風切り羽-29

長い夜【5】

「誰にも、言ってこなかったんです」
 ゆっくり切り出した僕に、聖樹さんはうなずき、タイルに座り直す。
「学校のは、遊びだって思って知ってる人もいます。家のことは、ぜんぜん、誰も知らないんです。僕と、おとうさんしか。けど、おとうさんにはそんなつもりはないでしょうし、僕ひとりです」
「うん」
「僕の家には、おかあさんがいません」
 これは以前にも話していたので、聖樹さんは驚かなかった。
「離婚はしてないです。死んだんでもないです。たぶん」
「たぶん」
「分からないんです。生きてるとは思います。僕のおかあさんは、僕が九歳のときにほかの男の人と出ていったんです」
 聖樹さんは息を飲む。僕は胸を深い呼吸で治め、一気に堰を切る術に出る。
「おとうさんとおかあさん、仲が悪いっていうのではなかったんです。おとうさんはおかあさんが好きでも、おかあさんはそれほどでもなくて。向こうの熱心さに負けて結婚したって、おかあさんが友達と話してるのを聞いたこともあります。僕は想ってくれてたみたいでも、いっぱいかわいがるっていうのはなかったです。話しかけたら、ときどきはらいのけられましたし、服とか自分で着れるようになるのも早かったです。おとうさんは、僕よりおかあさんでした。小さい頃から、家で浮いてる自覚はありました」
 放られているほうの手を握り、手のひらで冷たく固まった指を暖める。聖樹さんは黙って耳を澄ましている。
「おかあさんが出ていったのは、突然でした。ほんとに、昨日にもそんなふうはなかったんです。男の人がいるのも分かりませんでした。僕は学校に行って、おとうさんは会社に行って、そのあいだにおかあさんは手紙一枚で出ていきました。帰ったらおかあさんがいなくて、びっくりしました。食卓の手紙読んで、もっとびっくりしました。読めない漢字もありましたけど、読めるところで分かりました。どうしようかおろおろしてたら、おとうさんが帰ってきて、おとうさんはしばらくおかあさんを捜してました。でも、手がかりもなくて、ほんとに出ていったって実感も湧いてきて、おとうさんは家でお酒を飲むようになりました。怖かったです。僕にやつあたりはなくても、そんなおとうさん見たことがなくて。自分の何が悪かったのかとか、心当たりもなかったんですね。僕もどうしたらいいのか分かんなかったです。一週間ぐらいそんなのが続いて、おとうさんがどうなるか心配で、僕も学校に行けませんでした。家中がお酒臭くなってました。それが嫌で空き缶を集めたり、空気の入れ替えをしたりしてたんです。そしたら、いつのまにかおとうさんが後ろにいて、背中を抱きしめてきて、」
 聖樹さんの肩がこわばるのが聞こえた。僕は知らないうちにうつむいていた。
「『お前はおとうさんとずっと一緒にいてくれるよな』って言ったんです。知らないおじさんに抱きつかれてるみたいで怖くて、何回もうなずいてました。そしたら、おとうさんは僕を離れました」
 聖樹さんは息をつく。申し訳ない気持ちになった。僕はその安堵を、すぐぶち壊さなくてはならない。
「おとうさんは会社勤めに戻って、僕は学校に行きながらおかあさんの代わりになりました。おかあさんの手伝いをしたりしてたから、毎日やってればこなせるようになりました。家に残ってたおかあさんのものは、捨てたり売ったりして、僕の家ではおかあさんの話は禁句になりました。僕は、もともとおかあさんに執着してなかったですし、そんなのより外でされてることがきつくて、大して動揺しませんでした。おとうさんも普通でした。吹っ切れたんだと思ってました。おとうさんも吹っ切ったつもりだったと思います。吹っ切れてなかったんです。おかあさんの血が通ってるものが家にひとつ残ってました。それがいけなかったんです。僕です」
 聖樹さんは、不安げに僕を見た。どんな顔を作ればいいか分からず、僕は下手に咲ってしまった。
