野生の風色-37

曇った物思い

 閉ざされた窓の向こうでは、雨こそ降らせなくても、じっとりとどこおる暗雲が校庭をおおっている。雨が降ればその冷たさに涼しいけれど、降らないと雲の上で真夏を待機させる太陽にやたらと蒸し暑い。
 抜ける風もなく、今日はまさしくそんなじめついた日だ。二時間目が終わった休み時間、僕は騒がしい教室に背を向けて、窓辺で手すりに前膊を預け、アルミに体温を溶かしながら自分の気分そのものの空に瞳を同化させていた。
 夏と冬の色が違うように、晴天と雨天も景色の色が違う。薄暗さに明かりを灯す雨の日は、妙に色合いがこもってきつくなる。晴れの日のほうが、太陽に透かされて色合いが軽やかだ。電燈は色をさわやかに通せないので、瞳に色彩を重くさせるのだろう。
 早く太陽出ないかなあ、とずっしり雲がかかる空に上目をしても、そしたら夏だ。それもやりきれなくも、駅前にゲームを買いにいきたいし、やっぱりあのいっぱいに広がった青さが懐かしい。
 遥が切れたあの日から、一週間が過ぎていた。彼の行動は、いよいよ混沌を増している。
 今も教室にそのすがたはなく、日曜日だった昨日の夜も、帰ってきたのは僕の就寝直前だ。部屋で希摘に借りたゲームをしていてお菓子を食べたので、歯を磨きに一階に降りたら、遥が玄関で靴を脱いでいた。
 両親に気取られないよう、突っ立つ僕は無視し、暗色に長袖で髪を湿らす彼は無言で二階に上がっていった。そして、いつ出かけたのか、今朝登校するときにはスニーカーはなく、今、遥が何をしているかは見当もない。
 薬を打ったりしているのだろうか。洒落にならない予想に、僕は前膊に顎をうずめる。
 遥の腕にあった、あの傷痕を、誰にも言えずにいる。希摘には言うだろうが、彼のところに行くのは今度の日曜日だ。
 希摘は何と言うだろう。薬に手を出しているなら、もう放っておけと言うだろうか。
 親にも言っていない。とうとう医者の出番が来たのか、と思わなくもない。薬なんて、はまってしまえば、とても凡人の手には負えない。
 はまらないうちに止める、と言ったって、いったいどんな言動をすれば、遥は僕を見てくれるのだろう。僕がでしゃばるから遥もいらつくんだろうしなあ、とそのへんについては僕は卑屈になりつつある。
 あの夜、僕は遥が目覚めるまでそばにいた。遥は薬をしているかもしれない。その疑惑に打ちのめされてぼうっとして、気持ちを切り替えようと一階のかばんを連れてきて、空腹に耐えつつ英語の宿題を広げていると遥は目を覚ました。
 いつのまにか寝息が途切れて、雨の中に身動きの衣擦れがする。手を止めてそちらを向くと、遥は頭を出して、はりついた前髪の隙間から僕を見ていた。
「……あいつは」
「あいつ」
「医者」
「来てないよ」
「……っそ」
 遥の声はしゃがれていた。泣きすぎたせいだろうか。鬱陶しそうに、前髪がはりつく額をこする遥に、「呼んだほうがよかった?」と僕はノートを脇に置く。
「お前に世話されるぐらいならな」
「僕は何もしてないよ。部屋行く? かあさん、ベッドだけは片づけたって言ってたよ」
「……ああ」
 僕はノートと教科書を閉じた。遥はのっそり起き上がり、そのときふとんに手をついて、反射的に眉を顰める。手首の傷が痛んだようだ。
「消毒しなくていいの」
 シャーペンをペンケースにしまいながら、わざと無頓着に言うと、「こんなの傷じゃねえよ」と遥はそっぽを向いた。「そう」と僕はしつこくせず立ち上がり、遥もよろめきそうになりつつ立ち上がる。英語一式はそこに置いて、僕は髪も服もくしゃくしゃの遥に付き添って和室を出た。
 遥の部屋に入るのは、久しぶりだ。そういえば、遥の匂いに違和を感じなくなっているけれど、ここに入るとやっぱり僕たちの匂いと遥の匂いが違うのが分かる。
