陽炎の柩-31

花の夢

 実摘には、生理が始まった頃から何度も見る夢がある。実摘はその夢を見るたび、生理を迎えた。それは、実摘が永遠になれる夢だった。
 十五歳の自分が、古ぼけた木の柩で眠っている。柩には名前も知らない花が敷きつめられていてふかふかだ。あらゆる彩色が色覚を壊し、花の香りはむっとしている。その芳烈は吐き気も起こさせ、麻痺した神経には揺らめくめまいがしている。
 実摘は、そんな花たちに横たわっている。大きすぎる白いワイシャツのほかには、何もまとっておらず、蒼白く細い脚が埋もれそうになりながらすらりと伸びていた。脚のあいだはシャツの裾に隠れるか隠れないかできわどい。目は閉じて、顔は蒼ざめている。
 まだ、生きている。
 蓋が外れる音がして、ゆっくり目を開ける。急に呼吸が楽になり、蓄積していた花の香りが散乱した。空はない。一面、花畑が広がっている。瞳孔をちかちかさせるさまざまな花たちが、空間に波打っている。
 誰かが実摘を覗きこんだ。逆光で顔は判別できない。その人は手を伸ばすと、実摘の頬を撫でた。骨ばる大きな手が実摘の柔らかな頬を覆う。その手は優しく、愛情が満ちていた。実摘は心地よさに睫毛を伏せる。
 その人の切ない視線が、薄いまぶたにそそぐ。しばらくそうしていると、その人は不意に実摘から手を引いた。実摘は、その人の次の行動を知っていた。
 殺す。
 その人は、かざした木の杭を実摘の左胸に刺し、ついで、その杭に木槌を振りおろした。
 実摘は目を開いた。返り血を浴びたその人の口元が一瞬見えた。とても穏やかに微笑んでいた。実摘の胸はやわらぎ、やすらいだ。この人は、愛ゆえに自分を殺したのだ。その考えに、実摘はすべてを解き放った。
 花の香りが分からなくなる。吐き気が深い息になる。まぶたが霞んで落ちる。
 その人は柩に蓋をした。実摘はゆっくり息を引き取り、そして、永遠に溶けていく。
 実摘は、この夢に登場する“彼”を捜していた。実摘にとって、“彼”は愛だった。死んだほうがマシだったのに死ななかったのは、ひと目でいいから、“彼”に会いたかったからだ。“彼”に殺してもらうために、実摘は生きていた。
 ずっと捜していた。なかなか見つからなかった。やはり、“彼”は夢なのだろうか。現実にはいないのだろうか。そう思い始めた頃、実摘は飛季に出逢った。
 冴えない男だと思っていた。“彼”のあの包容力を、こんな暗い男が収めているとも思えなかった。心では軽んじながらも、実摘は飛季に会いにいった。それは、“彼”だと思ったのではなく、飛季の絶対的な孤独に、どこかしら共感があったせいだ。
 なのに、飛季が遠ざかろうとしたとき、実摘は不安に駆られた。彼がほかの人間に接するのも許せなかった。ほとんど無意識に、飛季は自分のものだと高慢な気持ちが湧いた。それは止まらなくなって、積もっていった。実摘は心を芽吹かせ、その心も今はふくれあがって、張り裂けそうになっている。
 飛季は“彼”だ。実摘はやっとそう認めた。自分がずっと捜していたのは、飛季だった。飛季は実摘の潜在的な欠落だった。
 けれど、飛季に殺してほしいとは思わなかった。それよりきちんと生きて、温かい軆を寄せ合っていたい。生に絶望していた実摘は、死に憧れていた。飛季はそれを柔和に戒めた。脈打つ心臓も、止まらない呼吸も、めぐる血液も、飛季といれば愛おしかった。
 ごく自然に、飛季は実摘の欲望の観点を入れ替えた。死から生へと、実摘の気力の方向性をひるがえした。
 やっと見つけた。もう離れたくなかった。実摘には、彼に伝えなくてはならないことがたくさんある。ここを出られたら、全部話そう。玉砕や成就は関係ない。実摘は、飛季にだけは、通りすがりの人間にされたくなかった。
 ──蒼ざめた肌に、紫の血管が走っている。手錠も大きくなったように感じられるし、その手首の骨も不健康に浮いている。脚も細くなったし、肋骨の湾曲にはぞっとした。こめかみがゆらゆらして、思考が明確とせず、脱力すらしない軆は軽い。
 やつれた、と思う。鏡など見なくても分かる。自分はかなりやつれた。
 伊勇はブラックブルーの髪を湿らし、上半身はだかで押し入れをあさっている。もろげな背中には、雫が残っていた。数十分前に起床した彼は、まずシャワーを浴びた。出かけるらしい。
 実摘はだるい左腕にいらいらしながら、カーテンの隙間に夜を見る。
