの、建て前ではないだろうか。遥に権力を蹂躙されたこの教師は、彼とさしむかいになるのが怖いだけに違いない。
遥は放っておこうと決心したばかりなのに。「天ケ瀬」と哀願じみた顔で迫られて僕は後退り、「僕がいるせいで、逆に遥がどうなっても知りませんよ」と忠告はして、仕方なく引き受けた。
ぶつぶつしながら教室に帰ると、僕は三人にいきさつを愚痴って笑われた。「もう子守りだな」と言った桐越にジト目をして、僕はプチトマトを欲しがった成海に譲り、好きなものを食べる。
またいざこざが起こりそうだなあ、と僕は窓のほうを見て、今度の日曜日には希摘に会いにいけるのを想って、何とか心を鎮めた。
「遥」
雨は小休止しても曇り空の翌日、一時間目が終わったあと冬服の遥は、何気なく教室に現れた。桐越たちにつつかれ、僕はいやいやながら遥の席に近寄って声をかける。
頬杖で無気力にしていた遥は、僕を認めると、不機嫌に敵意も重ねた。僕は愛想咲いしそうになったのを抑え、「あのさ」と居心地悪く床ににじる爪先を見る。
「数学の広田が、話があるって言ってたよ」
遥に上目をすると、遥は聞いていなかった。「聞いてる?」と訊いても無視される。僕はポケットに指を引っかけ、「嫌なら遥がそう言ってよ」とこっそり目をとめている周囲を気にしながら言う。
「僕が言ったって、あいつ聞かないんだよ」
「……あいつが自分で言いにきたらいいじゃねえか」
「怖いんでしょ。僕に頼みにきたときすらビビってたもん」
遥は僕を見た。彼の物騒に冷えこんだ眼を刺されるのは久しぶりだ。その瞳や表情の冷たさで、遥は暑いであろう冬服も暑苦しく見せない。
「話って、何の話だよ」
「日頃の行ないじゃない?」
「何であいつが、そんなことに口出すんだ」
「学年主任だもん。教頭に指導しろって言われたらしいよ」
遥は頬杖をとくと、不快そうにつくえの傷を見つめた。「嫌なら断れば」とポケットの指を外して僕が言うと、遥はいつ切っているのか、長さが一定の前髪の隙間でこちらを射る。
「断ってくれたほうが僕も助かるよ」
「何で」
「僕も立ち会えって言われてるから。遥が嫌なら、しつこくしないんじゃない? 神経に障りたくないとか言ってたしさ」
遥は灰色の瞳をつくえにやって黙りこむ。「一応、僕が断ってみようか」と尋ねると、遥は突然立ち上がった。どきりと見上げると、「今済ましておく」とぞんざいに言って遥はそばの後ろのドアに足を踏み出す。
済ます、とは──断っておく、ということか。そうだろう。だったら僕は立ち会わなくていいよな、と桐越たちのところに戻ろうとすると、遥は研がれた動作で僕を見返った。
「立ち会うんじゃないのか」
「え、断るだけでしょ」
遥は何も返さず僕を見る。まさか、話す気なのか。
僕は足元に辛気臭い息をつくと、あーあ、と内心ひとりごちて遥と教室を出た。
遥と並んで人混みを歩くのは気詰まりだ。彼の怜悧な容姿と危険な雰囲気に視線が集まり、平凡なこちらは、遥に押されて見えない空気と化す。
職員室は、靴箱のすぐ左にある。一階に降りた僕たちは、本棟の廊下をまっすぐ歩いてそこに到着した。したのはいいが、着いた途端にチャイムが鳴った。
が、遥は暗黙の礼儀の一礼もせずに職員室に入っていく。次の授業は国語だ。担任の授業か──まあいいか、と僕は捨て鉢になって遥を追いかけた。
空き時間なのか、広田は職員室にいた。遥は広田の顔を憶えていない様子で、どれが自分を呼び出した教師か視線を彷徨わせている。「あれだよ」と僕は中央近い場所でプリントに目を通す広田をしめし、「先生」と呼びかけもした。といっても、ここにいるのは全部先生なわけで、何人かが振り返り、けれど顔をこわばらせる反応をしたのは広田ひとりだった。
来るよう手で招かれ、僕たちは散らかったつくえやキャスターつきラックがごたごたする合間を縫って、そこに行った。
職員室は、いつ来てもコーヒーと煙草で煙たい。生徒が飴玉を持ってきただけで怒りまくる教師が、ここでクッキーなんか食べたりしているのだから、本当にいただけない場所だ。
広田はプリントをまとめ、椅子に座ったまま僕たちと向き合った。
「授業が始まったんじゃないのか」
「帰ってもいいですよ」
「い、いや──誰の授業だ?」
「担任です」
「そうか。じゃあ、先生から言っておこう。ここじゃ何だから、あっちに行くか」
遥はそっぽで瞳に前髪をかけ、おもしろくなさそうな不快を浮かべている。その遥に、咎めたいような関わりたくないような顔をした広田は、僕たちを生徒指導室に連れていった。
【第三十二章へ】