壊れ物の少女
ここのところは、毎日暑かった。今は夏なのかもしれない。周りの人間もタンクトップや上半身はだかだ。自分も半袖を着ている。夏なのだろう。
その日、実摘は街のどこかの店にいた。たぶんクラブだ。店内じゅうで男女が身を寄せ合い、踊っている。
実摘は壁にもたれてしゃがみ、膝を抱えていた。すぐそばでは軆を絡めているふたりがいる。ときおり口づけと蜜語がこぼれてきた。実摘は心が痛んで、膝に顔を伏せる。
実摘の背中は、いまだに空っぽだ。飛季にも会っていない。彼が懐かしかった。でも、会うのも怖い。にらを置いてきたし、忘れられてはいないと思うが、どんな顔をしたらいいのか分からない。
飛季と再会するには、実摘はいつも遅疑でいっぱいだ。出逢った頃にはそんなことはなかったのに、だんだん躊躇うようになってきた。迷惑がられたらとか、もう来なくてよかったのにとか、そんなそぶりをされたらと思うと、怖くて行けない。
彼を感じたくておかしくなりそうになると、死ぬ気で飛季に会いにいく。実摘の中では、今はまだ踟躇が勝っていた。
顔を上げて、軆を交わす男女を見つめた。実摘は淫乱だと自称している。本当は違う。実摘は恋愛どころか、欲情も分からない。
実摘が濡れるのは、気持ちいいからだ。この人が欲しいとか好きだとか、心からの刺激ではない。抱かれるのは熱をたどりたいだけで、快感は勝手に軆が拾っている。
そこに、共有や融合はない。相手の肉体や仕種には冷静だ。それが当たり前だと思っている。
実摘は存在しない。軆はあっても、心はない。生理的な欲望は湧いても、心理的な恋愛はしない。狂った人形だ。
自分の立場を考えて、実摘は膝を抱きしめる。彷徨った視線が下がる。
そうだ。自分は誰かに執着したりする権利はない。実摘は存さないおもちゃだ。心などない。精神が何か発するわけがない。なのに、飛季にはそれがままならない。
実摘は飛季に執着している。彼といると心がほてる。頭を撫でてもらったり、抱きしめてもらったりしたら、有頂天だ。彼が整った肉体に汗をかいて、自分の中を動くと、実摘は魂まで絶頂に達する。
実摘は飛季のいる空間が好きだ。彼に甘え、その軆にくっつくのはもっと好きだ。そして、大人の飛季にとっては、自分はただの変な子供に違いないと思うと哀しかった。
どうすればいいのか分からない。飛季に伝えてもいいのだろうか。伝えて嫌がられたら。傷つけたら。この名無しの感情は疎まれるに決まっている。ずっとそばにいてほしいなんて。
縛られることがどんなにおぞましいか、実摘はよく知っている。飛季には相談できない。むしろ、彼にはこの変な気持ちを悟られてはならない。
胸の痛みなんて、無視すればいいのだろうか。強引に距離を作れば、彼自体を忘れてしまえるかもしれない。こんなしくしく痛い気持ちは嫌だ。捨てたら楽になる。飛季の軆も、あの部屋も、出逢ったことから、洗いざらい忘れる。
……考えただけで、泣きたい。けども、こんなふうに悩んだりはしなくてよくなる。もう、そうしてしまったほうが──
「よお」
唐突に、声が降ってきた。正面に色褪せたスリムジーンズの脚がある。のそっと顔を仰がせると、影がかかる。
いつのまにか、誰かが壁に手をついて実摘の頭を覆っていた。顔は窺えなくも、背格好からして男だろう。
「緑のふくろはどうした」
実摘は眉を寄せる。緑のふくろ。カーキのリュックのことだろうか。
こんな声は知らない。低いが、飛季のような落ち着いた声ではない。酒や薬物でつぶした、しゃがれた声だ。
「お前、いつもあれ背負ってたよな。失くしたのか」
「何で知ってるの」
「いつも見てたからだろ」
殺し文句にもなる言葉だったが、口説いているふうはなかった。実摘は首をすくめて自分に沈む。
「ヒマそうだな」
無視した。彼はスニーカーの爪先を引っかけ、実摘の顎を上げさせた。実摘は彼の足を振りはらう。
「何」
「つきあえよ」
実摘はそっぽを向いて、断った。膝に頬を当てて顎も守る。
男は立ち去らず、実摘を見つめてきた。実摘は肩に力を張り、その視線を拒否する。しかし彼の強い視線に、思考にも戻れない。
固まっていると、身動きした男は実摘の髪をつかんでくる。
「痛い、」
「五万」
「は?」
「五万やるよ」
実摘は彼を凝視した。笑っている口元が見える。
「何で」
「やりたいんだ」
「ほかにもいるよ」
「お前じゃなきゃ困るんだよ」
これも、口説いている口調ではなかった。実摘は頭を振って、彼の手を離させる。
五万。リュックから引き抜いた金は、なくなってきている。そろそろ売らなければならなかった。飛季の部屋に行くのは怖い。にらが待っているので、また絶対に行くとしても、まだ考えたい。五万あれば、ずいぶんふらふらしていられる。
