欠けゆく光
餌と称され、ひと口サイズのチキンカツを口に押しこまれる。衣が柔らかいそれは、いかにも冷凍食品だった。しかし、「まずい」と吐き出し、空腹にのたうつほうが妥協になる味でもない。
おとなしく噛んで飲みこむ。皿に転がるチキンカツをフォークでなぶる伊勇は、受動の食事を行なう実摘を、満足そうに軽蔑している。
実摘は相変わらず、この男に監禁されていた。首輪も手錠も、一センチも緩めてもらえない。ここで飼われはじめて、どれぐらい経ったのだろう。過ごす日数が増すごとに虚しくなって、数えるのをやめてしまった。
伊勇は、実摘の唇にチキンカツを押しつける。実摘は含むものを飲みこみ、突っ込まれたチキンカツを咀嚼した。首を垂らすと、油にぬめる唇を噛む。
モーテル。輪姦。自由だった最後の夜。
記憶の遠さが切ない。後悔している。元はといえば、たった五万円に釣られたあの夜が悪かったのだ。そのツケで、実摘は伊勇のペットになっている。
つながれっぱなしで食事をし、風呂でもステンレス手錠を外してもらえない。軆も髪も、股ぐらさえ伊勇に乱暴に洗われる。排尿どころか、排便も見張られた。ここでも手錠があるので、性器や尻は拭いてもらう。厭わしそうに下の世話をする伊勇は、嬉しそうにするよりも実摘の屈辱を刺激した。
性的なおもちゃにもされている。睡眠中にたたき起こされて、ベッドにつながれるまま犯されるときは、辱められているというよりも情けなく、泣きたかった。
視界を滲ませていると、フォークの先で顎を持ち上げられる。突いてくるのは、死んで腐った目だ。実摘が食べ物を飲みこんでいるのを確認すると、伊勇はまだチキンカツを与えようとする。
実摘は顔を背けた。こんな場所では食欲もない。「もういい」と言うと、「これは食え」と伊勇はチキンカツを実摘の口に捻じこむ。仕方なく、それは食べた。
いくつかのチキンカツが残った皿を伊勇は放る。実摘は、蒼白く骨が浮いた右の手の甲で顎をぬぐった。脂ぎったフォークに触れられ、顎がべとついていた。
伊勇はテレビの前に行く。実摘は右腕で膝を抱えた。
今、着ているのは伊勇の服だ。着ていたあの服は、伊勇に咬みついて取り返し、そばに置いている。ジーンズに入っている金のためでなく、飛季の服だからだ。
伊勇はビデオをセットして、映画を流しはじめた。彼は人づてに実摘の知識があるらしく、スプラッタホラーだった。けれど、伊勇が選んでくるものは、実摘の趣味ではなかった。亡霊や殺人鬼のものばかりだ。
実摘が好むホラーは、ゾンビ映画だ。いたいけな足取りで無表情に人間を喰らうゾンビは、バカな人類へのバカな復讐を果たす救世主だと思う。
地獄が満員になれば、ゾンビはやってくる。もうじきだ。そうなれば、実摘はさっさとゾンビになって何人かの喉を食いちぎり、しかるべきときまでそのへんをぶらついていようと思っている。
飛季の服をつまぐった。ここに監禁されてどのくらいなのか、定かではない。ただ、その期間以上に飛季に会っていないのは確かだ。
飛季を想おうとして、その残像が霞んでいることに茫然とした。飛季による知覚の幻は色褪せて、意識は現実に向かおうとしている。
焦っていた。飛季に会いたかった。会わなくてはならなかった。飛季を思い出せない。頭が捻じれそうだ。結局、忘れるなんてできなかった。
飛季の胸が恋しい。名前を呼ぶ声も、背中を撫でる手も、実摘のそれと絡むとやわらぐ瞳も。
感覚から生じたふわふわした心情が、五感を渇望させる。飛季をいっぱい感じたい。
だが、実摘のこの苦衷に反し、飛季はこちらを忘れているかもしれない。邪魔もなくなり、あの少女と睦まじくやっているかもしれない。彼女に夢中になって、あのベッドに連れこみ、愛し合っていたら。
実摘は耐えられなくなる。飛季の広い肩に伝う汗や、そこにまわるあの少女の腕が、実摘の脳裏に鮮やかによぎる。あのしなやかな軆に、たくましい肉体が重なる。今、飛季がそうしていたら。朝までそうしたあと、あの少女と抱きあい、眠りこんでいたら。
憎悪がせりあげて唸った。膝に顔を伏せて、怒りに肩を震わせる。想像は切除した。
もしそうであったら、実摘は許さない。あの少女は殺す。飛季はこんなふうに監禁する。
飛季は実摘専用だ。安息の軆もふかふかの瞳も、すっぽり包む腕と胸も、その卓絶をじゅうぶん受け止められるのは、実摘ひとりだ。ほかの人間に飛季の良さが分かってはならない。飛季の軆のために、実摘の心は在る。
実摘はずっと、自分に心はないと思っていた。違ったのだ。実摘は飛季に対し、心や精神としか呼べないものがじたばたしているのを感じている。実摘の心が冷たく固まっていたのは、呼応させるものがなかったせいだったのだ。
実摘の心は、ようやく飛季という共鳴するものを発見し、おろおろと息づいてきている。飛季に会いたい。今度こそ、この変な気持ちを告白してもいい。
