月の堤-2

投げかける影

 せめて病院に行ってくれと親に言われて、通院するようになり、そこでぼうっと話をして、家を出たいです、と漠然と言うことが多い自分に気づいた。
 通院を始めて半年過ぎ、面接を受けては落ちるのを繰り返して、条件を落としてこの工場にたどりついた。収入は家に入れもせずにすべて貯金にしているから、安い時給でも貯まってきている。
 家を出たら、もう二度と顔を出さない気がしている。
 しかし、家出なんてどうやるのだろう。部屋を借りるにはどうしたらいいのだろう。実際生活すると、生活費はどのぐらいかかってくるのか。工場のバイトだけではやはり足りないのか。
 引きこもってきただけに何も分からず、切っかけもつかめず、帰宅すれば引きこもりと変わらない生活を送っている。
 食堂を出て、持ち場に戻る人が目立ってきた。お茶もなくなっていた。俺もペットボトルを捨て、作業していた部屋に向かった。
 さっきの女の人が、うつむきがちにケーキピックをふくろから取り出している。
 新人で手際が悪いなんて、かわいいものじゃないか。おばさん同士がしゃべっていたからノルマをこなせず、連帯責任で残業になったときよりマシだ。その日は、何とか残業にもならなかった。あの人続くかなあ、と勝手に同類めいたものを感じながら、その日は工場をあとにした。
 翌日から、その人が出勤しているか、制服の中であのふんわりしたボブを探すようになった。
 一週間で、まだ続くかすぐ辞めるかが分かってくる。その人は一週間が過ぎても出勤してきた。
 すれちがうと、シトラス系の香りがするのも知った。大きな瞳は、ぱっちりしているというよりちょっと垂れて、眠そうにも見えるけど優しい。化粧はあんまりしていなくて、でも口紅の色合いが白い肌になじんでいて綺麗だ。
 ある朝、そのすがたを工場最寄りの駅のホームで見かけた。同じ電車に乗って出勤しているらしい。私服は細いパンツにチュニックを合わせ、ベージュやスモークピンクといった明るくても落ち着いた色であることが多かった。
 名前は奈村なむらさんというらしかった。話はしたことがない。俺が勝手に目で追って、心配しているだけだ。
 おっとりしていると言えば聞こえはいいが、奈村さんはよく「遅い」とか「もっと早く」と注意されることが多いみたいだった。俺もさんざん言われてきた言葉だから、何だか共感してしまう。
 ここでうまく仲介に入ったり、あとで励ましでもするのがモテる男なのだろうが、無論俺がそんなことをできるわけがない。
 そもそも奈村さんは、あんまり周りに話しかける隙を与えていない。友達を作る様子もない。
 おばさんたちは奈村さんが残業をしないのが気に食わないらしかった。残業はもともと、ノルマが終わらかったラインに、「残れるのが可能な人」が集結して一気に終わらせるものだから、事情があるならできなくても仕方ない。
 それでも、勤めが長くなってくると「空気を読め」みたいな圧力に気づいて、残業することになっていくが、入って間もない人は気安く用事があるのでと帰っていく。だから決して奈村さんだけが残業をしないわけでもなかったが、おばさんたちは、なぜだか奈村さんにケチをつけたい一心みたいだった。
「奈村さん。あの子、子供がいるみたいですよ」
 そんなうわさが耳に入ってくるのも、そんなに遅い話ではなかった。
「えっ、本当に? まだ二十代前半とか聞きましたけど」
「子供がいるから残業を断ってるのを、澤口さわぐちさんが聞いたらしいですよ」
「嫌ですねえ。それでもたぶん十代の子供? おとなしい顔して、怖いわあ」
「子供を言い訳にしないでほしいですよねえ。今は託児所だって深夜までやってるでしょう」
「迎えが必要にしたって、旦那の手も借りればいいじゃないの。ほんと要領悪い子ですよ」
 ──仕事を終えて帰宅して、階段の手すりに弁当箱を置いて部屋にこもった。
 ベッドに仰向けになって、結婚してるのか、と思う。まあ、美人というほどではなくとも、優しい容姿だし、言い寄る男くらいいるか。
 しかも、子供がいる。子供がいるということは、処女でもない。そこは俺と大きく違う。俺は童貞だし、初恋さえあったような、なかったような。
 どんなに共感しても、ふと気づく。どこか、俺のほうが欠落している。
 変に声をかける前でよかった。何せ、結婚しているのだ。最大のリアル充実だ。結局、奈村さんも恵まれている人間なのだ。