 空腹だった。何か食べないと、気絶しそうだ。食べものをくれ、なんてあんまり言いたくなくても、極限状態が続けば体面もなくなる。
「どこか行くの」
 実摘のかすれた声に、伊勇は目を向ける。彼の目は、鋭いのに死んでいる。
「お腹空いたよ」
 伊勇は顔を顰めたものの、腰を上げてキッチンに行った。こういう訴えを、彼は無視しない。ぶかぶかになったジーンズを居心地悪く思っていると、伊勇は電子レンジで調理したハンバーグを持ってきた。
 デミグラスがかかったその匂いに、実摘の乾いた口中は潤った。実摘の正面にしゃがむと、伊勇はそれをフォークで一口大にちぎる。しなくていいのに、と思いつつ、逆らわずに実摘は待った。気の紛らしに口を開く。
「今日、何月何日なの」
 伊勇は一瞥してきたが、答えない。
「ここに来てどのぐらいなの。また一週間経ったよね。お金ちょうだい」
 ハンバーグを口に突っ込まれる。実摘は眉を寄せ、それでも挽肉を咀嚼した。
 伊勇は実摘を眺めながらも、視覚は働かせていない。実摘の口が空になってもぼうっとしていて、実摘は彼の瞳がわずかにうわずっているのに気づく。
「お金くれないなら、僕、帰りたいよ」
 すると、伊勇は実摘の口にハンバーグを押しこむ。次は大きくて、口に収めるのが大変だった。
 伊勇は、今度は実摘を見つめてきた。見返すと、彼は嗤う。実摘はハンバーグを飲みこむと、すかさず言った。
「お金ちょうだい」
「意味ないだろ」
「あるよ」
「ここにいるくせに」
 伊勇はハンバーグにフォークを刺す。
「じゃあ出してよ」
「ダメだ」
「お金くれないんなら、約束が違──」
 また、ハンバーグを詰めこまれる。実摘は彼を睨みつけた。伊勇は物笑いする。
 その調子で食事が続いたが、もてあそばれていると分かって途中でやめた。しかし彼は、実摘が無視という手段で対抗しようとすると、いちいちつついてくる。
「帰りたいってさ」
 伊勇は低く嗤笑している。
「お前、どこに帰るわけ? どうせ、そんな場所ないんだろ」
 実摘は伊勇を睨んだ。本当はずきりとした。帰る場所がない。その通りだった。飛季の部屋だって、実摘の独裁だ。
「ふらふらしやがって」
「うるさいな、」
「お前は縛りつけておいてちょうどいいんだよ」
「あんたには関係ないよ」
 伊勇は空になった皿を床に置いた。
「俺には、な」
 含みのある言い方に、実摘は伊勇を見た。伊勇は体勢を直し、口辺をゆがませた。
「あの人には、あるんだ」
 あの人──。実摘は伊勇を凝視した。心当たりが浮かび、慌てて消した。
 冗談ではない。第三者であるはずの伊勇は、さも愉快そうに嘲笑する。
「出してやるって言ったよな。今日、お迎えが来るぜ」
 実摘は平静を装おうとした。同時に、そうすることで自分が本心では怯えているのを知る。
「お迎えって」
「分かってんだろ」
「知らないよ」
「あの人がお前をあきらめると思うか」
 実摘の胸が、きゅっと鋭い痛みに絞まった。
 あの人。神格化されていた彼女は、一部の人間にそう呼ばれるときがあった。名前を呼ぶのはおこがましいと。
 実摘は堰を切る恐怖を振り切り、伊勇を睨めつけた。
「嘘だ」
「逃げられると思ってたか?」
「何にも知らないくせに」
「お前、あの人のもんなんだろ」
「ふざけんなよっ、適当ぬかすんじゃ──」
 伊勇に乱暴に顎をつかまれた。強制的に視線が刺さり合った。余裕に満ちた伊勇の目の中の実摘の瞳は、すくんで慄いている。
「あの人に言いつけるぜ」
 冷たくなった喉が、呼吸を凍らせる。
「実摘」
 実摘は目を剥いた。
 実摘。この男に本名を教えた憶えはない。ミミとしか言っていない。
 何で。まさか、本当に──
『実摘』
 彼女が来る?
 彼女に連れていかれる?
『あなたは邪魔』
 また、あそこで実摘は──
『消えなさい』
 実摘は、空を突き裂くような悲鳴を上げた。
 頭蓋骨を上下に激しく揺すった。痛むこめかみが破裂しそうだった。記憶が蘇りかけて、唸って拒否した。軆をくねらせ、ベッドから離れようとする。ごとんとベッドが動く。かまわずに手首をちぎろうと、喉をもごうとした。
 ここを離れなくてはならない。息が苦しい。構わない。彼女が来る。彼女にまた殺される。それだけは嫌だ。
 手錠が肌に食いこんでいる。強く引いた。一気に手首を引きちぎろうとした。そのとき、腕をつかまれて抑えこまれる。
 彼女だ!