嫌われたら、とすくみそうな気持ちもある。だが、隠していても、いずれ白状することになるだろう。ならば、早く告白して拒否されて、時間に癒やしてもらったほうが楽かもしれない。
飛季に会うには、どうすればいいか。まず、伊勇を逃れることだ。この部屋を脱出すれば、そのあとはそのあとだ。ここがどこなのか知らないし、もしかすると、飛季の部屋は遥か遠いのかもしれない。けれど、交通機関は使える。この五万円がある。ここを出れば、飛季に会える可能性はある。
しかし、この拘束をどう抜け出せばいいか。手錠や首輪の鍵は伊勇が携帯している。金はいらないからほどけと言っても、伊勇は聞かない。訴えるたび伊勇は実摘を黙殺し、挙句、うざったそうに出かけたりいったりする。
むしろ、伊勇は始終この部屋にいるわけでなく、留守が多かった。そのときが、好機といえば好機だ。桎梏は金属で、歯や手ではちぎれない。首輪の革の感触も、単に鎖を覆っているものだ。
ガラス戸が近いので、何とか割って悲鳴を上げ、助けを求めるか。けども、そんな不用意なことをしていい場所かどうかも怪しい。この部屋が、普通のアパートではなく、伊勇の何らかの隠れ家なら逆効果だ。ガラスを割ったり叫んだりして、通ずる隣人に密告されたら拘束は強まる。密告せずも、誰かが来ておとなしくさせられるかもしれない。
ここがどういう場所か分からないのは痛い。仮に部屋を出たとして、推測通りここが隠れ家であれば、建物自体を脱するのも至難となる。
実摘自身の体力の衰えも著しかった。伊勇が長く帰ってこなかったとき、実摘は何度か餓死を間近に見た。ひたすら沈思し、頭は混濁している。
ここでの生活が積み重なるにつれ、逃亡する術が限られていっているのが現状だった。
実摘は伊勇を盗み見た。彼はいつのまにか床に転がっていた。ブラウン管で、金髪の女が日本語で悲鳴をあげているのをつまらなそうに眺めている。止めればいいのにと思う。
この男の思うところが、実摘にはまったく読めなかった。だいたい、なぜ自分を監禁するのかも分からない。愛情ではなさそうだ。犯しても冷めている。侮っていても、拷問はない。
強いて言えば、事務的だ。軆を洗うのも、排泄の処理も、全部彼は仕事のようにやっている。しかし、それが本気なのか演技なのかも分からない。
ひとつ気になるのは、ときおり彼が実摘に向ける瞳だ。ずいぶん離れていた、毒に冒されたあの恐ろしい瞳なのだ。普段彼の瞳は死んでいるぶん、それは際立って分かる。偶発的なものだろうが、依然として怖かった。
視線を感じたのか、伊勇がこちらに目をやった。実摘は即座にそっぽを向いた。何秒か睨まれたものの、何も言われなかった。人体が切断された音のあと、煙草の臭いがしはじめる。
実摘は頭を動かして、手錠のまつわる細くなった手首を、その先のカーテンの隙間を見つめた。
光が満ちている。その光が頬に当たっているのも感じる。睫毛を下げて、うつむいた。
光は苦手だ。欲しいけれど、やっぱり苦手だ。陰に慣れてしまった。
飛季の胸に収まるのを想った。陰にいる実摘を、飛季は抱き上げてくれた。そんな彼を、伊勇のせいで失いそうになっている。ここに監禁され、あまりにも会わずにいると、実摘は飛季に忘れられてしまうのに。
しょせん、実摘は陰にいる。光で照らしてもらえない。誰の心にも侵入できない。なのに、飛季は抱き入れてくれた。彼に抱きしめられると、実摘は自分のかたちを実感できた。せっかく手にした安息を、伊勇はもぎとろうとしている。
ここを出たい。飛季に会いたい。甘えて、かわいがってもらいたい。こんな男に拘束され、あまつさえ犯されるのはたくさんだ。ほかのどうだっていい男に抱かれるのもやめる。飛季に抱かれたい。飛季しか欲しくない。ずっと無かった実摘も、飛季のそばでは在れた。
光を奪われた実摘は、陰に降りそそがれている。飛季はその陰をさらにさえぎる。強力な光を用いるわけではない。今や実摘には、光は苦痛だ。飛季はもっと暗くする。包んでくれるのだ。代わりに肌に熱を伝わし、その感触で実摘を包む。
その方法は、無二だったにらに似ている。実摘の心を休められるのは、にらひとりだった。飛季はそんなにらに並ぶ。
実摘の脳裏に、光を奪う彼女を拒んだ日がよみがえった。実摘にとって、あれは初めての自発だった。闇を投げかける壁の支配に抗した。実摘はあの壁に──すなわち彼女に自我を許されなかった。実摘はここを出なくてはならない。そして彼女への離叛として、飛季の胸で精神を発芽させる。
にらも心配だ。飛季が一緒なので、危険にはさらされていないと思うが、きっと寂しがっている。
実摘の思考は、回流を泳ぐ。いったい、自分はここを出るにはどうすればいいのだろう。
【第三十章へ】