ほのかな光
それから、奈村さんも含めて残業があった日に工場を出ると、ふたりが俺を待っているようになった。
最初の日は「美星が風野さんに挨拶したいって言うので」と奈村さんは申し訳なさそうに言った。それには俺は首を振り、美星ちゃんの目の高さにかがんで「よう」と咲う。すると美星ちゃんは無邪気ににっこりして、わずかな時間だけど、ふたりと話すようになった。
「今日寒かったね。お昼は雪も降ってたよ」
バレンタインは過ぎ去ったものの、奈村さんはあれから残業にはほぼ参加させられている。必然、俺はふたりと過ごす時間をよく重ねていた。
「そうなのか。気づかなかった」
「積もってはないですね」
「積もってほしかった! 雪だるまとか作ったことない」
「俺もないな。このへんあんまり積もらないからな」
「風野さんはこの近くなんですか?」
「地下鉄でふた駅下ります」
「あ、下りなら私たちと同じ方向なんですね」
「私たちはひと駅で降りるの」
ということは、病院と同じ駅だ。薬局に向かうとき見かけたのも、見間違えではないみたいだ。
「風野さんは、定期券で通ってらっしゃるんですか?」
「え、はい。週五日はさすがに定期のほうが助かるんで」
「じゃあ、あの──交通費のご迷惑はおかけしないみたいですし、よかったらうちで夕食でもご一緒に、って先日美星と話してたんですけど」
「えっ」
「そうだよ、おにいちゃんっ。ここで話すのも寒いでしょ」
「あ、じゃあ、俺のこと待たなくてもぜんぜん……」
「おにいちゃんとは話したいのっ」
「おいそがしかったら、いいんですけど」
「いや、いそがしいとかは……」
言いよどんでしまう。
家って。さすがにそれは──。
言っていいものか迷ったものの、そろそろ話題に持ち出してもいいだろうかと、思い切って訊いてみた。
「俺みたいのが家に行ったら、旦那さんに悪くないですか」
奈村さんと美星ちゃんは顔を合わせた。「えっと」と奈村さんは困ったように咲う。その反応が読めなくて首をかたむけると、奈村さんは口を開いた。
「旦那なんて、いないですよ」
「えっ」
「結婚もしたことないです」
無意識に奈村さんの左薬指を見た。本当に、そこには何も光っていなかった。
結婚したことも、ない。じゃあ、美星ちゃんは──
「ごめんなさい、嫌ですよね」
疑問の前に、奈村さんが弱気にうつむいた。
「変に勘違いされると、風野さんが迷惑──」
「そ、それはないですけど。いや、その、ほんと旦那さんいると思ってただけで」
「おにいちゃんも、やっぱりおとうさんがいないおうちは変だって思う……?」
「いや、違うよっ。ごめん。びっくりしただけだから」
「じゃあ、お部屋で一緒にご飯食べようよ。おかあさん、料理うまいしっ」
「え……と、いいんですか?」
とまどいを残しながら奈村さんを見ると、奈村さんはうなずいて、「作れる料理は並ですけど」と照れ咲いした。
俺は顔を伏せて考えてから、「じゃあ」と遠慮がちに目を上げた。
「えと、今度……」
「今日はダメなの?」
「い、いきなり行くのも失礼だし」
「そう──ですね。少し掃除しておかないと。風野さんにもご都合があるでしょうし」
「えー」
「美星。今度来ていただけるんだからいいでしょう」
「おにいちゃん、約束だよ」
「うん。分かった」
「よかった。じゃあ、今日はこのへんにしましょうか」
二月下旬の夜は冷えこむけれど、少しずつ日が長くなっているのに気づく。それでも、もう空は真っ暗だ。「やだ、駅まで一緒に行こうよ」と美星ちゃんは俺の手を引っ張り、小さい手につられて前のめりになる。
美星ちゃんを挟んで、奈村さんと三人で駅まで向かった。短い小道を抜けると、けっこう車が行き交う車道に面した、駅への明るい一本道だ。
歩きながら、何か俺が父親ポジションっぽいな、とひとりで思って恥ずかしくなって、どきどきする心臓を抑えた。
