片づけながら
その後は、時間帯は違えど、普段通りだった。悠紗は寝支度を整え、僕におやすみを言って寝室に入っていく。
それに付き添う聖樹さんが、今夜は眠る頃になっても悠紗に就寝をうながさなかったのに気づく。まあ、久しぶりに友達が帰ってきたのだし、聖樹さんはそういう方面には厳しくない。
リビングに残った僕は、静かになった部屋に突っ立つ。不思議な感じだ。この落ち着きと、あのにぎやかには落差があるのに、どちらもそこにいて楽だった。
いくつかの空き缶をひとかたまりにして、床に落ちたものを拾い集めていると、聖樹さんはすぐに戻ってきた。「あ」と顰め面になった聖樹さんに、僕はきょとんとする。
「離れるとすごいね」
「え」
「お酒のにおい。ほんとに、あのふたりは加減なしに飲むもんな」
そっか、と思った。何時間もその中にいて慣れてしまっていた。聖樹さんは後ろ手にドアを閉めると、こちらにやってきた。
「窓開けたら寒いかな」
「こもるのも嫌ですね」
「ちょっと開けようか」
聖樹さんはガラス戸に隙間を作って、網戸をかけた。もうこの時期だと、夜風はびっくりするほど冷たい。
寒気を謝る聖樹さんにかぶりを振り、片づけを続ける。聖樹さんもキッチンからゴミぶくろを取ってきて、それに燃えるゴミを放っていった。
冷えびえとした外気は澄んでいて、流れこんでくると、それと酒気が入れ替わっていくのが分かる。
「飲んでたわりに、酔ってはなかったですね」
僕の言葉に、するめが乗っていたトレイを取る聖樹さんは咲う。
「あのふたりは強いんだ。中学生のときには飲んでたよ」
「中学、………」
僕の歳だ。自分が興味ないので、僕は学生の飲酒や喫煙は他人事で驚く。
「聖樹さんは、飲まないんですよね」
「うん。自分失ったら何するか分からないし」
どきりとする僕に、聖樹さんはくすっとした。だが、なるほどとも思う。
「僕はお酒に弱いんだ。学生の頃、あのふたりに試されたんで知ってる」
「そう、なんですか。学生」
「専門の頃、ライヴの打ち上げだったかな。思いっきり鬱に入ったんだ。あんまり憶えてなくても、あのふたりが言うには。絡んだり暴れたりしなくても、自分に閉じこもってたんだって。梨羽みたいだったとも言われたよ」
「そのときは、何もしなかったんですか」
「何とか。酔いが抜けるまで、みんなが責任取って見張っててくれたし。それ以来、あの四人は僕にお酒は勧めないよ」
「はあ」とゴミをふくろに突っこんで、いいのかな、と思った。鬱に入るのはともかく、人前でそうなって理由を訝られなかったのか。
あの四人を思い返してみる。梨羽さんと紫苑さんは、もともと何でも興味がなさそうでも、要さんと葉月さんは放っておく気がしない。
いや、無神経な人だとは思わなかったし、聖樹さんを友達と思っているのも本物のようだ。気を遣って知らないふりをしたのだろうか。
「萌梨くんは、あの四人と僕が友達なのが不思議なんだよね」
「え、まあ。多少」
聖樹さんはふくろの縁をつかんだ。そして持ち上げ、ゴミを底にまとめると、「知ってるんだ」と言った。
そのあっさりした口調に、聞き流しそうになる。ぽかんとすると、聖樹さんは複雑そうな笑みをした。
「あの四人は、僕がされてきたことを知ってる」
かたまって聖樹さんを見つめた。知って、いる。あの四人は、聖樹さんがされてきたことを知っている。
かろうじてできたのが、まばたきだった。
「無理に訊き出されたんじゃなくてもね」
手の中のビニールぶくろを握る。無理にではなくても、それでも、話したのか。話せたのか。
あっさり話したのかどうかを、僕は訥々と訊いた。
「まさか」
僕の不安げな上目遣いに、「ほんとだよ」と聖樹さんは念を押す。
「どう言ったらいいのかも分かんなかったし、気持ち悪がられるんじゃないかとも思った。反応も怖かったよ。全部知ったら、この人たちも襲ってくるんじゃないかとか思った」
「………、来なかったですよね」
「うん。僕の話のあと、『欲求不満だったら男より右手選ぶ』って雑誌めくってたね」
「はあ……」
「それで、四人は僕を仲間に入れてくれてた。梨羽が僕を離さなかったのもあるか。梨羽は話す前に全部知ってたんだ」
「え、あ──先に話したとか」
「梨羽は見破るんだ。梨羽と最初に知り合ったって言ったよね。僕が昼休みに隅っこで泣いてるところを梨羽が見つけて、ほかの三人のところに連れていってくれたんだ」
「見た、んですか」
「かもね。梨羽も動揺してたし。梨羽はそのへんに個人的に敏感なんだ。僕が落ちこみそうになったら、そばに来たりしてたよ。しばらく一緒にいて、この人たちなら大丈夫かもって話した」
