野生の風色-36

腕の痕

「遥──」
 息遣いにひりつく喉に、声が少し低くておかしい。まるで無理に声変わりさせられたみたいだ。
「……やめろよ」
「俺なんか死ねばいいんだ」
「誰もそんなの思ってない。だから、」
 痛む喉に唾液が引っかかり、嘔吐するように僕は咳きこむ。
「だから、こんなのしなくていい」
「………、」
「遥は何も悪くないから」
 遥は少し目を開いた。僕はその、もう恐ろしいものは煮え立っていない瞳を静かに見つめ返す。
「遥にばっかり、無理させる僕たちが悪いんだ」
「………、嘘だ。俺が変なのが悪いと思ってる」
「僕たちが悪いから、遥も変になるんだろ。遥が悪いんじゃないよ」
「嘘だ」
「信じられないなら、そう思っててもいいよ」
「………」
「僕たちは、遥の敵だよね。そんなふうに思わせるようにしかつきあえなくて、ごめん」
 遥の手首が産む深紅は、傷口に飽和しては、低い音で床に飛び散っていた。多量の血にねばりぬめる傷口は、本当に赤い沼だ。えぐれた肉がいっぱい血におおわれると、深紅はのろく手首を伝って床にべったりと跳ねる。遥は左腕にも火傷の痕を持っていた。
 僕を見据えていた遥は、ふと瞳の糸を切らしてぐったりと床に背を丸めた。「遥」と慌てて覗きこんでも、反応はない。代わりに小さくなった軆が嗚咽に痙攣した。
 なぜ泣くのか分からなかったが、それにはあの闇がこもっていた。重く鈍く、こちらの胸に息遣いを沈ませる陰りを澱ませてくる。蹌踉として、行き着く場所がなくて、闇にすべてを穿たれて──生徒指導室のときとは、ぜんぜん違った。
 今回はドアもなく、その気の遠くなる疼きは剥き出しに僕の喉を絞めた。さっきの手より、ずっと。
 僕がひとまずフォークを取ると、遥は傷つけた手首もろとも腕を胸に丸めてしまった。僕は遥の肩に手を置き、かあさんを向く。
「部屋に連れていこう」
「……部屋もめちゃめちゃなの」
「じゃ、二階の和室にでもふとん引いて」
「……わ、分かったわ」
 チェストに手をついて立ち上がったかあさんは、未練を持って電話を一瞥すると、リビングを出ていった。
 僕は息をつき、ふわつく頭痛はあっても心臓は落ち着いたことに気づく。ただし、喉が変な感じだ。妙に風が吹き抜けるような。まさか穴が空いたんじゃないだろうな、と喉元に触れると、そんなことはなかった。
 触ると響く痛みが走る。遥の親指が食いこんだところだろう。痣になるかもしれない。自分が制服を着たままなのも思い出しつつ、僕は手のひらに引き攣りを伝わす遥に目を落とした。
 乱れた黒髪が、虚弱な嗚咽に合わせて揺れ、映す白熱燈を波打たせている。くぐまった背骨は、薄手の黒い服に浮き上がり、脚は腕と同じように窮屈に曲げられて腹部に隠れようとしていた。切れたのが冷めて、鬱に近い状態に来たのだろう。あのときも、さんざん切れたあと、こうして泣いていた。
 医者は呼ばないほうがいいと思う。あの医者の助言に従えば、その選択もありだ。遥の好きなようにさせる。遥は医者を嫌っている。たとえこちらは、彼を医者に押しつけておきたくても、遥のために押し殺すのを選ぶ──間違ってないじゃん、と僕はひとり納得し、慣れない手つきで遥の髪を正し、背後をかえりみた。
 降りしきる雨を覗かすガラス戸には牛乳がただよい、床には食器や食べ物がばらばらに殺されている。片づけ大変だな、ととりとめなく思っていると、かあさんが降りてきた。まだ医者に光を見ているのか、物言いたげにするかあさんに僕は首を振り、「休ませよう」とフォークを床に置いて、かあさんと遥を立たせた。
 遥はいったん嫌がったものの、それもだるかったのか、すぐ抵抗はやめて言うなりになった。僕たちは、うなだれて顔を隠す彼を二階に連れていき、僕の部屋の正面にあたる和室に導く。入口が引き戸のここは空き部屋で、なかば物置なのでやや雑然としていた。ホコリっぽさもあれど、混乱はさっきのダイニングほどではない。
 たたみの匂いが強いそこには、明かりがつけられ、奥の窓辺を頭に敷きぶとんが引かれていた。誰が使うわけではなくも、一応ある客用のふとんだろう。