次の日、残業はなかったけど奈村さんに声をかけられ、「また都合のいいとき教えてくださいね」と言われた。「掃除は?」と訊くと、「夕べ美星と頑張りました」と奈村さんは微笑んで、俺も笑ってしまった。「次の残業があったときお願いします」と言っておいた。
職場では、俺も奈村さんも孤立組だったから、話すようになってもついてくる面倒な奴もおらず、昼食も一緒に食べたりするようになった。俺は別に何か言ったりしなかったけど、おばさんたちが奈村さんに絡むのもそれで減ったようだった。
おばさんたちは、友人ができて仕事も憶えてきた人をいびるより、新しい子をイジメるほうが楽しいみたいだ。
「もう、残業しなくても何も言われないかもしれないですよ」
俺はそう言ってみたけれど、「残業なくて学校に迎えにいった日は、風野さんに会いたかったって美星に文句言われますから」と奈村さんは苦笑した。
どこかで残業になる日を楽しみにしている自分がいて、二月の終わり、今度は雛祭りのケーキで残業になった日があった。奈村さんと廊下で合流して靴箱に行くと、ぱっと笑顔になる美星ちゃんがいた。
「お疲れ様っ」
「おう」
「おにいちゃん、今日──」
「来てくださるって」
咲いながら言った奈村さんに、美星ちゃんはきらきらと俺を見上げた。その分かりやすさに俺は噴き出してしまう。
子供のことはよく分からない。いや、不得手に感じる。
けれど、美星ちゃんなら苦手意識もなく、かわいらしくて好きだと素直に思えた。俺に無邪気に懐いてくれているのもよく分かる。変に緊張や気後れせずに話すことができた。
そうしてその日、俺は奈村さんと美星ちゃんの部屋にお邪魔した。駅を降りてスーパーに立ち寄って、「何か食べたいものありますか?」と訊かれて、何でも、と言いかけたけどこれは一番困る回答かと考える。
美星ちゃんに「おかあさんの料理で何が好き?」と訊くと、「たらスパ!」と返ってきた。「じゃあそれで」とお願いすると、「お店のみたいにおいしくないですよ?」と奈村さんは自信なさそうに咲っても、請け合ってパスタやたらこを買い込んでくれた。
冷え込む部屋までの道のりは、やっぱり美星ちゃんを挟んで歩いた。
部屋は徒歩で十分もかからないところにあった。一軒家に囲まれたアパートで、アパートの玄関口は奥にまわりこむので、しばらく暗い道が続く。
「ここちょっと危ないですね」と言うと、「そのおかげで家賃がぐっと下がってるので」と奈村さんはエコバッグを持ち直した。いまさら、持ちましょうか、とかいう台詞が浮かんだが、遅すぎるのでやめておいた。
アパートの一階の部屋は、本当にふたり暮らしであるようだった。手前の廊下沿いに台所、奥に部屋がある。奈村さんに「どうぞ」と奥へと勧められ、美星ちゃんに引っ張られて部屋に踏みこむ。
ほんのり、奈村さんのあのシトラスの香りがした。
窓の紺のカーテンは小さな星柄で、抜けてきた暗い道に面しているのか誰か通ると足音が聞こえる。
美星ちゃんが暖房を入れてくれて、あんまり広くない室内はすぐ暖まってきた。ひとまず荷物を下ろして上着を脱ぐ。
美星ちゃんもランドセルを下ろし、そこから取り出されたノートの表紙に『2年1組』とあって、二年生なのを初めて知った。
父親は、どうなっているのだろう。疑問でも、まさかいきなりそんな質問はぶつけられない。
「宿題?」
たたまれた卓袱台を引っ張ってきた美星ちゃんを手伝って、脚を起こしながらノートを一瞥する。
「宿題はほうかごルームでやったよ」
ほうかごルーム、というのは学童保育のことらしかった。
「ちょっとだけ、明日の勉強しておくの」
「えらいな」
「そうかな。塾に行けないから」
「行きたいのか」
「行きたくないけど。みんな行ってるから、すごく頭いいの」