「家のことをして、おとうさんの世話もして、僕は完全におかあさんになってました。そのうちはよかったんです。僕が成長するにつれて、おかあさんに似てきちゃったんです。この顔、女の子っぽいですよね。おかあさんにそっくりなんです。そしたら、おとうさんの僕を見る眼つきが何か変わってきたんです。混乱するみたいな目です。やたらまばたきしたり、反対にじっと見つめてきたり。怖くなって、『おとうさん』って意味もなく呼んでおくんです。そうやって、僕がおかあさんじゃなくて、息子だって分からせてました。ちょっとずつそんなのも効かなくなって、おとうさんは僕をおかあさんの名前で呼んだりするようになりました。嫌な予感はしてたんです。外であんなのされてて、余計な知識はついてましたから。避けてはいたんです。けど」
 聖樹さんの手が、僕の手を強く握る。僕は泣きそうになっていた。聖樹さんは、聞かなくても分かっているみたいだ。でも、僕の喉は吐き出すのを止められなかった。
「休みの日の夜だったんです。十二歳の夏でした。僕はおとうさんといたくなくて、掃除とか洗濯でいそがしいふりをしてました。夜になってごはん作って、やることがなくなっちゃって。汗かいてたんです。おとうさんはリビングのソファで眠ってました。今のうちにってシャワー浴びにいって、焦ってたのがいけなかったんですね。起きたのか寝たふりだったのか分からなくても、おとうさんが来たんです。そのときにも、外でいろいろされてて悪くなってるとこが抑えられませんでした。怖くなって、息ができなくなって、動けなくなったんです。しゃべることもできなくなりました。『一緒に風呂に入ろう』っておとうさんが言って、嫌だ、って言いたかったのに何にも言えなくて、それで──」
 堕ちていった声がかすれ、ついに口が閉ざされる。
 どう続けたらいいのか分からなかった。明解な言葉は持っていても、それを舌で弾いてかたちにするのはつらすぎる。喉がぎゅっとつまったとき、発熱した目頭に頬が濡れた。言葉に頼れないむごい記憶は、涙になって外界に漏出する。
 聖樹さんは僕を覗きこみ、冷たい指で頬の涙に触れた。とまどっている手つきを僕の肩に落とすと、そっと僕を引き寄せる。その力は弱く、震えてもいた。それはこちらを記憶にたたきこまず、僕は初めて誰かに抱かれて怯えなかった。
「何て、言ったらいいのか分からないけど」
「………、」
「言えなくて、当然なんだよね」
 目をつぶって肩を震わせた。聖樹さんは僕の頭を胸に伏せさせた。僕の大粒の涙が、聖樹さんの濡れた服をさらに湿らせていく。聖樹さんは僕の頭をさすった。
「ここにいたらいいよ」
「え……」
「ここで僕たちといよう。そんなとこ、帰っちゃダメだよ。遅いかもしれなくても、それ以上遅くすることもないよ」
「………、おとうさん、僕を捜してますよ。絶対捜してます。おかあさんは逃がしちゃったんで、僕は逃がさないですよ。先生とかとは違うんです。僕を追いかけてきて、捕まえにくるんです」
「だから、ここにいたほうがいいんだ。見ず知らずの他人の家にいるなんて、きっと考えないよ。考えたとしても、ここだって割り出すのは無理だよ。特にこのへんじゃ、家庭なんていくらでもある」
「でも」
「外にいたほうが危ないよ。修学旅行で、このへんに来たことは分かってるんだ」
「………、」
「もう帰りたくないんじゃないの」
 ぐずりながらも、うなずいた。もう帰りたくない。それは揺るぎない真実だった。二度とあそこに帰りたくない。そして、できればここにいたい。
 聖樹さんは、僕の背中を慰撫する。
「萌梨くんが間違ってないのは、断言できるよ」
「えっ」
「先生にしたって、おとうさんにしたって、連れ戻そうとするほうがおかしいんだ。萌梨くんは、当然の行動をしたんだよ。自信持っていい。僕みたいに、頭では分かってても動けない人間もいるんだ。ここにいるのも悪くなんてない。そんな場所は萌梨くんの居場所じゃないんだ。誰か来たって、『嫌だ』って突っぱねていいんだよ。あれはね、そうするべきのひどいことなんだ」
