Blue hour-17

初夏の海へ

 雨模様が多い三月が過ぎ、四月に入ると気候もだいぶ暖かくなってきた。桜が満開になって、はらはらと花びらが白く降りしきる。今年の会社の花見でも、僕はレモンのチューハイを飲んで、同僚とはだいぶ自然に笑えた。「元気になってきてよかった」と言ってくれる人もいて、わりと心配してもらえていたのを知ったりする。そして遅くに帰宅すると、優空の返事はないと分かっていても、「ただいま」と言えるようになってきた。
 四月から五月にかける連休、僕の会社は今年から、社員もバイトも全員休暇とする三日間が設けられた。そういう企業は増えてきているけれど、まあ、僕が勤めるのは縮小しつつある書店という業種だから、単純にコストカットしたかったのかもしれない。
 でも、休みと言われても、同じくどこも連休なのだから、出かけても混んでいるだろう。優空の実家にでも行こうかな、とも思ったけれど、連絡がついた聖空さんも休暇中で、友達と旅行に出ているということだった。『両親は真永くんが来たら喜ぶと思うけど』とはメッセをもらったけれど、やっぱり気が引けて、僕は聖空さんに『旅行楽しんできてください』とだけ伝えた。希都は来月の結婚式の準備が大詰めだろうし、結局は仕方なく部屋で過ごした。
 休暇一日目の夕方、掃除が終わったリビングのソファでほろ苦いカフェオレをすすりながら、僕はスマホの中身を見返した。最近、充電の減りが早い気がするけども、なかなか機種変するきっかけがない。優空との想い出はすべてバックアップしているとはいえ、それでもスマホを変えてしまったら、気分まで強制的に切り替えなくてはならない気がした。
 室内が夕暮れに陰りかけ、僕はカーテンを引くためにガラス戸に近づいた。日向の熱と匂いが名残っている。透き通ったオレンジ色と蒼みかがったピンク色の夕映えが広がり、明日も天気はよさそうだった。優空と一緒に海で見つめた幻想的なマジックアワーがよぎる。そして、夜の闇の前に、ほんの一瞬のブルーアワーだったっけ。
 また夜か、とため息がこぼれる。だいぶ元気になったつもりでも、ひとりで過ごす夜はやっぱり少し苦手だ。何が怖いのか、なぜ落ち着かないのか、それはうまく説明できなくても、滅入るような不安を感じるときがある。
 優空と過ごして、僕の鬱病は回復したと思っているけれど、今、この状態はどうなのだろう。もしまた病気になったら? 今はまだそうじゃないと思う。愛する人を喪ったら誰もが陥る普遍的な鬱状態だ。が、あまりにも暗い夜が長引いたら、病的な抑鬱に陥ってしまうのではないか。優空はもういないのに、心が病んでしまったら、どうすればいいのだろう。
 ガラスに映った自分に息をついて、カーテンを引くとソファに戻った。夕飯は何にしようかな、と考えつつもスマホを手に取りなおす。十数年ぶんの画像が蓄積しているクラウドにアクセスする。月額をはらって無制限にしているそこには、あの夏に訪れる海を写した写真もあった。このクラウドは優空と共有していたから、彼女が撮ったものもアップロードされているのだ。
 優空はよく、あのマジックアワーを写真に切り取ろうとして、「ぜんぜんうまく撮れない」と嘆いていた。何度も試した写真が、削除されずにすべて保存されている。
 写真から顔をあげると、目が軽く泳いだ。今はあまり、ひとりでいないほうがいい感じがする。しかし、行くあてがない。混雑の中に行きたいわけじゃない。ただ、人の気配をささやかに感じていたい。
 僕は再び海の写真を見つめ、海ならシーズンオフだよな、なんて突然思った。連休中の街のあちこちみたいにはまだ混みあっていないだろうし、それでいて、適度な観光客はいると思う。ひとりで行ったら虚しくならないかな、とも案じたけれど、結局僕は、連絡先に登録しているいつものペンションに電話をかけた。
 応対してくれたのはご主人で、僕のことを憶えていて、こころよく部屋に空きがあることを教えてくれた。『ツインルームで?』と言われてどきりとしたものの、「いや、えと、シングルで」とやや挙動不審の口調で答えると、ご主人は何も詮索せずに明日から明後日にかけた一泊の予約を請け合ってくれた。『お待ちしておりますね』と言われて電話を切ると、背凭れに寄りかかって天井を仰いだ。自分を受け入れてくれる誰かの声を聴いただけで、わずかながら、喉に絡みついた澱みが鎮まった気がした。
 そんなわけで翌日の朝、僕は荷物を簡単にまとめて部屋を出た。昨日の夕焼けのとおり、空には気持ちのいい五月晴れが広がっている。駅を何度か乗り換え、混みあい気味の特急に乗り、昼下がりにあの海の町に到着した。
 潮の匂いが風に乗り、髪をさらりと撫でていく。すっかり初夏の陽気で、半袖でやってきたけど、それでちょうどよかった。海辺沿いの道に出ると、波音が鼓膜に押し寄せる。渚には人がいないわけではなかったけども、夏に較べたらまばらだ。ひと気の予想が当たったことにほっとする。遠い水平線は霞んで、空と海が溶け合っていた。
