突然の来訪
そうして、沙霧さんが鍵を開けて玄関のドアノブに手をかけたときだ。
出し抜けにドアフォンが鳴った。響く玄関先にいた沙霧さんと僕は、反射的にびくっとしてしまった。
向こうでも、聖樹さんと悠紗の声がぼんやり聞こえる。沙霧さんは手を引き、僕を向いた。
「誰だろ」
「さ、あ」
「今、何時?」
「二十時ぐらい、と思います」
「回覧板かな」
沙霧さんは妙に所帯じみた見当をつぶやくと、「誰ー?」と向こうに大きめの声で呼びかける。「今出る」と聖樹さんの声が返ってきた。しかし、こちらには来ないので、インターホンに出るらしい。
「勝手に開けちゃまずいかな」と沙霧さんが僕に言ったところで、ドアノブががちゃっと動いた。僕も沙霧さんも、とっさに後退る。
「あれ、開いてる。物騒だな」
隙間に聞こえた声に、どっちが、と思った。
「入っちまおうぜ」
「あのなあ、ああいうのが怒ると怖──あ、聖樹。お前さ、出るの遅いよ。あ? 何だよ、分かってるくせに」
「入るって言えよ」
「この野郎、『どちら様?』とか言ってるぞ」
僕と沙霧さんは、顔を合わせた。ぽかんとする僕に反し、沙霧さんは心当たりがある様子だ。
誰でしょうか、と訊く前にドアが引かれて、必然そちらを見た。僕は、ぎょっと目を剥いてしまった。だって、そこにいたのは、あのXENONだったのだ。
あまりに思いがけない訪問に、嘘、と凝然とする。だが、嘘ではない。現実だ。先日のアルバムのブックレットに収まっていた人たちが、生身でそこにぞろぞろいる。生まれて初めて、僕に強烈な憧憬を抱かせたバンドが。
立ちすくむ僕に、無論向こうは見知らぬ人間に怪訝を浮かべた。綺麗な顔で背の高い──要さん、だったろうか。
「誰?」
驚きで何とも返せない。唸って首をかしげる要さんの後ろから、くせ毛で明快な雰囲気の人が出てくる。確か、葉月さんだ。
「お、沙霧じゃーん。偶然。男前になったなあ。引っかけてるか」
「おい、何か知らん奴がいるぜ」
「女に乗っかったんだろ」
「数ヶ月でこんなになるか」
葉月さんも僕を見て、ほんとだ、という顔になった。
そのとき、聖樹さんが玄関にやってくる。私服にはなっていても、眼鏡はかけていた。
困惑の面持ちをする僕に、「大丈夫だよ」と聖樹さんは笑いを噛み殺す。
「よお、聖樹ちゃん。生きてたか」
「お陰様で。“ちゃん”ってやめてくれる?」
「親しき仲には無礼ありって言うだろ。何、こいつ。拾ったのか」
「そうだよ。あのね、来るなら前もって連絡するとかしてよ」
「いや、しようとは思ったんだけどさあ。思ったときには、もうここに着いてたんだな。参っちゃったよ」
「ていうか聖樹、ダチにむかって、『どちら様ですか』とか言うのはいただけないと俺は思う」
聖樹さんがため息をついたところで、悠紗が廊下の向こう側にやってくる。
要さんと葉月さんを認め、「あ」と声を上げた悠紗に、「お」とふたりは返す。悠紗は喜色いっぱいに駆け寄ってきて、要さんと葉月さんの後ろに残りのふたりも続いてきて、狭い玄関先は大人数でぐっちゃりとした。
僕は一歩下がる。
「わー、いつ来たのー」
「今来たのー。って、あ、生意気。身長、俺の腰に届きやがったな」
「段差あるよ」
「あ、そっか」
「ガキが育つのは早いってマジなんですね。おにいさんのことを忘れてないかな」
「ずっと待ってたよ」
「かわいいなあ。一匹持って帰りたいわ」
「一匹しかいねえだろ。んじゃ、上がるぜ。あー、もう疲れた」
コンビニのふくろをがさがさ言わせて、要さんはスニーカーを脱ぐ。そしてリビングに行きかけたものの、ふと、壁に貼りつく僕に目をとめた。肩をこわばらせた僕に、思いのほか、要さんは軽薄ににやにやとした。
「いいなあ、その怯え具合」
僕は鼻白み、それでも軆の力を抜けずにいる。
「わんころみたい。名前を言わないと、ぽちと呼ぶぞ」
「えっ、あ、朝香萌梨、です」
「あれ、雌」
「お、男です」
「だよな。はは、んなビビらなくていいって。たぶんね」
「は?」
要さんは噴き出し、ついでからから笑うと、楽しげに奥に行ってしまった。葉月さんは悠紗を抱え上げて、同様のふくろを腕に通すと、僕にはにっとしてリビングに行く。
僕は唖然としていた。ああいう、軽いノリは初めてだ。
と思っていると、黒いギターケースを背負った人が僕なんか見えていないふうに無言で横切っていく。ギターフェチ、は、紫苑さんだ。
玄関には、僕と聖樹さん、沙霧さん、しゃかしゃかと音をもらすヘッドホンをつけた学生みたいな人が残った。リュックを前に抱え、小柄で無表情で、かわいい顔立ちをしている。
