ただ想うだけ
夏休みもなかばを過ぎ、うだる真夏は山場にある。
盆が近づき、家庭教師はさすがに休みだった。各生徒に寄せた計画を立てたり、プリント作成をしたりはするが、それも事務所より自分の部屋で作業し、飛季は外出せずに過ごしている。
今は仕事の合間に、ベッドサイドに背中を預け、クーラーに髪をそよがせている。シーツに頭を乗せ、明かりに透かした手紙を読んでいた。昨日、届いていることに気づいた母親からの手紙だ。
久しぶりに顔が見たい、とある。こっちは見たくない、と薄情な息子は胸でつぶやいた。
手紙を持つ手を下ろし、半眼になる。今、飛季が見たい顔は、あの儚げな少女の顔だ。
実摘が飛季の部屋を訪ねなくなって八月に入り、だいぶ経った。最後に逢ったのは、柚葉との口づけに乱入されて罵られ、ひとまず仲直りしたあの夜だ。実摘は翌朝には早々と消え失せ、以来、音沙汰をよこさない。
彼女の名残は、残されたカーキのリュックのみだ。リュックの位置はほとんど変わっていなかった。何しろ、にらが入っている。実摘の目はないとしても、彼女なら匂いを嗅いだりすれば触られたかどうか判別しそうだ。
掃除のときだけ、リュックの綿布に触れて少し動かした。そうすると、このリュックからはごとっと重い音がする。その音を聞くと、これに何が詰めこまれているか知らないのに気づいた。
今度訊いてみようかと思っても、実摘は来ない。にらを残しているのだし、すぐに来るだろうと思っていた。けれど、飛季は彼女とすでに二週間も会っていない。
便箋を封筒にしまった。要は、盆には帰ってこいという内容だった。正月に帰ってやったばっかりじゃないかと思う。
今はそれどころではない。状況も私情もにらも絡まり、飛季は実摘を心配せずにいられなかった。
肉体的はともかく、精神的な安否は切に気がかりだ。なぜ彼女は、にらを置いていったりしたのだろう。実摘のにらへの崇拝は、一応飛季も解している。二週間もにらと戯れなくて、彼女は大丈夫なのか。
あんなにかわいがられていたのに、リュックをはみでて二週間も放置されているにらには、哀愁さえただよいはじめている。飛季は、そんなにらに同情も湧いてきていた。
前と比して、実摘の不在が生々しい。彼女がここに来る理由も、去る基準も、飛季にはちっとも分からない。もてあそばれているのだろうか。二十五の男が、十五の少女に。
とはいえ、今回実摘が久しく来ない理由には、心当たりがあった。彼女は、飛季の胸中に気づいたのかもしれない。だとすれば、来ないのも仕方がない。こんな終わった大人にどうこう想われたって、子供は嬉しくないだろう。
ちなみに、あの日以降、街には出かけていなかった。柚葉とも逢っておらず、禁欲に戻っている。
実摘の柚葉への嫉妬は、演技や冗談ではなかった。彼女は本気で、飛季と柚葉の関係が不快そうだった。飛季の中では、実摘と柚葉では比重は実摘にある。飛季は実摘を尊重し、柚葉との肉体関係をあっさり絶った。
それで実摘が休まるのであれば、未練もない。飛季には、この胸で心地よさそうにする実摘が一番だった。
しかし、飛季がそんな贔屓をしても、実摘の反応は分からない。次に来てくれたとき、「行くのをやめた」と伝えて、「そう」で流される可能性はある。関係を絶ったと知れば、奇妙な嫉妬も執着も、安心と同時に手放すかもしれない。
シーツに後頭部を預ける。前髪が額を流れ、クーラーの冷風が吹いてくる。
いずれにしろ、こんな思案は実摘が来ないとどうにもならない。そして、こんな悩みは実摘の登場で払拭される。ならばただ再訪を信じ、考えなくてもいいのに、飛季は実摘を想い続ける。
にらに横目をする。常に実摘の背中にいて、毎日愛撫されていた。今はすっかり放置されている。今度の実摘の行動は、にらにもつらいものだろう。
置き去りにされたもの同士、飛季はにらの気持ちがよく分かった。にらに、気持ちなるものが在るとすれば。そろそろ来てくれてもいい頃だ。少なくとも、にらを取りにくるという用件は避けられない。
しかし、飛季は彼女の蒸発先の見当もない。みじめに待っているばかりだ。飛季が知っている実摘のことは、あの子の心がいろんな意味で危なげであることだけだ。そのひとつの事実が、こんなに飛季を悩ませている要因でもあるが。
せめて、無事であればいい。実摘の心が、あれ以上壊れるのは嫌だ。実摘がこの部屋で休まるのなら、飛季は彼女に、ずっとこの部屋にいてもらい、ぬくぬくしていてほしい。
肩の力を抜き、天井を眺める。髪の生え際の汗が、クーラーに冷えこむ。
今頃、実摘はどこで何をしているのか。考えてみても、何のあても浮かばない。そのくせ心配する自分が、ひどく情けなかった。
【第二十九章へ】