打算が合った実摘は、壁に背中を這わせて立ち上がった。男は軆を引く。彼に光が当たる位置に来ると、実摘は男を観察した。
荒んだ顔だった。髪が雑なブラックブルーに染められている。切れ長の目は鋭く、鼻筋や頬や顎の削れも鋭い。整っているのではなく、こけた感じだ。
飛季ほどではないとはいえ、背も高い。細身の体質も、飛季は着痩せしてけっこうたくましいが、彼は明らかに痩躯だ。
歳は十八、九だろうか。
「名前は」
腕を肩にまわされて、歩き出す。彼の息はアルコール臭い。
「ミミ」
「っそ。俺は伊勇」
訊いてないよ、と思っても、言わなかった。イユウ。明日には忘れている名前を、実摘は舌に転がした。
伊勇の指先が、髪のあいだにすべりこむ。骨が不健康に浮いた彼の軆は、居心地が悪くごつごつしている。がっしりしていて弾力もある、飛季の筋骨とは大違いだ。そう思っていると、ふと伊勇がつぶやいた。
「綺麗な栗色だな」
実摘は伊勇に上目をした。彼の瞳には、忘れかけていた色があった。実摘は慌ててうつむき、彼を見直す。
伊勇は前を向き、実摘の肩を引っ張った。錯覚、とひそかに息をつくと、実摘はいっとき、飛季のことは忘れることにした。
連れこまれたのは、モーテルの一室だった。広くはない室内の中央にダブルベッドがあり、照明がそそいでいる。クーラーで空気は冷たく、床は絨毯だ。そして、そこには、ビールの空き缶やミネラルウォーターの空のペットボトルが点在していた。
実摘は、伊勇を振り返った。彼は薄笑いをし、実摘の尻を膝で突いた。
その部屋では、すでに数人の男たちが、煙草を吸ったり酒を飲んだりしていた。床に寝そべり、アルミを炙っている男もいる。
「こんなの知らないよ」
実摘の狼狽えた声に、伊勇は愉しげに嗤った。
「ひとり一万だ。決まってんだろ」
「嫌だよ。帰る」
「どっかの店で、公開輪姦されて悦んでたじゃねえか」
「知らないよ」
彼を押しのけようとしたが、力が敵わなかった。伊勇は実摘の細腕をつかみ、ベッドに連れこもうとする。抗うと、無理に引きずられた。実摘はその場に踏んばる。
「離せよっ」
「怖いのか」
「軆が腐るんだよっ」
「怖いなら打ってやるぜ」
「ふざけん──」
伊勇は実摘を引っ張り、その反動でベッドにうつぶせに倒れさせた。実摘は起き上がろうとしたが、ベッドサイドに腰かけていた少年に手首をつかまれる。睨みつけると、その黒髪の少年は余裕をたたえて笑んだ。
「上玉」
そう言った少年は、実摘にゆがんだ臭いの息を吐く。
腰に体重がのしかかってきた。首を曲げると、伊勇が馬乗りになっている。
彼のジーンズに包まれた性器が、飛季の服にこすられた。実摘に殺意が湧いた。
「てめえ、」
「水道水で打ってやろうか? かなりやばいらしいぜ」
「薬はしないんだよっ」
「優等生だな。じゃあ、初体験か」
実摘の手首を抑えていた少年が、ベッドサイドを立ち上がった。不覚にも怖くなった。
薬はしない。決めていた。自分を失うのは、あの頃でたくさんだ。
「いいよ」
実摘の弱った声に、少年は立ち止まった。そして伊勇を瞥視して、伊勇は実摘を見下ろす。
「『いい』って、何がだよ」
「いいよ。みんなでしてもいい」
伊勇は実摘を眺めた。実摘は本気で目を湿らせた。
「薬はしないで」
伊勇は、少年に目配せした。彼は戻ってくる。
実摘はあきらめ、力を抜いた。金をもらえば、どうせ数時間後には忘れるのだ。どうでもいい。
実摘は服を剥がされ、全裸にされてさっそく犯された。ねじこまれた棒が、乱暴にえぐる。誰かの指が肩の傷を這った。刃向かいそうになったが、こらえる。強姦は早い。体内にねばつく精液を感じる。
代わる代わる、実摘の体内に飛沫が走った。ひとり、がりがりの男が勃起しなかった。「こいつ、ヤクのやりすぎでインポになったんだ」と黒髪の少年が笑った。ヤク中は、実摘の中に射精の代わりに放尿した。
仰向けにされると、肌を手が這い、内腿に熱い性器をこすられる。実摘は視線を泳がせた。軆が精液にねばついていく。たまにねばつかないさらさらした液体がそそいでくる。臭いからして、小便だろう。
荒い息の合唱が耳障りだ。笑い声が混じる。煙草の灰が腹に落ちて熱い。腰を抱えあげられて、深く突かれる。
不意に肩が重くなる。目を定めると、唇に指を引っかけられた。顔を跨がれていた。勃起を口に押しあてられ、それは挿入するように実摘の口内を犯す。
喉を塞いで揺れる腰で、陰毛が顔面をこすった。汚臭がする。まぶたを閉じる。さっさといってほしくて、実摘は舌を使う。
実摘自身の性器をもてあそばれている。何も感じない。やがて、たるみきった精液の味がした。
精液の臭いが部屋の中で濃密になっていく。アルコールの臭いもする。実摘は麻痺していく。幾度となく下腹部にどろどろがあふれる。肌に内壁に、たくさん液体をそそがれる。やがて、頭は暗くなって──
【第二十七章へ】