「どう、だったんですか」
聖樹さんは何秒か僕を窺い、「傷つかないでね」と前置きした。僕はその意味をよく把握できず、うやむやにうなずく。「話したらね」と聖樹さんは拾ったゴミをふくろに投げこむ。
「笑われた」
「えっ」
「要と葉月には、すっごい笑われた」
閉口した。
笑った。要さんと葉月さん。あのふたりならありそうだなというのと、それはひどいんじゃという所感が併発した。
僕だったら、せっかく話して、そんな反応をされたら──傷つくどころではない。
「平気、だったんですか」
「ぜんぜん。ショックだった。恥ずかしくて、後悔もすごくて。紫苑は紫苑で、大したことないじゃないかって顔してるし。泣きたくなったよ。そしたら、梨羽が代わりに笑ってるふたりを睨みつけたんだ」
「梨羽さん」
「梨羽だけが無条件に理解してくれたな。梨羽に睨まれて、ふたりともおさまった。梨羽がそうやって感情出すのめずらしかったし、自分たちの反応が僕には合ってないのに気づいて謝ってくれた」
「紫苑さんは」
「紫苑は興味なさそう、に見えた。あの頃、紫苑のことちっともつかめなくて。そっぽ向いてギター抱えてるだけだったし」
「今はつかめるんですよね」
「つかめる、というか、つかませない人だっていうのは分かってる。あとで僕の話の感想聞いたら、何でそこでめそめそして憎まないのか分からないって言ってたよ」
口ごもったのち、「しゃべるんですか」といささか失礼な質問をした。聖樹さんも失笑する。
「梨羽よりはしゃべるよ。無口は無口だけど。悠にギター教えたりもしてる」
「嫌がったりしないんですか」
「あれでも、あの四人にとって悠はアイドルなんだよ」
「はあ。梨羽さんもしゃべりませんでしたね」
「梨羽はほんとにしゃべらない。人と接するのが嫌いなんだ」
「聖樹さんには違うんですよね」
「みたい。心配してくれてるんだ。梨羽なりの懺悔だよ」
「懺悔」
聖樹さんは答えずに微笑し、部屋を見まわした。話しているうちに、ゴミはなくなっていた。
「聖樹さんは、誰も憎んでないんですか」
「えっ」
「その、紫苑さんが『憎まないのか』って」
「ああ、うん。そうだね。紫苑は憎むから、余計わけが分からなかったんだよ。ギターを弾く動力もそれだし」
CDで聴いた紫苑さんのギターを思い返した。ゆがんで、ぶあつかった。あの人が感情を持つかどうかはともかく、憎悪というのはあてはまる。
「萌梨くんは、誰か憎んでる?」
「………、憎みたくはあります。でも、それで動こうとしたら疲れちゃうんです。憎くなっても、途中で切れて、精神力のなさに現実見ちゃって。落ちこむのが深くなります」
「僕もだよ。必要な気力がないんだよね。憎む以前に、感情が死んで無気力になるんだ」
聖樹さんのやるせない笑みが、よく分かる。“普通”にそそぐ活力を剥奪されたおかげで、僕──僕たちには日常をやりすごすという徒労がある。ゆえに記憶にさいなまれても、泣いたりいらだったりするより、ずんと暗くなるほうが断然に多くなるのだ。
「誰を憎めばいいのか分からないっていうのもあるかな。特定の人だったら、憎しみが気力になったりする。紫苑みたいにね。僕は誰か憎んだって、あの人だけじゃなかったってもっと虚しくなる」
「僕も同じです」
聖樹さんは僕の言葉に微笑み、集めておいた空き缶を抱えこんだ。僕はふくろを持ってくるように頼まれる。
視界の端でカーテンがそよそよしている。掃除と話のあいだに、室内はだいぶ換気されていた。
「萌梨くんは、誰かに話したことってなかったんだよね」
「え、まあ。誰もいなかったですし」
「そっか」と聖樹さんは缶用のダンボールに空き缶を入れる。僕もその隣のゴミ箱にふくろを丸めて入れた。
「僕もね、あんなに詳しく話したのは昨日が初めてだよ」
聖樹さんを見る。聖樹さんは燃えないゴミを別のふくろにまとめている。
「四人に話したって言っても、簡単な事実だし。具体的にどんなことをされたかは知られてない。だから、萌梨くんはすごく大切なんだよ」
「えっ」
「自分の話に泣いてくれる人なんて、期待してなかった。僕の話とかつらさが分かる人なんて」
聖樹さんはゴミを片づけると、シンクで手を洗う。僕もそうした。水の冷たさが指先に痛い。
「それで、ここにいてもらいたいって思ったんだ。で、沙霧にお節介焼いた」
「………、僕も、ここにいたいです」
「うん」
「誰かといるのが嫌じゃないって、ここで初めて知りました」
聖樹さんは一笑し、僕をリビングにうながした。空気が抜けてひんやりとしたそこに帰る。聖樹さんはガラス戸を閉めた。
【第三十四章へ】