月の堤-3

冬の日に

 奈村さんがこの工場に入って、そろそろひと月が近かった。
 残業しないのはあの子のためで、旦那はどうしても帰りが遅いのだろう。見た感じ、あのくらいなら友達とでも下校させて、鍵を持たせるのも可能だとは思うのだが。
 まあ今は冬場で暗くなるのも早い。やっぱ親としては心配なんだろうな、と俺は勝手に解釈していたが、おばさんたちはそんなことは知ったことではない。
 バレンタインが近づいて、工場はチョコレートのケーキの香りに包まれていた。それでも足りずに残業になりそうな日、廊下の自販機でお茶を買っていたら何やら声が聞こえてきた。
「みんなねえ、帰りたくても残業してること、そろそろ分かってほしいんですよ」
 ペットボトルを取り上げながら目を向けると、案の定、奈村さんがおばさんたちに絡まれていた。俺はその文句を心で反芻し、小学生でもイジメでそんな常套句は使わないと思った。
 奈村さんは困った様子で、「娘が心配で」と言うが、おばさんは負けない。
「旦那いるでしょう、たまには旦那に迎えにいかせなさいよ」
「夕方までしか預かってくれない保育園なら、いっそ変えたらどうですか?」
「え……と、小学生なので、預かっていただいているのは学童保育で、長くても十七時半までなんです」
「小学生?」
 それ言っちゃいろいろまずい、と思ったが、俺が口を挟む空気でもない。もちろんおばさんたちは顰蹙を浮かべ、「小学生なら」とボス格の主婦が詰め寄った。
「ほっといても自分で帰れるじゃないですか!」
「そのお歳で小学生ってことは、今まではずいぶんご自由に過ごしてたんでしょう?」
「しっかりしてくださいよ、ここはだらしない不良の溜まり場じゃなくて職場なんです」
 奈村さんが本気で泣きそうになっていて、「とにかく!」とボスが畳みかけた。
「奈村さんにも残業してもらうこと、理由のお子さんもひとりで帰れること、私から社員さんに話しておきます。いいですね?」
「けど、十七時で帰れるって契約で──」
「言ったでしょう、みんな同じ契約で、それでも残業してるんです!」
 そう奈村さんをはねつけると、おばさんたちは食堂に入っていった。
 奈村さんは困惑しきった様子でうつむき、気づいたようにケータイを取り出して、廊下の隅へと歩き出しながらどこかに電話をかけはじめる。旦那だろうか。
 気まずかった空気が、奈村さんが角に消えたことでやわらぐ。「おばちゃんきついけど、そろそろ空気分かってほしかったしねー」とか言いながら、奈村さんと同年代の女の人たちは擁護もせずに言い放ち、笑いながら食堂に混ざっていく。
 俺は手の中のお茶を握り、やっぱり声なんてかけられずにロッカーに弁当を取りに行った。
 そんなわけで、その日は奈村さんも残業に参加していた。人手は助かるが、奈村さんがいれば飛躍的に仕事が早くなるというわけでもない。十七時半と言っていたのに、仕事が終わったのは十八時が近かった。
 外は真っ暗だった。チョコレートの匂いと色合いでめまいがしていた俺は、ちょっと外の空気を吸おうと靴箱のあたりまで出た。
 定時で帰った人が残っている時刻でもないし、どれだけ着替えが早いのかと思う帰ろうとする奴がすでに少しいる。そういう奴を避けて、規定シューズのまま外に出た俺は、「あっ」という声が突然聞こえてびくっとあたりを見まわした。
「あ、あの……奈村なむら実暁みあかって人は、まだお仕事中ですか」
 俺は視線をぐっと下にやった。そこには、黒目がちの瞳で俺を見上げる、小さな女の子がいた。
 そのポニーテールのリボンのバレッタには見憶えがある。いや、見憶えも何も、今、名前を──
「……奈村さんの娘さん?」
 後ろ手にドアを閉めて俺がぼそっと言うと、奈村さんのことを知る相手でほっとしたのか、女の子は笑顔になってうなずいた。
 何で。旦那は迎えに行かなかったのか。
 でも、いきなりそんな突っ込んだことは訊けるはずもなく、「奈村さんならすぐ出てくると思うよ」ととりあえず事実を述べた。
「ほんとですかっ。よかった」
 言葉と共にこぼれる息が白い。小さな手は、凍えて握りしめられている。
「寒くない?」
「寒い、けど──大丈夫です」
「そう」