「いやあっ」
「てめえ、」
「いや、やだよ、助けてっ」
 ばたばた暴れると、さいわい手をはらいのけることができた。実摘は這いずる。首輪で急激に喉が絞まる。息が捻じれ、実摘は勢いよく吐いた。びちゃっと音がして、生温いものが顔にかかる。
「うわっ、お前、」
 それでも実摘は、床を引っかいてその場を逃れようとした。ぎゅうぎゅうと首輪が喉を痛めつけた。視界が反転する。
 頭が邪魔なのだ。悟った実摘は、側頭部を鷲掴んで、首から頭蓋骨を引き抜こうとした。
 すると再び腕をつかまれ、実摘は声帯を破りそうに声を上げた。
「やだっ、あ、いや、ごめんなさい。嫌だよ。助けて。にら、飛季、飛季っ」
「何なんだよ、」
「飛季、助けて。怖いよ。飛季、飛季、飛季──」
 ばしっと頬を引っぱたかれた。はっとした。眼前に鋭い眼があった。飛季ではない。にらでもない。けれど、彼女でも、ない。
 実摘は不明瞭なうめきと共に、その場に座りこんだ。そこにいたのは、伊勇だった。
 実摘はうなだれ、すすり泣いた。完全にハンバーグの色をなしている嘔吐物に、瞳の雫が降った。肩を落として目をつぶる。
 伊勇は忌まわしそうな息をついて、そこを離れた。すぐに戻ってくると、実摘にバスタオルを投げつける。
「自分で片せ」
 実摘は動けなかった。あふれた涙が、ぱたぱたと汚物に融化していく。伊勇は噴射を浴びた服を着替え、さっさと部屋を出ていった。
 ばたんと荒々しく閉められたドアに、実摘はびくんと痙攣する。涙が流れた。頬や喉、口元に流れこんだ。ハンバーグが充満する舌に、塩味が染みる。だぼだぼのジーンズが汚物に潤びていく。
 みじめな想いで、手の甲で涙をぬぐった。汚物が臭い立っている。涙は止まらない。ここに来て、どんなにつらくても泣かなかった。それに気づき、いっそう泣きやむことができなくなる。投げられたタオルを弱々しくつかむと、嗚咽をもらしながら床を拭いた。
 拭くというより、向こうに追いやる作業を続けていると、ふとタオルの下で、堅いものが床とこすれた。実摘は泣きながらタオルを持ちあげ、引っくり返した。重くなったタオルは、どろどろの挽肉にまみれていた。汚臭が顔面にかかる。
 ぐずぐずする実摘は、それを覗いた。はたと濡れた瞳を開いた。汚物の中に、なかば埋もれている銀色があった。実摘は、指で涙をはらう。信じられないながら、銀色の光は幻覚ではなかった。
 実摘は臆せず、嘔吐物まみれのタオルに指を突っ込み、それをつまみあげた。大きく目を見開いた。それは、ふたつの小さい鍵が束になった、銀の輪だった。
 実摘は汚れきっていないタオルの裾で、鍵を綺麗に拭いた。間違いない。そのふたつの鍵は、首輪と手錠の鍵だった。
 何で、と思った。食べていたのだろうか。まさか。
 考えてみて、伊勇につかまれ、暴れたのを思い出す。あのとき、伊勇が落としたのか。きっとそうだ。実摘は思いがけない幸運に打ち震える。
 握りしめた鍵を、さっそく手錠に当てがってみる。どちらがどちらかは分からないので、それぞれに試す。ひとつめが合わなくて不安になったものの、ふたつめをさしこみまわすと、かちゃっとこころよい音がした。
 やった、と思ったとき、左手首が解け落ちる。実摘は喜色した。逆上で手錠が食いこんでいるのが痣になっていたが、気にならなかった。もうひとつの鍵で、手探りに首輪の鍵穴を探した。見つけると、丁重にさしてまわす。こちらもいい音がした。輪になっている鎖を頭から抜くと、実摘はとうとう自由になる。
 何秒か感動に浸ったあと、いそいそとベッドに手をついて立ち上がった。だいぶ使っていなかった脚に、膝が崩れかけたが、立てなくもなかった。ちょっとうろうろしたら、ちゃんと歩けるようにもなる。
 ゲロなど放置して逃げ出そうとした実摘は、はっと引き返した。ベッドの下を探り、目当てのものを胸に抱く。これは持って帰ろう。飛季の服だ。
 飛季。そうだ。ここを出ればやっと会える。ずっと会いたかった。あの胸に飛びこめる。あの腕に溺れられる。やっと飛季に会える。
 実摘は服をぎゅっと抱きしめると、玄関に走った。靴がないので放られている伊勇のぼろぼろのスニーカーを履いた。大きすぎるが、小さすぎるよりいい。
 ドアをいっぱいに開ける。まばゆい朝陽が、空を切り開こうとしていた。

第三十二章へ

error: