彼女の初恋
連休に入った年末は、散らかる部屋をようやく片づけようと思い立ち、掃除をした。一年間、最低限の水回りくらいしか掃除しなかったから、かなりの大掃除だった。掃除機をかけ、ふとんを干し、何袋もゴミを出す。始めたら、納得いくまで掃除しようとむきになり、集中できた。そして大みそかにはだいぶ部屋は綺麗になり、僕はリビングのソファでカップ麺の年越しそばを食べた。
夜に手持無沙汰になると、思い出して梨苗ちゃんの漫画を読んでみたりした。けっこう性描写があって鼻白み、これが女性向けになるのか、とか思っていると年が明けた。
『あけましておめでとう』を伝えるメッセがスマホにちらほら届いて、返信していると、梨苗ちゃんからもメッセが届いた。僕は少し考えて、『梨苗ちゃんの漫画、読んでみたよ。』という言葉を添えてみた。すぐ既読がついて、十秒後に通話着信が来た。僕は『応答』をタップしてスマホを耳にあてる。
「あけまして──」
『待って、私の漫画読んだの?』
「え、まあ。ダメだったかな」
『どの話?』
「え、ええと、上司と後輩で三角関係の」
『お……男の人に読まれるって、なかなかに複雑だなあ』
何だか撃沈するような梨苗ちゃんの声に僕は焦る。
「ごめん。聖空さんも読んでみればって言ってくれたから」
『……どうだった?』
「………、大人向けというか」
『エロはどうしても入れなきゃいけないのっ。何かもう、ねじこんででも入れろって言われるの』
「読者の人に?」
『編集さんだよ。エロ展開も嫌いじゃないけど、ティーンズラブってエロありきだから』
「はあ……。絵は綺麗だったよ」
『……ありがとう。あれはね、ほんとはもっと心理描写まで描きたかったんだけど、理屈っぽいって言われちゃって』
「あんまり気に入ってないの?」
『そういうわけではないよ。というか、オリキャラかわいいから丁寧に描きたかった。でも、全六話でまとめなきゃいけなかったの』
「そっか。何話でまとめるとか決まってるんだね」
『ダウンロード数が伸びて、人気が出れば続くんだけどね。それはそれで、だれるとか飽きるとか言われたりする』
暖房をつけているのに冷気が這う床の爪先を冷たく感じながら、「むずかしいね」と僕はあやふやに咲う。
「今は何してたの?」
『SNSにあげるお正月イラスト描いてた。あ、今年は真永くんに年賀状出してよかったよね』
「うん。出してくれたの?」
『出したよ。これからも出していいのかな』
「楽しみにしてる。そういえば、梨苗ちゃん、クリスマスに優空の墓参りに行ったんだよね」
『あ、うん。あの日は、真永くんは優空の家族と食事だったっけ』
「優空に線香あげてきた」
『そっか……。もう、一年なんだよね』
僕はフローリングに視線を落とす。「梨苗ちゃんは『もう』なんだね」とつぶやく。
『えっ』
「僕は、『まだ』一年だよ。優空がいなくなって、すごく長かった。それで、こんな時間が、まだこれからも何度も続くんだ。……気が遠くなる」
沈んだ僕の口調に梨苗ちゃんは口をつぐみ、それから、「真永くん」とゆっくり切り出す。
「うん?」
『私ね、実は聖空さんに頼まれたの。真永くんがひとりが耐えられそうになかったら、いい友達を紹介してあげてって』
「えっ」
『もし、真永くんが必要だと思うなら、私、いい子探すよ?』
口ごもった。そんな子はいらない、と思うものの、ひとりで気丈に生きていく自信も確かにない。亡くなった優空に執着して生きるのは、健康的とは言えない。それでも──
「いいよ、それは大丈夫」
『ほんと?』
「優空以外の女の子なんて、何考えてるか分からないしね」
梨苗ちゃんは小さく息をつき、「分かった」と納得してくれた。僕は冷たい足をソファに引き上げ、膝を抱える。
「梨苗ちゃん」
『うん』
「ちょっと気になってることがあって」
『何?』
「優空の初恋の話って、訊いてもいい?」
『えっ』
「僕は優空が初恋だけど。優空は違うんだよね」
梨苗ちゃんは黙りこんだ。優空は僕に初恋の話をしなかった。それは僕をやきもきさせないためもあったのだろうけれど、やはり、あまり甘酸っぱくない恋だったからなのかもしれない。僕も黙して待っていると、梨苗ちゃんの吐息が聞こえた。