梨羽さんだ、とどきどきしながら思った。
聖樹さんはリビングのほうに息をつくと、梨羽さんを向いた。梨羽さんも聖樹さんを一瞥する。聖樹さんは柔らかく微笑み、それを見ると、梨羽さんは無関心な目つきに戻った。
聖樹さんは梨羽さんの肩を優しく押して、リビングに向かわせる。梨羽さんも僕に完全無視を行なった。胸の内で残念なような気持ちになる。
呆気に取られていた空気は、沙霧さんがついた大息で切り替わった。聖樹さんは咲い、沙霧さんを向く。
「ごめん。驚いた?」
「まあ。変わらないな、あの人たち」
「うん。萌梨くんも大丈夫?」
「………、びっくり、しました」
「いつもああなんだよね。沙霧より突拍子がない」
「何だよ、それ」
むくれる沙霧さんに、聖樹さんは笑んだ。そして、沙霧さんが靴を履いているのに目をとめると、「帰るの?」と訊く。
「ん、ああ。話したし」
「そう。言えた?」
「俺って信用ない?」
聖樹さんはくすりとして、「分かってあげてね」と僕に言った。僕はうなずく。
「じゃ、俺は帰るよ」
「みんなと話していかない?」
「邪魔しても悪いだろ。また今度な」
沙霧さんはドアを開けて、「じゃあな」と聖樹さんと僕に言う。「またね」と聖樹さんは返し、僕は軽い会釈で見送った。
ドアが閉まると、聖樹さんと顔を合わせる。
リビングのほうが騒がしくなってきていた。
「お節介だったかな」
聖樹さんはごちゃごちゃした靴をよけて、鍵を締める。
「沙霧のこと」
「あ、いえ。よかったです」
「そう」
「けっこう、あっさり分かってくれたんですか」
「いや、ぜんぜん。萌梨くんが帰れない理由は伏せておいたし、『何でだ』って食いさがられた」
「理由、言ってない、ですよね」
「うん。僕も詳しくは教えてもらってないってことにしたよ。それがますます懐疑心あおったみたいだったけど」
「はあ」
「つらいことがあるとは言ったよ。いけなかったかな」
かぶりを振った。それだけでは、何をされたかは思い当たれない。
聖樹さんは、僕を廊下へとうながしながら、何気なく眼鏡を外した。見つめる僕には微笑む。XENONの前では外す、と悠紗も言っていた。
リビングでは、すでにビールや食べ物が散乱していた。悠紗と葉月さんはゲームをして、要さんは床に転がって、紫苑さんはギターケースをかかえて隅で無愛想にしている。梨羽さんがいない、と思ったら、仕切りの壁のところでCDをあさっている音がした。
聖樹さんは苦笑いして、「片づけ手伝ってね」と僕に言った。僕も笑ってしまいつつ、「はい」と約束する。
聖樹さんは眼鏡を仕切りに置くと、夕食の用意を再開する。僕も手伝った。
普段が鷹揚な雰囲気なだけ、この騒ぎには異様なものがある。
「何か、すごいですね」
今日の夕食は天ぷらで、僕は溶かした小麦粉にえびやれんこんを浸していく。
ついそうつぶやくと、焜炉に立っている聖樹さんはこちらを向く。
「すごい」
「ああいう感じの人と、聖樹さんが友達って」
「はは。前に沙霧にも言われた」
「中学校が一緒、なんですよね」
「うん。みんな、あの頃からよくも悪くも変わってないな」
リビングを眺めやった。
あの頃から変わっていない。あの人たちと友達になって、聖樹さんは外的な虐げから解放された。確かに、あの四人が後ろにいたら何となく怖そうではある。
衣をつけた食材を皿に並べつつ、紫苑さんのギターに疑問を持った。ほかのみんなは、楽器どころか手荷物も連れていない。持ってきたのは酒盛りの飲食物のみだ。ここに来る前に、例の部屋に置いてきたのだろう。なのに、紫苑さんはギター連れで、しかもおろさずにそばに抱えている。
聖樹さんに訊いてみると、「ああ」と咲った。
「紫苑は、ギターと一心同体なんだ」
「一心同体、ですか」
「あれ、無理に外そうとするとすごく怒るんだって」
紫苑さんの暗い目を盗視する。空間を遊離した深い黒に、感情の起伏は見出せない。
「怒る、んですか」
「ギターを奪おうとしたときだけね。ほかには無感情だよ」
「何かあるんでしょうか」
「それは本人にね」
本人に、とは言っても、気軽に話しかけられそうな人でもない。
聖樹さんは衣をまぶした食べものをゆだる油に入れて、その破裂するような音に会話はできなくなった。僕も疑問は忘れ、黙々といかやかぼちゃに衣をつけた。
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