Blue hour-16

真夜中の心

 部屋の片づけが昨年じゅうに終わったので、年明けからは優空の私物を整理することにした。持っていても仕方ないのかもしれないけど、捨てるということはしたくないので、当たり前に部屋のあちこちに置きっぱなしだった日用品をまとめていく。
 寝室の鏡台の引き出しを開けると、優空のフローラルの香水が懐かしくふわりとただよい、胸が絞られた。化粧品は、眠らせておくより聖空さんに受け取ってもらって使ってもらったほうがいいのかな。そんなことを思いながら桜色のルージュや淡い色彩のマニキュアを手に取っていると、ふと引き出しが引っかかり、奥に何かつっかえているのに気づいた。
 覗きこんでみると、奥に隠すように、封筒らしきものが挟まっているのが見えた。僕はそれを丁重に取り出し、宛名を見てどきんとした。『真永へ』という優空の文字があったからだ。もちろん、僕にその手紙に見憶えはない。急に心臓がざわめいてきたけど、深呼吸して、封のされてない封筒から数枚のふたつ折りの便箋を取り出してみた。
『真永へ
 この手紙を真永が読んじゃったってことは、私はその頃、もうそばにいてあげられてないのかな。
 それとも病気は完治して、こんなの書いてたんだよーなんて、笑いながら読ませてるのかな。
 今は、二度目の手術が終わったところだよ。
 真永が仕事に行ってるあいだに、これを書いてます。
 手術は成功したんだけど、何かあんまり具合はよくなくて、いつまた入院するか分からない。
 再発の可能性も低くはないって言われてる。
 このまま病気で死んじゃうのかな……とか、考えるようになってる。
 今のところ、真永の前では、そんなこと考えてるなんて見せてないけどね。』
 一枚目が終わり、僕は二枚目へと読み進める。
『ねえ、真永。
 私は真永に出会えてすごく幸せで、もしかしたら今死んだほうがいいのかなって思うくらいなの。
 それでも、どうしてもあともう少しだけって欲張って、闘病続けて、真永に心配ばっかりかけちゃってごめんね。
 もちろん、真永とおばあちゃんになるまで生きられたら、それが一番幸せだよ。
 でも、それは叶わないんじゃないかって思いはじめて、そしたら、せめて真永を疲れさせてしまう前に死んだほうが綺麗なままなのかなって思ったりする。
 自殺したいわけじゃないけど。
 ただ、これ以上病気と闘いながら生きるのは、私のエゴなんじゃないかとか考えるの。
 真永の負担になりたくない。
 真永に愛されていたい。
 今回の手術で胸もなくなって、でも嫌われたくなくて、毎日泣きそうなの。』
 僕は唇を噛んだ。この文章を綴っている優空が思い浮かび、喉の奥あたりがつぶれるように苦しくなる。三枚目が最後だ。
『私は、最後まで真永に愛されてたかな?
 だったら、私はそれでもう充分なんだ。
 だけど、真永をひとりにしてしまうことだけが、私も心配なの。
 最後まで私を愛してほしいのに、そのあとは真永をひとりにしちゃう自分勝手が、苦しくてたまらない。
 だからね、これを書いてる。
 真永がこの手紙を読むとき、私がもう隣にいなかったら、ちゃんとそばにいてくれる人を見つけてほしい。
 私を亡くしたことで苦しんでるくらいなら、私のこと忘れていいんだよ。
 真永はこれからも生きていくんだから、それをひとりで背負っていく必要はないから、新しい人と幸せになってね。
 私のせいで、真永がひとりぼっちのままなんて、私だって不安だよ。
 まあ、これを書きながら、真永が別の誰かとつきあうなんて早くも嫉妬も感じているわけだけど。
 そのくらい真永が好きだよ。
 大好きだよ。
 だから、私のせいで、孤独にならないで。
 そして、私のために、幸せになってください。
 優空』
 便箋を持つ手が震え、ぱたぱたと涙が優空の字に飛び散っていく。何で。何でこんなの。僕は一生ひとりでいいよ。優空を思うまま死んでいい。それくらい君を愛してる。
 そう思うけど、実際このまま優空の不在に傷つきながら生きることが、たまらなく怖いのも事実だ。この頃から、優空は僕がそんな矛盾に陥ることを見抜いていたのか。だから、こんな、きっと自分の感情を切り刻むような、優しい手紙──
 でも、優空。僕は君ほど愛おしいと思える人なんて、本当に見つけられないと思うんだ。誰だって君と較べてしまうと思うんだ。そして、どんな女の子も僕の中で君に勝ることはない。
 あるいは、それでもいいという女の子が現れるのだろうか。僕の心に刻み込まれた優空もひっくるめて、そばにいたいと言ってくれる子が。しかし僕は、そこまで想ってもらっても、その子を優空ほど愛せるか分からない。
 息を震わせ、まるで優空が亡くなったクリスマスの朝のように、その場にうずくまってしばらく泣いていた。手紙を胸に抱いて、抑えた嗚咽をこぼす。ああ、この手紙が本当に、優空が完治して白状してくれた手紙だったらよかった。ここまで絶望してたんだよ、なんて咲って読ませてほしかった。そして僕も咲いたかった。そばにいてくれる優空に、そばにいるよとささやいてあげたかった。一緒に生きていくために結婚だってしたかった。でも、こんな手紙を書いていたということは、優空は僕と結婚できないことも見通していたのだろうか。
 ──三箇日が明けると、仕事がまた始まった。それでも、せっかく掃除したのだから、家事もなるべくやるようになっていった。優空が生きていた頃、優空の帰宅を待っていた頃と同じ空間で、淡々と毎日を過ごす。そうしているとすぐ二月になって、早いなあ、とぼんやりした目をこすって出勤すると、二階への階段のところで、突然「すみませんっ」と背後から声をかけられた。足を止めて振り返ると、見憶えのない小柄な女の子がいる。