 視界がゆがんだ。聖樹さんの声も壊れそうだった。
 分かるんだ、と思った。この人は僕の傷みが分かるのだ。その痛みを超えた無感覚の存在も知っているのだ。この人は僕の傷口をないがしろにしない。あれがどんなにひどかったか分かってくれる。身をもって知っているのだ。
「僕もね、こんなの分かるの自分ひとりって思ってたよ。誰にも分かるわけないって。あんなのされてたのは、自分ひとりだって思ってた。違うんだよね」
 聖樹さんは軆を離すと、指先で僕の滂沱とする涙をはらう。僕の視界は少し澄む。水面の隙間に、聖樹さんの瞳が映った。聖樹さんの瞳は、その瞳にいる僕の瞳の幼い色と同じ色だ。
「萌梨くんはひとりじゃないよ。僕もそうだった。すごく苦しかった。今も苦しいよ。めちゃめちゃになってる。僕はあのことで、たくさんのものを失くした。分かるよ」
 僕は目をこすり、素直にうなずけた。分かる、なんて言われても癪な言葉だったはずなのに、聖樹さんに言われると心に透いていく。
「僕たちが悪かったんじゃないんだ。僕たちは子供だっただけだよ。何にも知らなかったし、知ってても敵わなかった。何より誰もいなかった。抵抗すればいいって、そんな簡単なものじゃないよね。知ってるよ。僕も何にもできなかった。誰にも助けてもらえなかった」
 聖樹さんを見る。聖樹さんの表情には憂色が揺れていた。
「あのことはね、助けてもらうほかないんだよ。四歳や七歳の子供が、家出して自分で稼いだり、どこかに駆けこんで説明したりできるわけない。したとしても信じてもらえないだろうし、特に男同士じゃありえないと思ってる人が多すぎる。それにきっと、犯した本人が追いかけてきて、僕たちより口達者に丸めこむよ。つらいけどね、誰もいなかったらおしまいなんだ」
「………、おしまい」
「理解してくれる人がいなきゃ、大人になるのを待つしかない」
 唇を噛んでうつむいた。残酷だ。だが事実だ。僕は子供で、無能力者で、実際に苦痛を逃避するのをはばかられていた。こうして逃げ出せたのも、結局いろんなことに違反してだった。
「萌梨くんは、もう、そうじゃないよ」
 顔を上げると、聖樹さんの瞳と瞳がぶつかる。
「ひとりじゃないんだ。ここで僕と悠といよう。そうしたほうがいい。自分で立てるようになるのは、あとでいいんだ。先にひとりぼっちじゃないのを分かっておかなきゃいけない。力不足かもしれなくても、僕が萌梨くんを守るよ。萌梨くんについた傷はどうにもしてあげられなくても、何にも分かってない人からは助ける。そばにいるよ」
 冷たい指で涙を拭いた。こくんとした。
 聖樹さんは僕の頭を撫でる。聖樹さんの指も冷たい。夜だった。浴槽の向こうの曇りガラスも真っ暗だ。聖樹さんの綏撫に安んじられ、嗚咽は徐々に治まっていく。
 僕はこういうのを望んでいた。僕には誰もいなかった。誰もが怖かった。僕は僕を落ち着かせてくれる人が欲しかった。僕を分かってくれる人が。完璧な理解なんか求めていない。ただ、この悲惨に踏み荒された聖域を軽んずるのではなく、確かに在る傷口だと認めてほしかった。そうしてくれる人が必要だった。
 僕の涙が止まっているのを確認すると、聖樹さんは微笑んだ。激情のほてりも冷め、夜の寒さが寝巻きの薄い服に染みてきている。「向こうで何か飲んであったまろうか」と聖樹さんが言い、うなずいた。
 立ち上がるのを手伝ってもらいながら、聖樹さんにいろいろ謝りたくなる。けれど、それはよそよそしい気がして、代わりにお礼を言った。それでも聖樹さんは、不思議そうに咲ってくれた。

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