冬になって
九月が過ぎ、十月になっても太陽は空気を煮え立たせて、残暑が厳しかった。もうカレンダーでは秋なんだけどなと思いつつ、汗をぬぐいながら出社する。蒸し暑い階段で「おはようございます」と同僚に声をかけられ、同様に返しながら笑みを浮かべられるくらいにはなった。二階のバックヤードはエアコンで涼しく、ほっとため息をつきながら、自分のデスクに荷物を下ろす。
PCに来ているメールをチェックしていると、九時前に簡単な朝礼があり、それから各自の業務に入る。僕はPCと向かい合って在庫の数値に目を走らせる。こんな毎日の変わらない作業さえ苦しかったものだけど、だいぶ冷静にやりすごせるようになってきた。
秋はそんなふうに、淡々と過ぎていった。変わったのは、やっとスマホの通知を入れるようになったので、何かメッセが来たらその日の夜までには返信するようになったことだ。優空を亡くして、もう誰とも関わりあいたくないと閉じこもっていたけれど、最近は人とコミュニケーションを取るのも必要かなと思う。もちろん、もともとの内向的な性格はあるから、活発に動きまわるわけではないのだけど、連絡をくれる人にはちゃんと応えたい。希都。聖空さん。梨苗ちゃん。みんな、僕が反応を返すようになったことを喜んでくれた。
そうしていると十一月になり、ようやくすりぬける風に冷気が混ざるようになってきた。特に朝と晩はぐっと冷えこむ。朝起きたら、まずは温かいものを飲んで一日を始める。
その日もまろやかなコーンスープを飲んで、テレビをつけると時刻をちらちらしながら、出勤の支度を始めた。ざっとシャワーを浴びて、ワイシャツに腕を通す。相変わらず料理はしないけれど、さすがにトーストぐらいは用意する。味覚も戻り、胃に無理に押し込むような感覚もない。そして歯を磨くと、かばんの中身を確認して、ソファに投げていたスマホをポケットに入れて部屋をあとにした。先週はぐずついていた空も、今週はさわやかな秋晴れを広げている。
何事もないように生活しながら、秘かに心臓が緊張しつつもあった。もうじき十二月なのだ。優空が亡くなって一年が経つ。まだ一年なのか、と電車に揺られながら車窓の景色に目が遠くなった。もう一年、とはあまり感じない。そんなにさくさく進んだ時間ではなかった。ぐちゃぐちゃと膿むような感情を味わい、蹌踉と過ごした。すごく長かった。
海に行った夏頃からやっと時間の流れがのしかからなくなったような気がするけれど、冬と春はまだつらくて気持ちに光もなかった。闇の中で時間の感覚も浅く、喪った体温に泣いてばかりだった。それが今ではなくなったというわけではないけれど、時間の流れに身を任せることはできるようになった。しかし、十二月には僕は立ち止まらなくてはならない。優空の死と再び向き合うことになるのだ。
クリスマスだったんだよなあ、と扉のガラスに頭をもたせかける。まるで瞳に記録されているように、優空の死に顔ははっきり憶えている。あんまりじっくり思い出すと、いまだに瞳が滲みかけるほどに。優空を喪って一年、僕は乗り越えたとはいえなくても、容赦なく時間は過ぎてクリスマスが近づいてくる。
『真永くん、こんばんは。
今年のクリスマスって、何か予定入れた?』
一日の仕事が終わってスマホを見ると、聖空さんからそんなメッセが届いていた。僕は首をかたむけ、返信を考えながらひとまず退社する。歩きながら、予定は何もないことを送信しておいた。いったんスーツのポケットに入れたスマホを、駅に着いてから取り出すと聖空さんの返信が来ている。
『だったら、私と私の両親と、一緒に食事でもしない?』
聖空さんと、そのご両親と──優空の家族と。そういえば、僕もクリスマスは自分が心配だから、誰かと過ごそうとは思っていたっけ。優空の家族に挨拶に行かないといけないとも思っていた。ぽん、とメッセが続いて表示される。
『うちの両親も、真永くんのこと心配してるから、顔見せてあげてほしいの。』