 何で俺だけこんなにずっと何も変われないかなあ、と考えていると、次第に思考がいらいらともつれて静電気を帯びてきた。うつぶせになってベッドスタンドに手を伸ばし、アップルジュースの酸味と精神安定剤を飲みこんだ。
 女はブスが一番最低だ。何だかんだ言って。では、男はどんな男が最低か。
 俺は、メンヘラ野郎だと思う。メンヘラの男ほど救いようがない男がいるだろうか。
 つまり俺みたいな男が、男として一番最悪なのだ。いつもいつもいつも、俺はぶっちぎって人間として腐っている。
 そんなことを診察で話した土曜日の午前中、病院の帰りだった。駅前の薬局で処方箋の薬をもらうために、薬局に向かっていた。
 奈村さんのことは直接話さなかったけど、近いかと思った人がいても、やはり自分のほうが劣っているみたいな話はした。思考が落ちているので、やわらげる薬を出しておきますと言われた。
 薬増えたのか、とまたひとつ歯車を失った気分で落ちこんでいると、ふと覚えのあるシトラスの香りがして、はっと顔を上げた。
「おかあさん、お昼ごはんどうするの?」
「どこかで食べていってもいいねー。何食べたい?」
 柔らかそうなボブが風に舞い上がる。その横顔は、間違いなく奈村さんだった。
 子供と手をつないでいる。艶やかな黒髪をリボンのバレッタでポニーテールにした、小学校低学年くらいの女の子だ。
 え、と突っ立ちそうになってしまう。小学校低学年。それでも、七歳くらいにはなる。奈村さんは二十代前半だとかうわさでは聞いた。計算おかしくないか。
 いくつで生んだ、いくつの子だ。あるいは、奈村さんは意外と二十代半ばも越えているのか。俺より年上ではあると思うが、いや、せいぜい二、三歳しか変わらない──
 刹那のあいだに考えているうち、ふたりは駅前の往来に飲まれてしまった。
 土日祝には休日勤務の従業員がいて、普通の従業員は休みだ。だから俺もその日と、次の日は引きこもって過ごした。
 病院はぎりぎり土曜の午前中にやっているから、毎週その時間帯に受診している。そして、ひと駅電車を下って地元に戻って、スーパーで土日のぶんの食糧を買って帰っている。
 テレビもゲームもパソコンもない部屋で、薬でぐったりして過ごす。新しい処方の薬を飲んでも、大して気分は変わらなかった。
 おとなしそうな顔をして、と誰かが言っていた。子供がいるくらい、俺より年上ならおかしくないと思っていた。でも、さすがにあんなに成長した子がいるのは、俺にも理解できない。
 俺が引きこもっていた歳の頃、奈村さんはとっくに行為に及んでいたりしたわけか。
 どんな旦那なのだろう。すごい年上だったりしたらいよいよヒくが、俺とタメだったりしても何だかショックだ。
 低く唸って、よれたシーツに顔を伏せる。暖房の風が髪をさする。
 出来損なってるのは俺だけなのだろうか。みんなどこかで優れている。俺には何もない。希死念慮が燻ぶっているくらいだ。
 奈村さんも、職場ではあんな風に冷たくされていても、家に帰ればあの娘がいて、子を生した旦那だっている。愚痴を聞いてくれる人がいて、励ましてくれる人がいるから、あんな職場を辞めていないと考えればうなずける。
 何だよ。ただの幸せな人じゃないか。
 月曜日、工場に出勤して奈村さんを見かけた。相変わらず接点はない。
 朝礼のときに今日の目標に当てられてしまって、俺はどもりがちに自分の仕事を頑張るとか適当でくだらない目標を言った。工場長はいつまで経っても辞めると言わない俺を相変わらず嫌っているようで、「自分の前に人に迷惑をかけない仕事をしろ」と嫌味を吐いた。失笑が少し流れて、俺は口の中を噛んで顔を伏せた。
 工場長が今日のノルマを言い始めて、俺はなぜか、奈村さんを一瞥してしまった。そうしたらいきなり目が合った。思わず視線を引き攣らせると、奈村さんは柔らかく微笑んだ。九時になり、「作業開始」と号令がかかって従業員は散っていく。
 笑われた。
 嗤われた。
 咲われた。
 どれなのか、分からなかった。分からないのに、その柔和な微笑が焼きついた胸がどきどきいっている俺がいた。
 子供も旦那もいる人に覚える反応じゃない。分かっていても、俺は持ち場に向かいながら心臓が吐き出す熱い血に頬までほてるのを感じていた。

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