 明かりがつけられ、浮かびあがった部屋はめちゃくちゃだった。ベッド周りがかろうじて片づけられていても、クローゼットは開け放たれ、床が踏み場もなく散らかっている。ぞんざいにカーテンを閉めた遥はベッドに直行し、片づけないの、と言いたくても僕は黙っておく。
「ごはんは?」
「いらない」
「もう僕、ついてなくていいよね」
「ずっといなくてよかった」
「かあさんに言われたんだよ。医者呼ばない代わりに、そばにいてやれって」
 ふとんをめくったベッドに座りこんだ遥は、入口にいる僕に首を捻じった。瞳に鋭さがないのは、心が穏やかなのではなく、泣き眠ったせいでまぶたが腫れぼったいからだろう。
「何で、あいつを呼ばなかったんだ」
「呼んでほしくなかったんでしょ」
「家族面しやがって」
「医者の指示に従っただけだよ。遥の望みは何でも叶えてやれって」
 遥はふとんにもぐりこみ、ベッドスタンドのリモコンで明かりを消した。急に視界が切断され、残った聴覚にしめやかな雨音、ごそごそ、とベッドの中での居心地を整える音が触れる。なじめない匂いの中、僕は顔を足元にうつむけた。
「あの、さ」
 やや躊躇ったのち、強くない口調で闇の中に言葉を放りこんでみる。
「先週の、広田のことが癪に障ったの?」
 遥は何の言葉も空気もよこさない。
「あの──言っとくけど、あれで切れても遥は変じゃないよ。僕も殺したくなったもん」
 遥の反応はない。「深い意味はないけど」と僕は独白の口振りでつけくわえ、腕の傷痕がかすめても何も訊かず、「じゃあね」とひんやりした廊下に身を引いた。背中で戸を閉めると、音もない吐息をつく。和室の英語一式は部屋に回収しておくと、痛みそうな胃をさすって僕は夕食にありつきにいった。
 一階ではとうさんも帰宅していて、ダイニングでビーフシチューを食べる僕は、かあさんに遥が切れた経緯を聞いた。
 経緯、といっても、部屋で暴れ出したのは突然だったらしい。昼下がり頃に物音がして覗きにいくと、すでに遥が部屋のあの通りにしていたそうだ。かあさんは遥を一階に連れていって、話をしようとした。初めは遥はおとなしかったものの、かあさんが医者を交えようとした途端、再び暴れ出したそうだ。
 妙に多いにんじんをつつき、「それでも、医者呼んだほうがいいと思ってるの?」と僕は正面の両親をちらりとして、冷えた麦茶をすする。
「私たちより、悠芽のほうが遥くんを分かってあげられるのかしら」
「何で? 僕は遥に嫌われてるよ。殺されかけたんだよ」
「殺されかけたのに、そうして遥くんを尊重してるわ」
「僕の私情と、遥の精神状態は関係ないでしょ。ていうか、これにんじん多すぎない?」
「食べなさい」
「悠芽は、先生を介入させないほうがいいと思うんだな」
「僕はね。遥は、僕に世話されるぐらいなら、医者のがよかったとか言ってたよ」
 とうさんとかあさんは、毎度の通りに目を交わし、僕は眉を寄せながらにんじんを食べた。
 そのあと、僕は部屋で急いで残りの宿題をやり、シャワーを浴びると零時すぎにベッドにもぐりこんだ。この霖雨にひなたに干せず、ふとんには自分の匂いが強かったのを憶えている。
 あのとき、本音では僕も、あんなに限界に来ていた遥をなだめることができて、少し彼と通じたような気もしていた。が、翌朝、遥は早くもどこかに消えていて、錯覚だったと認めさせられた。
 あの遥の腕の傷を誰に相談すればいいのか、僕は痣の残る喉元に靄をまとわせ、一週間もこんな状態を続けている。

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