優空の両親とは、葬儀のあと特に連絡は取っていない。一年前、優しい言葉をかけてもらったはずだけど、優空の喪失にふらふらしていた僕は、どんな言葉だったか憶えていない。ただ、聖空さんにご両親が僕を気にかけてくれているのは聞いていた。
『家族で過ごすなら、僕が混ざっていいんですか?』
『前にも言ったでしょ、真永くんはもう私たちの家族だから。』
僕は自分の両親を思い出し、確かにあの人たちより優空の家族のほうが好きだなと思う。
『優空にも会ってあげて。
真永くんにお線香もらえてないの、寂しいと思うよ。』
優空にお線香、とか、遺影と向き合う、とか。そういうことはいまだに怖い。死んだ優空を正視できるか自信がない。それでも、優空はきっと待っているのだろうなとは思う。僕が仏壇の前に正座し、話しかけるのを、きっと。
クリスマスは仕事だけど、閉店後に優空の実家に向かえば遅めの夕食は可能だ。何なら、優空の家族に市街地のレストランに出てきてもらってもいい。クリスマスの食事は承諾し、僕は帰路に着いた。クリスマスに会うならプレゼントを考えるべきだろうか。いや、向こうが堅苦しく考えていなかったら、変な重荷になるか。しかし、優空に花は買っていったほうがいいのだろう。
すぐに十二月に入った。吹き荒れる風の冷えこみが急に強くなり、外を歩くとコートを着こんでいても軆が冷たくこわばる。クリスマスの食事は、僕が優空の実家におもむくことになった。その日の日中には優空の家族は墓参りにも行くそうで、僕も誘われたものの、仕事があるので夕食にだけ参加するのを了解してもらった。
そういえば、優空の墓参りには一度も行けていない。いつかは向かい合わないといけないと分かっていても、優空のために花を選びにいくことにさえまだ息苦しさを覚える。ぼんやりスマホのカレンダーを眺めて、去年の今頃、手術だったなあとか危篤になったっけとか、そんなことを思っていると、クリスマスイヴの夜になった。
仕事から帰宅すると、リビングのソファに沈んで掛け時計を見つめた。優空の生きていた時間が、刻々と遠ざかる。たぶん、一年前の今は、また明日優空に会えると思って眠りについた。そんな時間まで何もせず起きていて、僕は抱えた膝に顔をうずめた。そして、この夜が明ける頃に優空は亡くなってしまったのだ。生々しく涙がこみあげることはなくても、彼女が僕の世界から欠けてしまった現実が胸を穿つ。
クリスマスの朝は所作が重かった。本当に、せめて夜は優空の家族と過ごすことにしておいて正解だった。こんなの、ひとりでは耐えがたい。優空の死を知り、神経がばらばらになったようなあの感覚がよみがえって息が止まりそうだった。それでも仕事はこなし、定時で上がることもできた。駅ナカの店でシュークリームを買って、優空の地元にあった花屋で赤いバラとカスミソウの切り花も用意した。それから聖空さんに連絡を入れると、『すぐ迎えにいくから、改札にいて』と返ってきた。
時刻は十九時をまわり、すっかりあたりは暗かった。小さな商店街に面した駅で、花屋だけでなく、八百屋やパン屋、文房具屋なんかも残っている。店が開いているせいか人通りはあっても、「二十時にはみんなぱったり店閉めちゃうんだよね」と優空が語っていたのを思い出す。
北風が吹きつけてコートに身を竦め、花屋から改札に戻ると、十分ぐらいで「真永くん」と名前を呼ばれた。顔を上げると、会うのはけっこう久々になる聖空さんが、セミロングの髪を風に流しながら駆け寄ってきた。
「聖空さん。久しぶり、ですよね」
「そうだね。ちょくちょくメッセはさせてもらってるけど」
「通知鳴るようにしました」
「そうなんだ。どうりでちゃんと返事があるはずだ」
白のニットワンピースとチャコールのレギンスを合わせる聖空さんは微笑み、僕も思ったより咲い返すことができた。「咲えるじゃない」と聖空さんは僕を小突き、それから僕が花を持っていることに気づく。
