向かい合って
その日、聖樹さんの帰宅は遅かった。
十一月に突入して数日、十九時を過ぎれば真っ暗になる。ゲームをやる悠紗とも、「遅いね」と話し、夕食を作っておこうかとも思いはじめていた。
「ただいま」の声がしたのは、その矢先だった。十九時半をまわっていた。
金曜日は、聖樹さんは週末の食料も一挙に買いこんでくる。今日もそうで、スーツすがたに眼鏡をかけた聖樹さんは、いくつかの買い物ぶくろを提げてきた。そこまでは普段通りだったのだけど、次が違った。
なぜか、沙霧さんが後続してきたのだ。
無意識に硬直し、何で、と気重になる横から、「どうしたの」と悠紗はコントローラを放って、沙霧さんに駆け寄る。沙霧さんは悠紗の喜びに妙にぎこちなく、キッチンに買い物ぶくろを置く聖樹さんを見た。
聖樹さんは、なぜか僕をしめした。沙霧さんの足元にいる悠紗も不思議そうにした。沙霧さんは僕に視線をやったものの、何秒かで苦しげにそらす。
聖樹さんはしょうがなさそうにため息をつくと、ふくろをあさる手を止めて臆する僕のところにやってきた。
「萌梨くん」
床に座る僕は、聖樹さんを仰ぐ。裸眼の聖樹さんに慣れていて、ガラスの仕切りがあるのは変な感じだ。
「あのね」と聖樹さんは僕のそばに腰をかがめる。
「沙霧が萌梨くんに話があるんだって」
「えっ」
「聞いてやってくれる?」
まじろぎ、聖樹さんの肩越しに沙霧さんを見た。沙霧さんは気まずそうに僕を見返した。
僕は聖樹さんに目を戻す。
──嫌だ、と思った。
「何で、ですか」
「それは、沙霧に訊いてもらわないとね」
僕は眉を寄せて、うつむく。
「話って何?」と向こうで悠紗が沙霧さんに訊いている。沙霧さんは答えず、悠紗をリビングに押し返した。
悠紗は怪訝そうにしつつも、こちらに帰ってきて僕を覗きこんだ。怯えているのを見取ると、悠紗は聖樹さんを見上げる。聖樹さんは悠紗に苦笑し、沙霧さんをかえりみた。
「そうとう怖がられてるよ」
「………、だってさ」
「萌梨くん、すぐ終わる話だし、つきあってあげてよ」
「で、も」
「意地悪言われたら、逃げてきていいし」
「……言わねえよ」
沙霧さんの低い声にびくんとしたのに、聖樹さんは「ほら」と僕をうながす。
悠紗は、「萌梨くんがやだったら行かなくてもいいよ」と言った。僕は悠紗を向く。聖樹さんは悠紗をたしなめた。
「だってそうだもん」
「ゲームでもしてなさい」
悠紗はふくれ、一度僕の服をつかむと、やりかけのゲームに戻った。僕が沙霧さんといて落ちこむのを見てきた悠紗は、僕寄りにいるみたいだ。聖樹さんも悠紗の気持ちは理解しているようで、怒ったりはしなかった。
「悠も敵にしちゃってるね」と言われ、沙霧さんはどうとも言えない顔をした。
その顔に隙があって、僕は驚く。これまで、沙霧さんは僕に隙など見せなかった。
本当に、話したいのだろうか。意地悪も言わないのだろうか。
僕がとまどっていると、聖樹さんは僕の肩を軽くたたいた。
「今までの沙霧が、こんなふうに萌梨くんと話そうとするって、なかったと思わない?」
上目をした。聖樹さんは微笑んだ。なおも遅疑したが、最終的に僕はそろそろと立ち上がった。
悠紗はリビングで心配そうにしていて、聖樹さんはキッチンで夕食を作りはじめて、どこで話すんだと思ったら、玄関先に連れていかれた。
僕は畏縮し、沙霧さんの背の高さにひときわ威圧を感じる。
マットのところで、沙霧さんと僕は立ち止まった。沙霧さんはこちらに軆を向けても、居心地悪そうで口火を切らない。僕もいたたまれず、マットに突っ立って身動ぎもできない。
嫌な沈黙が流れた。包丁の音が聞こえてくる。沙霧さんはそちらを一瞥すると、ゆっくり息を吐いた。
「今日、さ」
どきっと顔をあげる。
今日? 今日、は何にもなかったはずだ。いや、夜中に聖樹さんと最後の心の壁を壊しあったけれど。