「おにいさんも、ここでお仕事してるんですか?」
「まあね」
「すごくチョコの匂いがしますね」
「バレンタインのケーキ作ってるから」
「ケーキを作るお仕事なんですか?」
「業務用だけどね」
「ぎょーむ……」
「ケーキ屋じゃなくて、スーパーとかのケーキだよ」
「スーパーのケーキおいしいですっ。安いし!」
 ちょっとだけ咲ってしまった。確かにいまどき、ケーキ屋のケーキなんて滅多とない。スーパーの安いケーキのほうが馴染み深いだろう。
「お仕事、大変なんですか?」
「まあ一応」
「そうですか……。最近、おかあさんのほうが先に寝ちゃったりするんです。今日も遅くなるって学校に電話があって」
 学校。昼間の奈村さんの背中がよぎる。旦那じゃなかったのか。
「先生は、一緒に待つよって言ってくれたけど、私から迎えに行ったら少しおかあさん楽かなって」
「学校、近いの?」
「近い……ではないです」
「夜道をひとりで歩いてくるのも、おかあさん、心配するんじゃないかな」
「め、迷惑かもしれないですか?」
「迷惑ではないと思うけど」
「……ひとりで、電車はダメって言われてて」
「電車」
「学校、駅の近くなんです。だから、駅から電車に乗ってお部屋で。朝も一緒に乗ってるんです」
 なるほど、と思った。
 小学校低学年で電車のひとり乗りなら心配か。仕事帰りに一緒に乗れるならそうしたいだろう。
「私がここに来て、おかあさん待ってたら、おかあさん学校に寄り道しなくて済むかなって──」
「あ、いや、別に責めてないけど」
「……でも」
「ただ、ここまで来たときは中まで入っておいたほうがいいよ」
「い、いいんですか。勝手に──」
「おかあさん待ってるって言えば、誰も文句言わないよ」
 女の子は俺を見上げて目をぱちぱちとさせると、嬉しそうに咲ってこくんとした。
 そのとき、背中を冷たいドアに押された。慌てて飛び退いて、あの香りと現れた人にどきっとする。
 奈村さんだった。
「おかあさんっ」
 女の子はまだわずかに硬さもあった頬を、安堵にほぐした笑顔になった。「美星みほし」と奈村さんは飛びついてきた女の子を、狼狽えながらも受け止める。
「どうしたの。学校、待たせてもらえなかった?」
「私がおかあさん迎えに来たのっ」
「えっ」
「おかあさん心配する、ってこのおにいさんも言ったけど。私もおかあさん心配だもん」
「でも……道、暗かったでしょう? 軆も冷えてるし」
「大丈夫だよ、今度からはドアの中に入ってていいって、おにいさんが言ってくれた」
 奈村さんがこちらを見上げた。あのときよりはっきりその瞳に映る。どぎまぎしそうな視線をこらえ、「危ないですから」とだけ俺は言う。
 奈村さんは白い息をつくと、「分かった」と娘さんの頭をぽんぽんとした。
「ブザーはちゃんと持ってる?」
「うん。ポケットにある」
「学校からここまでは、ポケットじゃなくて手の中に持っておきなさい。それなら、来てくれてもいいから」
「ほんと?」
「本当に気をつけるなら」
「うんっ」
 娘さんの頭を撫でてから、まだ突っ立っている俺に奈村さんは目を向けた。
「何か、すみません。……ええと」
風野かざのです」
「あ、ごめんなさい。お話したことなかったですよね」
「はい」
「どうしても、物覚えが悪くて。ダメですね」
 苦笑する奈村さんは、もう私服でバッグも提げている。俺は制服のままだ。
「じゃあ、その、俺も着替えあるんで」
「はい。ありがとうございました」
「おにいさん、ありがとう」
「いや。気をつけて」
「またお話できますか?」
「えっ──あー、どうだろうな」
「美星。困らせるんじゃないの」
「だって。おにいさんにも会いたいから、また来ますねっ」
 俺はまた少し咲って、「だったら敬語やめていいよ」と言って、従業員が次々と出ていくドアに引き返した。中に入る前にちらりと振り返ると、奈村さんは頭を下げて娘さんは手を振っている。
 考えれば、きちんと誰かと接するのは久々だった。何かあんまり緊張しなかったな、とほっとしながら、ふたりに笑みも作れる自分に驚いて、ロッカールームに急いだ。

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