「優空に?」
「あ、はい。それと、プレゼント分からなくて食べ物。シュークリーム買ってきました」
「いつつ?」
「もちろん」
「ふふ、じゃあありがたく」
聖空さんは僕の手からシュークリームの箱を受け取り、「こっち」と歩き出した。優空の実家は行ったことはあるけれど、道は憶えていないので急いでついていく。
「お昼、お墓に行ってきたんですよね」
そう問うてみると、聖空さんは僕を見上げてうなずく。
「お骨自体はまだ家にあるんだけどね」
「そうなんですか」
「両親が自分たちも入るときに入れてやってくれとか言うの」
「そのほうが、優空も寂しくないですよ」
「まあね。でも、両親もいつかいなくなるとかまだ考えたくないや」
「聖空さんは、彼氏とかいましたっけ」
「ここ何年か気になってる人はいるけど、彼氏ではないかな。ふたりで飲みにいったりはする程度」
「職場の人ですか」
「部署は違うけどね。といっても、彼とはプライベートで会うことはぜんぜんないし、そろそろ見切ってまじめに婚活かなあ」
「結婚はしたいんですね」
「強い憧れはなくても、まあ、ひとりで歳を取る強さはないし」
視線を下げる。ひとりで歳を取る強さ。優空を想いつづけていたいと思うけれど、僕にもそんな強さはないように思う。しかし、かといってほかの女の子なんて想像もつかない。
「真永くんは」
「えっ」
「真永くんは、この一年、出逢いとかなかった?」
聖空さんに目を向ける。ざあっと強い風が抜け、髪を揺らす。僕は弱く咲うと、「ないですよ」とだけ言った。
「まだ、とうぶんは優空がいなくなったことを受け入れる時間です」
「……そっか。そうだね」
聖空さんは風に乱れた髪を直し、人が並ぶバス停のそばを抜けて、駅前と住宅街のあいだの横断歩道に立ち止まる。
「そういえば、今日、お墓で梨苗にも逢ったよ」
「梨苗ちゃん」
「今夜は創作仲間とパーティだって」
「ああ、クリスマスはひとりで過ごすのつらいよねって前に話しました」
「あの子は結婚しないのかなあ」
「昔の恋愛をちょっとこじらせてるのかも」
「幼なじみ?」
「知ってるんですか」
「相談もされたし。男は自分の初恋は美しく語ってくるのに、女が初恋を語ると目くじら立てるんだよね」
「………、優空の初恋って聞いたことないです」
「梨苗がそれで失敗したから、真永くんには話さないって言ってた。そういうとこ、堅かったかもね」
信号が青に切り替わり、横断歩道を渡る。一軒家とアパートが並び、戸建てには壁や垣根をクリスマスイルミネーションを飾っている家もある。サンタ、ツリー、雪だるま、トナカイ、靴下。いろんなモチーフがちかちかと闇に浮かぶ。風音以外静かで、靴音が響く。
「聖空さんは、優空の小説って読んだことありますか」
「あれ、その黒歴史知ってるんだ」
「黒歴史……なんですか? 梨苗ちゃんが、文化祭でコラボしたことで仲良くなったって言ってて」
「懐かしい。優空の書いた原作は読んだことないけど、梨苗が漫画にしたほうなら読んだよ」
「いいなあ。梨苗ちゃんの漫画も読んだことないです」
「スマホで配信読めるでしょ」
「優空が男向けじゃないよって言ってて」
「男が読んじゃいけないわけでもないよ。ダウンロード数伸びるのは普通に梨苗も嬉しいんじゃない?」
「そうなんですか」
「よく分からないけど、ダウンロード数は大事みたい」
「じゃあ、今度読みます」
「うん。──あ、あの動物病院、目印。あれを右に曲がったら、すぐうちだから」
確かに住宅街の中に普通に動物病院が混ざっていて、その角を右折すると見憶えのある優空の実家があった。「もう夕食の準備は終わってると思う」と言う聖空さんについていき、『大村』という表札を確認しつつ、門扉と庭を抜けてドアの前に立つ。
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