 ペンションに向かうと、いつもよりゆったり会話をはさみながら対応してもらえた。僕を部屋に案内した奥さんに、「去年の夏も、お部屋おひとりでしたねえ」と言われ、「彼女はちょっと病気で」とだけ僕は答えた。「あら」と奥さんはまばたき、「お大事にって伝えておいてくださいね」と微笑んでくれた。僕はうなずき、普通は「病気」で死んでしまったとまでは連想しないよなと思った。夕食は十八時からだと言い置いて奥さんが立ち去ると、僕は荷物を置いて息をつき、清潔なシーツに横たわった。
 目を閉じると、かすかな物音が流れていく。神経質な状態だったら、それは耳障りかもしれないけれど、今はそばに人にいることに安堵感を覚えた。
 昨夜は、電車の乗り換えがうろ憶えになっていたのが心配で熟睡できなかったので、すぐに意識はうつらうつらしてきた。駅から歩いて軽く軆は汗ばんでいたものの、クーラーをつけるほどではない。糊のきいたシーツに力を抜いて、そのまま、頭の奥がすうっと溶けるような半分眠った状態を揺蕩った。そして、小さく散らばる音の中に、突如犬の吠える大きな声が突き抜けたのではっとした。
 慌てて目を開けると室内はすでに薄暗く、置き時計は十七時半を大きくまわっていた。すぐ夕食の時間だ。僕は急いで起き上がり、あくびを噛んでから目をこすった。スマホを手にして、何の着信もないのを確認する。
 ベッドを立ち上がった僕は、窓辺に歩み寄って、見渡せる宿屋街の通りに目をすべらせた。垂れ耳の犬と、リードを持つ女の子と、背の高い男の三つの影が、アスファルトに長く伸びている。
 あの子か。そう思い、ぎゅっとこぶしを握る。別れまで秒読み、とか言っていたのに。
 生きてるって、いいよなあ──つい、ひがむようなそんなことを思ってしまった。うまくいかなくなっても、もうダメだと別れてしまいそうになっても、生きていれば、決して未来の可能性はゼロじゃない。分かっている。いっそ死んでほしいほど相手を「憎む」場合も起こりえると。それでも、優空みたいに亡くなってしまったら、未来そのものが切断されてしまう。
 夕食は、タラの芽の天ぷらやたけのこの炊きこみごはんといった、山菜メインのメニューだった。ご主人と奥さんが摘んだり掘ったりしてきたものだそうだ。「ここ、山もあるんですね」といつも海側に直行する僕が、わらびの醤油おひたしを食べながら言うと、「今の時期は、海より山登りのお客さんばっかりですね」とご主人は豪快に笑った。確かに、食堂にはうるさいほどではなくとも家族連れやグループが見受けられる。「そういえば」と僕はご主人がほかの客のところに移る前に呼び止めた。
「飼い主の女の子の名前は知らないんですけど、このあたりの宿で、ビーグル犬を飼ってるところってありますよね」
「ビーグル? ──って、茶色で耳が垂れた子ですか?」
「あ、そうです」
「ああ、じゃあ実森みもりさんのところですね。飼い主の女の子は、心寧ここねちゃんのことかな」
「心寧ちゃん。あ、夏に海の家で働いてる子です」
「うん、心寧ちゃんだね」
「去年、僕の彼女のことをあの子に少し話したとき、あの子にも少し話を聞いて。今日もちらっと見かけて、彼氏さんとは、大丈夫だったんですね」
「え、彼氏って、仲松なかまつさんとこの哲基てつきくん?」
「いや、ええと、名前は知らないです」
「うーん、どうなんでしょうねえ。子供の頃はよく一緒に遊んでる子たちだったんですが」
「幼なじみですか?」
「そうですね。気心が知れてるから逆に、ってところはあるみたいですよ」
「そうなんですか」と僕はまばたきしたあと、タラの芽の天ぷらを天つゆにたっぷり浸す。ご主人は笑って、「ほかの女の子の心配なんて彼女さんが妬きますよ」と僕の肩をたたいた。僕がうなずいて咲い返すと、「じゃあごゆっくり」とご主人は別のテーブルに移った。
 僕は天ぷらをもぐもぐとしながら、去年の朝、海辺での彼女との会話を思い出そうとした。しかし、僕にとってべつだん印象的な会話ではなかったし、ブルーアワーの話しか思い出せない。彼氏とはあとは別れるだけだみたいなことは、確かに言っていた気がする。
 けれど、さっきは飼い犬も一緒に、並んで歩いていた。それを見て、生きていれば復縁だって何だってあるんだななんてひがんだのだけど、遠くて雰囲気までは分からなかった。仲は修復したのか、それとも、相変わらずなのか。いや、よく考えたら、あの背の高い男が例の彼氏であったかも僕には分からない。そういえば、落ち着いて思い返すと、彼女には僕の恋人が亡くなったことを伝えたっけ。
 夕食のあとは、例の貸し切れる浴場で入浴して、僕は浴衣になって部屋でくつろいだ。ちょうど希都からメッセが来たので、今この町に来ていることを返信に添えた。『ひとりで?』と来たので、『ひとりだよ。』と返すと、『じゃあ、気い遣わずにゆっくりしてこいよ。』という言葉と居眠りする犬のスタンプをもらった。それ以外はスマホに来る着信もなく、僕はベッドの上で伸びをして仰向けになった。

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