『優空がね』
「うん」
『彼氏ができたよって真永くんを紹介してくれたときは、私、ほんとにほっとしたの』
「ほっとした」
『優空は、もう恋愛とかしないじゃないかって思ってたから』
スマホから鼓膜に流れこんでくる、梨苗ちゃんの話に僕は耳を澄ます。
『高校二年のときにね、優空、三年生の先輩とつきあってたの。先輩が卒業しても、仲良くしてたんだけどね。その先輩が、浮気したの』
「浮気」
『優空が大学受験っていう頃にね。ショック受けてるんだけど、必死に受験も失敗しないように頑張って、あの頃はつらそうだった』
「……うん」
『大学は受かったけど、それを機に先輩は優空を一方的に振って、相手の女の子とつきあいはじめた。それから優空はずいぶん塞ぎこんじゃって、長かった髪とかも切って』
大学のとき、優空が髪をばっさり切ったとは聖空さんも言っていた。失恋が原因だったのか。
『まあ、優空はそれでもモテたんだけどね。なかなか心が動く人もいなかったみたいで。大学時代は私暗かったよねえって、よく言ってた』
「確かに、大学時代の話も聞いたことなかった」
『就職して、真永くんのことはね、何か、かわいいなあって思ったらしいよ』
「かわいい」
『守ってあげたくなったんだって』
「……はは」
『優空、恋愛にはほんとに臆病になってたの。真永くんは本当に特別だったんだろうね。男の人に大切にされることも、優空は真永くんで知ったんじゃないかな』
梨苗ちゃんはやや沈黙したのち、『優空が真永くんと出逢ってて、ほんとによかったと思う』と言った。
『先輩のことで恋愛できないままこうなってたら、私、耐えられなかったかもしれない。せめて優空は、真永くんに愛されて亡くなったから』
「僕は優空を幸せにしてあげられてたかな」
『してたよ。あんなふうに咲ってたじゃない』
「………、僕も優空といられて幸せだった。優空にいっぱい心の重いところも救ってもらった。でも、優空はもういなくて、僕はまた落ちていくのかな」
『そういう感じがある? 落ちていく感じ』
「いや……一年前より、ずっと安定はしてる。何だろうね。喪失感はすごくあるけど、その喪失感が日常になっていく」
『喪うって、忘れることじゃないもんね。亡くなった人が自分の一部になるんだよ。だから、意識することも減っていくし。でも、それは心の中に優空がいるってことだから、いいんだよ』
「いいのかな」
『うん。優空のこと、乗り越えなきゃとか思わなくていいんだよ。自然と前を向くときは来るから』
「梨苗ちゃんは来た?」
『私もまだまだだよ。スマホの優空の連絡先だって消せないし、たぶんずっと引き継いでいくんだと思う。もう何も送れないし、来ないのにね。でも、私の中から優空が親友だってことは消したくない』
「そう、だね。僕も優空の連絡先残ってる。いまだにメッセを読み返したりする」
『ふふ、優空もスマホ持って天国に行きたかっただろうね。回線はつながらなくても、つながってた頃の想い出がいっぱいだから』
僕は少し咲って、そのあとも軽く梨苗ちゃんと雑談した。やがて通話を切ると、そろそろ眠気が忍び寄ってきた。通話中に来たメッセには既読はつけず、そのまま就寝することにした。
暖房や明かりを消して、寝室に移動するとベッドにもぐりこむ。昼間干したふとんは柔らかく、ほのかにひなたの匂いがした。掃除がんばったなあ、と思ったけど、褒めてくれる優空はいない。仰向けになってうつらうつらしつつ、梨苗ちゃんに聞いた優空の初恋について想う。
優空はモテてただろうなあ、と思っていたけど。彼氏がいて、しかも浮気されたなんて、びっくりした。優空なりに恋愛に臆病になっていただろうに、彼女は自分から僕に想いを打ち明けてくれた。僕から打ち明けて、少しでも喜ばせてあげればよかったかな。僕には自信がなかったけど、優空もそれは同じだった。頑張らせてばかりだった。僕は優空の失恋した傷を、せめて癒やしてあげられていたのだろうか。
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