「兄貴が、家に電話してきたんだ。俺に会いたいって」
「は、あ」
相槌もぎくしゃくする。沙霧さんの瞳も確かめられない。
「電話じゃ、何の話か教えてもらえなかった。で、会ってきたんだ。あんたの話だった。あんたを、疑ったり詮索したりするのをやめてほしいって」
僕の心は窮屈になる。
聖樹さん。だから遅かったのか。
「最初は、何で兄貴があんたをかばうのか分かんなくて。悠があんたに懐いてるんで、それに乗ってんのかと思ってた。でも、兄貴はそうじゃないって。俺がどんな疑っても、折れなかったんだ。人に強く言われたら、波立たないように従ってた兄貴が、あんたのことにはそうじゃなかった。それで俺も、兄貴が自分の意思であんたを認めてるっていうのが分かってきた」
沙霧さんを見た。懐疑の詰まった僕の視線に、沙霧さんはやり返すのでなく、苦しそうにした。
「ほんとだよ。いまさらって思われるのは分かってるけど。俺、兄貴は何にも分かってないと思ってたんだ。あんたがわけありっぽいのも、ガキをかくまうやばさも、ばれちまったらどうなるかも、生活費だって積みかさなってきたらバカにならないだろ。全部分かってたんだな。覚悟して、それでもいさせてあげたいって言われた。そんな兄貴、初めてだったよ。自分で考えて、決めて、ちゃんと行動してるの。兄貴にはずっとそういうのがなくて、それで俺も心配だったんだ。人に流されてばっかでさ。十何年もそうだったんで、俺はあんたがずうずうしく居座ってるとしか考えられなかった。兄貴が自分で決めてるなんて、頭から考えなかった」
沙霧さんは息をつぐ。
「先入観、だったと思う。謝るよ。ごめん」
僕はこわごわ、沙霧さんの瞳を確かめた。沙霧さんの瞳は、僕を捕らえていた。
やっぱり、聖樹さんと似た色をしている。そして、そこにあの悪感情はなかった。あるのは、まじめに詫びたい気持ちと、見え隠れする決まり悪さだ。
「何にも分かってないの、俺だったんだな。人にさんざん説明されて理解するって、感じ悪いけど。分かったんだ」
沙霧さんの慙愧の瞳や真摯な口調に、僕に蔓延する警戒や不審は恐る恐る溶けはじめる。
「あんたがここにいるのがどんなに変でも、兄貴が分かってれば、俺は何も言えない。あんたがすごく遠慮してるのも聞いたよ。あんたも分かってるんだよな。ごめん。何にも知らないくせに、悪いって決めつけて」
服の裾を、指で触る。何か、この人は、けっこう素直なのだろうか。聖樹さんに言われて、こうしてきちんと謝るとは、ある意味素直だ。
「勝手なこと言った。きつかったと思うし、怖がってていいよ。でも、俺はもう、えらそうにしない。俺のがそんな資格ないんだよな」
きっぱり認める沙霧さんに、やっと聖樹さんと悠紗がこの人をこの空間に許したのが解せてくる。
「ほんとに、ごめん」
目を下げた沙霧さんに、自然とうなずけていた。沙霧さんは、不安げに僕を見つめなおす。僕は噛んでいた唇を緩め、けれどどう言えばいいのか分からず、かすかに咲った。それに沙霧さんもほっとした笑顔になってくれる。
畏縮していたのが恥ずかしくなって、僕は伏目がちになった。沙霧さんも息をつき、肩の力を抜く。
さっきとは別の血のかよった沈黙を経て、「じゃあ」と沙霧さんは沓脱ぎを向いた。
「俺、帰るよ」
「え、あ、寄っていかないん、ですか」
「うん。あんたと話したくて来たんだ。あとにしてたら捻くれちまいそうでさ」
咲ってしまうと、沙霧さんも咲う。そして、履きこまれた大きなスニーカーにぞんざいに足を突っこんで、こちらを見返ってくる。
「兄貴たちには、よろしくって」
僕はこっくりとした。沙霧さんはちょっと僕を直視し、「また来るけどいい?」と訊く。僕はうなずいた。沙霧さんは、少し聖樹さんに似た笑みをした。
【第三十一章へ】