そんなもんなのか、と俺は美星ちゃんと卓袱台を立てる。俺が子供の頃は、塾はむしろ勉強のできない奴が行く感じだった。
「おにいちゃんは、ごはんできるまで好きなテレビ見てていいよ」
「え、いや。テレビあんまり見ないんで」
「そうなの? じゃあ、適当なのつけとくね」
美星ちゃんはテレビの電源を入れ、トーク番組を流して勉強を始める。きょろきょろ部屋を見まわすのも失礼な気がして、俺はテレビを眺めた。
このタレントって奈村さんに似てるなとか映った芸能人で思っていると、やがておいしそうな柔らかな匂いがただよってくる。
たらこスパゲッティってあんまり食べたことないなと思っていたが、たらこが混ざっているというより、たらこの混じったクリームソースがかかっていて、予想よりも知っているパスタに近かったのでおいしく食べることができた。
「おいしいでしょ」
勉強は片づけた美星ちゃんが言って、うなずいた俺は食卓を囲むなんて何年振りだろうと思う。「家族とはもうこんなふうに食べないんで新鮮です」と多少ぼかして言うと、「うちでよかったらまた食べにきてください」と奈村さんは微笑んでくれた。
アパートは、あんまりいい環境ではないようだった。さっきの外の足音もそうだし、ちょっと話し声が大きくなると隣の部屋がわざとらしく咳払いをする。もう一方の隣人の部屋からは、テレビの音がもれている。壁が薄いのだろう。四方の壁紙も小さな染みがあったりするし、フローリングは硬くて冷たい。
家出したら、まずはこんな環境なのかなあと添えられたサラダを食べながらぼんやり思った。まあ、それでもいいけれど。
あの家はつらい。ろくでなしに育った俺を見る両親の目が痛い。今だって、俺が残業があったにしても遅いのに、連絡ひとつケータイに入れてこない。
俺なんか死んでちょうどいいって思われんだろうな、と生のにんじんの甘味を噛みしめた。
何だか居心地がいいので、ずるずる部屋に留まっていたら二十一時が近くなっていた。俺はまだ大丈夫だけど、ふたりには生活があるだろう。
「そろそろ」と立ち上がると、奈村さんが追いかけるように上着を取ったので、「大丈夫ですよ」と制した。
「でも、道がややこしくないですか?」
「分かんなかったらケータイでマップ見るんで」
「来ていただいたのはこっちなのに」
「奈村さんを帰りに独り歩きさせるのも何ですし」
「そう、ですか。すみません、何だか」
「いえ。おいしかったです、料理」
「おにいちゃん、また来てくれる?」
「美星ちゃんと奈村さんが良ければ」
「おかあさん、いいよねっ」
「もちろん。また一緒にごはん食べたいです」
俺は少し決まり悪く笑ってもうなずいた。上着を着こんでからドアを開けると、暗闇が面した廊下は静かで寒い。「じゃあ」と俺は奈村さんに頭を下げて、「また明日」と奈村さんも微笑した。
アパートを出て歩いていると、まだうっすら白く色づく息をついた。部屋では不思議と穏やかだった心臓が、急に現実に気づいて脈打ってくる。
女の人に料理を作ってもらったのも、俺は初めてだ。しかもうまかったし。
いいのかなあと躊躇いながらも思いかけている。
応えてもらおうとかそんなのではない。でも、勝手にそうなるのは俺の自由ではないだろうか。奈村さんを好きになりそうな自分がいる。
恋愛なんて分からない。そもそも知らない。でも、この高鳴る気持ちはやっぱり恋であるような気がする。
分からないことはたくさんだ。美星ちゃんの父親だって、どうしているのか分からない。俺なんかが立ち入っていい人ではないのかもしれない。
それでも、どんな真実があってもそれを受け入れる覚悟くらいなら、持ってもいいのだろうか?
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