 骨を分解されたようにふとんに崩れた遥は、横たわるとまくらに顔をうずめ、なおもすすり泣きに沈殿した。肩を震わせて幼く縮む。遥の心の痛みは分からなくても、その深さなら伝わりそうに、その闇は底無しだ。かあさんがふとんを着せると、遥は頭まですっぽりかぶった。
 そう強いわけでもない、心細くなる雨音が一階より生々しく響いている。「僕たち、一階片づけてきたいんだけど」と僕はゆっくり遥に声をかけた。
「行っていいかな」
 遥は無反応だった。無視ではなく、脈打つ傷口に飲まれて外界が知覚に届かないようだ。参ってかあさんを見る。すると、「悠芽はいてあげてちょうだい」と頬に涙を残すかあさんは腰を上げた。
「え」
「先生は呼ばないんでしょう。だったら、悠芽がいてあげなさい」
「怒ってんの?」
「怒ってないわ。ひとりにもしておけないでしょ」
「……うん」
「まず、遥くんの部屋片づけるわね」
「うん──。あ、それは、遥にさせたほうがいいのでは」
「どうして」
「いや、だって……遥の部屋だしさ。自分の勝手にいじられるのって嫌じゃん」
「………、ベッドだけちゃんとしておくわ。ここにずっと寝ておくわけもいかないでしょ」
「う、うん」
 かあさんは歯切れ悪い僕に訝しそうにしても、それより掃除の時間が惜しいのか、部屋を出ていった。僕はひとり、何とも言えない想いで、かあさんが遥の部屋で煙草なんかを発見しないのを祈る。煙草どころか、もっと変なものもあるかもしれない。
 普段人の足にさらされず、匂い立つたたみに腰を下ろした。まだ制服のままだ。名札までつけている。
 服ぐらい着替えたいな、と思っても、かあさんは医者を呼ばない責任は取れという感じだった。あんなの呼んだってしょうがないじゃん、と僕は自分を正当化し、名札は外すと、傷におののく遥と遊離しながらも共に過ごした。
 あまりの虚ろに、めまいが起こる。あのときと同じだ。ドア越しに遥の嗚咽を聞いていたときと同じで、どんどん力が抜け、体重が根となって床に下りて動けなくなる。瞳はぼんやり空中を泳ぎ、ふとんの防虫剤が混じったたたみの匂いや、雨に肌寒い空気が感じられなくなる。
 深い穴に堕ちて聞くように、遥の傷みきったすすり泣きは頭に反響した。雨にたたずんで眺めた光景のように、無彩色で単調だ。雨の光景がただ寂しいように、遥の嗚咽はただ痛む。その弱い声には疼痛が無力にもがき、脈打ちのたびに血は残酷にあふれた。
 もう、むしろ、血の流れをとめたほうがいいぐらい、すべてがむごい空風が抜けている。聖域を損なわれた嗚咽は、永遠を漂流するように長びいたけれど、少しずつ落ち着いていった。
 そして、なくなったすすり泣きは、自然と寝息に溶けこんでいった。寝たのか、と僕は初めて身動きして大息する。軽くふとんを剥がしてみると、濡れてくしゃくしゃになった前髪がかかって分かりにくてても、傷ついた手首をまくらもとに置いて、遥は眠っていた。僕はほっとして、ふとんを戻すと、何でこんなことになったんだろ、と改めて問題を考えて瞳を空にやる。
 広田とのごたごたは、先週末の話だ。爆発には遅すぎる気がしても、なだらかに済まそうと耐えた可能性もある。なぜ耐えたのかと考えれば、医者を呼ばれたくなかったとか、切れて僕たちと関わりたくなかったとか、筋道はいくつも立つ。広田にいらだった台詞も口走っていたし、何せ、原因があいつなのは間違いない。もう絶対遥に近づかないようにかあさんに言ってもらわなきゃ、と僕はしっかり頭に刻んで、ひとりうなずく。
 遥の暴言を思い返し、基本的に父親をののしってたみたいだなと思う。けれど、あいつら、という言葉も発していたので、母親もどこかでののしっていたのだろう。
 とはいえ、遥は母親を父親ほど露骨には罵倒しない。母親のほうがマシだったのか、いまだののしるのが怖いほど母親のほうが猛烈だったのか。あるいは、母親に関しては、虐待より心中が比重を重くしているのか。