「あの、私、一階の売り場でスタッフのバイトしてるんですけど」
 と言われても、正直見知らぬ女の子に呼び止められて、僕はまじろいでしまう。彼女は焦ったような手つきで、バッグから小さな箱を取り出してさしだした。僕がとまどうと、「甘いの嫌いですか」と彼女は不安そうにこちらを見上げる。
「え……と、」
「チョコ、なんですけど」
 そこまで言われて、今日が二月十四日、バレンタインであることを思い出した。僕はラッピングされた箱を見て、少し困って首をかしげる。
「あー……と、すみません、何というか、僕に好きな人がいても、受け取っていいほうですか?」
「えっ」
「義理なら、まあ、もらえますけど」
「……あ」
「って、ごめんなさい、義理に決まってますね。ありがとう──」
「ち、違いますっ。義理は、女子でカンパして買った奴が行くと思うので。これは、私が特別に買ったチョコです」
 僕は彼女を見つめた。長い髪をひとつに束ね、あんまり化粧っけがないけど、それでも肌が綺麗だから、まだ二十代前半くらいだろう。僕の年齢知ってるのかな、とちらりと思い、まあ気になるのは年齢ではないけど、とも思う。彼女はうつむき、「好きな人が、いるんですね」とつぶやく。
「……まあ。はい」
「彼女さん、ですか」
「………、一応ね」
「そっ……かあ。じゃあ、えっと……ごめんなさい。いきなり」
「いえ。こっちこそ、何かすみません」
「そんなっ。はっきり言ってくれたほうが、期待もしないので。ありがとうございました」
 そう言いつつ、彼女の視線はわずかに泳いでいて、受け取るだけはしたほうがよかったかなと僕もまごつく。しかし、それは彼女の言う通り期待させるし、ホワイトデーにも、結局断るのに何か用意することにもなるし──。「失礼しましたっ」と彼女はぱっと身を返し、一階の売り場へと走っていった。僕は息をついて、彼女だけど、と視線を下げる。もう亡くなってる、とはやはり軽はずみに言えなかった。
 新しい人と幸せになって、と優空はあの手紙に書いていた。だけど、僕にはまだその気力がない。僕がひとり身でいると、優空を心配させることになるのかもしれなくても、僕の心は優空を想って泣いている。せめて、涙が止まらないと先なんて視界に映らない。分かっている。ああいう場合は、チャンスだと思ってチョコを受け取ったほうが健康だと。それでも、僕の精神は優空という支えを喪って、骨折しているのだ。とうぶん治らない。次の恋なんて僕には重たい。
 その日からしばらく経ち、部屋での通話で、希都にそんなバレンタインのことを話すと、案の定『そこはもらうだけしてやればよかったのに』と言われた。僕が思うところを話すと、『確かに焦ることはないけど』と希都は返してくる。
『どういう女の子なのか、知ってからでもよかったんじゃね』
「悪い子ではなさそうだったよ」
『そう思うなら、間に合うんじゃないか』
「彼女いることになったし。というか、実際まだ優空が彼女だよ。希都も言っただろ、次ができるまで優空が彼女でいいって」
『言ったけど。優空ちゃんを引き合いにして、次に行かないのは違うだろ』
「いつかは、ちゃんと考える。今は無理だよ」
 僕が言い切るので、希都もそれ以上は言わなかった。「希都は瑞奏ちゃんにチョコもらったの?」と話を変えると、「まあな」と希都は苦笑混じりに答える。
『自分が食いたいチョコ選んで、半分は瑞奏が食った』
「はは。結婚の準備は進んでる?」
『進んでるよ。すげー大変。式は六月』
「え、すごいね。ジューンブライド」
『キャンセルと入れ違いに取れた式場があってさ。瑞奏は「六月とか狙いすぎだわ」とか言ってたけど、俺の希望で』
「瑞奏ちゃんらしいね」と僕が咲うと「そうだな」と希都も笑いを噛む。
『でも、瑞奏なりに結婚の準備進めるのは楽しそうだし。子供できたら、育休取る根まわしも始めてる』
「すぐ子供欲しいって言ってたもんね」
『てか、プロポーズしてから避妊してねえわ。資金はずいぶん積み立ててるし、いつできてもいい感じ』
「僕も希都と瑞奏ちゃんの子供楽しみだよ」
『ありがと。まあ、真永も──まだ優空ちゃんのことしか考えられないと思うけど、真永自身がいいなって感じた子がいたら、素直になるのは悪いことじゃないからな』
「うん。そのうちね」
『おう。っと、瑞奏さんが風呂あがってきたんで、これからそういうことになります』
 つい笑ってしまうと、向こうで瑞奏ちゃんが何か言った。『はいはい』と希都は何やら答え、それから僕に『またメッセする』と言う。「うん、じゃあ」とこちらが応じると、僕たちは通話を切った。静まり返った部屋のリビングのソファにいる僕は、背凭れに寄りかかって天井を仰ぐ。
 もうすぐ二月が終わる。一枚羽織れば、夜でも暖房を入れなくても過ごせるようになってきた。
 優空が亡くなって、一年以上が過ぎて。ちらほら、次の出逢いをほのめかされることもある。でもやっぱり、僕の心は真夜中だ。翌朝の光を迎える気配はない。いつか朝が来るなんて、とうてい思えない冷たい闇にたたずんでいる。いったい、どうやってこの闇が溶けはじめるのだろう。想像もつかない。僕に蒼い黎明が訪れ、新しい日々が始まることなんて本当にあるのだろうか。

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