 遥の母親は、自分に暴力を振るう夫を殺し、息子と無理心中しようとした。遥は心中についてはいっさい口にしない。虐待と心中は、遥の中では別の事件として分類されているのだろうか。
 外が闇に暮れ、遥も熟睡に落ち込んだ頃、僕は部屋で制服だけ着替えた。Tシャツとジーンズになると、制服はハンガーでガラス戸にかける。ぐずぐず続く雨に空気がしけって、寒かった。
 荷物が玄関に置きっぱなしでも、まあそう言われたのだから、遥のそばについておこう。宿題が心配でも、かあさんが教師に事情を連絡して免除にしてくれるかもしれない。僕はつくえにあったティッシュボックスと和室に帰る。丸くなったまま眠る遥は、さっきの嗚咽と対照的な、やすらかな寝息を立てていた。
 遥のまくらもとに座った僕は、かたわらにティッシュを置いて、そっとふとんをつかんだ。めくって、彼が眠りこんでいるのを確認すると、冷たさで起こさないよう、こぶしを握って温めた指先で傷ついた手首を丁重に引き出す。
 血は止まって、かたまりかけていても、眠っているあいだに引っかいたり圧したりすれば、またあふれてくるだろう。ひとまず、ティッシュを包帯にしておこうと思ったのだ。
 フォークなんかで突き破った傷口は、消毒したほうがよさそうに乱雑にえぐれている。が、薬を塗りこんで痛みに目覚めさせても、たぶんよくない。
 袖に染みて前膊にも流れこむ血を、僕はぬぐえるだけティッシュでぬぐっておいた。濡らしたくても、唾なんてつけられないし、乾いたティッシュでできる限りやる。そうしていると、ふと僕は、火傷にしわがれた遥の腕に、変な痕があるのに気づいた。
 どうやら──注射の痕だ。
 注射。僕は自分の白い腕を見て、学校でいろいろ予防接種を受けたのを思い出す。それかな、と思っても、よく考えれば遥は学校に行っていない。それどころか、家庭でも世話をされなかった。もしや、そういうものはきちんと受けていないのではないか。いや、病院に保護された時点でさすがに受けたか。
 しかし、その注射の痕はそんなに古いものではなさそうだ。それに、あまりに不器用な残り方で、医者の手が施したものとは思えない──
 はっと遥を見た。といっても、ふとんをかぶっているのだが。喉がすうっと冷たくなり、希摘や日暮との話が脳裏をかすめる。まさか。いや、でも──
 動悸を抑え、僕はその前膊の内側にある痕を見つめる。たとえば、覚醒剤は吸うばかりでなく、注射で打つ場合もある。まわしうちではエイズなどの病気にも感染するとかいう話で、授業で習った。
 しているのか。覚醒剤。とは限らなくても、薬。薬物。嘘、と僕はたたみに体重を落とし、抜けた力に遥の手首もふとんに取り落としてしまった。
 遥は小さくうめいて手をふとんの中にもぐらせ、再び穏やかな寝息を立てはじめた。
 遥は薬をしている。考慮の射程範囲を大きくはずれた問題に、マジで、と僕は当惑に瞳をうろつかせた。
 僕たちは、遥をそこまで追いこんでいたのか。薬の先にあるのは死だ。しかも片道切符だ。愉しむほどに、腐っていく。遥がそんな状態になっておかしくない、生きる意味を失くす傷を負っているのは知っている。でも、まだ、薬だけが道ではないところにいると思っていた。
 楽観だったのか。遥は僕たちが思うより追いつめられていて、死への一本道に到達していた。どうしよう。遥は僕への敵意の気力も失くし、無関心に没しつつある。この世から消滅させることで救うのもひとつの手段だが、本当に最後の手段だ。遥の精神の侵蝕は、それしか残されていない極限に来ているのか。
 たたみに目を落として、唇を噛んだ。不安な雨音が悪い鼓動をあおった。
 正直、僕は遥を大切な家族として愛しているわけではない。だが、まったく情がない他人として見ているわけでもない。
 なのに、ここまで間抜けを極めて追いこんで、自分が情けないより怖かった。このまま遥が壊れていくと思うとそれも恐ろしく、その恐怖がかえって身をすくませ、僕は遥にどうすればいいのか分からなかった。

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