月の堤-7

息づいている命

 頼元さんが帰って、また奈村さんと美星ちゃんと合流した。
 まずはファミレス出て、「大丈夫でしたか」と心配そうにした奈村さんに、「奈村さんを大事に想ってる人ですね」とか綺麗なことを言ってしまった。
 美星ちゃんも、ポニーテールを春風になびかせながら気がかりそうだ。
 手駒という言い方は本当にムカついた。悪い人ではないのだろうが、少なくとも、頼元さんには美星ちゃんはそんな存在なのだろうか。
「美星ちゃんが味方だったから」と俺に頭を撫でられると、やっと美星ちゃんは安心した様子で咲った。
「風野さん、このあと用事ありますか」
 改札の前まで来て、定期のICカードを取り出そうとしていると奈村さんがそう首をかたむけてきた。
「いや。特にないです」
「じゃあ!」と美星ちゃんが俺の腕を引っ張った。
「私たちのお部屋で、ゆっくりしようよっ。いつも夜にちょっとしかいられないでしょ」
「え、でも──」
 奈村さんを見ると、にっこりとされる。
「いいじゃないですか。もう耀の文句の心配もないんですし」
「あ……けど、そういえば、部屋に行ってること言わなかったですね」
「親しい人ならそれは私たちの勝手ですから。仲良くしてもいいのに、部屋はダメなんて言われたら、耀は彼氏でもないのにって言っときます」
「……そう、ですか」
「はい。じゃあ、行きましょう」
 美星ちゃんと手をつなぐ奈村さんを盗み見る。咲っている。でも、やはり、自分の言葉でどこか瞳の角度を膿ませている。
 俺は目線を下げ、頼元さんがさわやかに言い切った言葉がみぞおちに刺さるのを感じた。
『俺がほんとに好きなのは実暁だからね』
 どうして、頼元さんはそれを奈村さんに伝えないのだろう。そして、伝えないことを俺にも強要するのだろう。
 奈村さんのことを想うと、と言っていた。よく考えたら、奈村さんのために心理学を勉強していたとも言っていた。奈村さんに何かあるとしたら──
 俺とも手をつないでいる、この子と奈村さんの不釣り合いな年齢差がよぎる。
 そうして、初めて明るいうちに奈村さんたちの部屋におもむいた。この部屋の奈村さんの匂いにも慣れてきた。
 フローリングに陽射しが映っている。暖房もいらない、ちょうどいい季節だ。美星ちゃんは窓辺に座って、あくび混じりのひなたぼっこを始める。
 にしても、いまさら腹が減ってきた。だが、言い出すのは何か用意しろと言うようでずうずうしい。スーパーの手前にコンビニがあったから、何か買いに行こうか。
 金あったっけ、と荷物をごそごそしていると、「これ、どうぞ」と台所にいた奈村さんが、水洗いされて艶やかなさくらんぼが盛られた皿を置いた。
「いいんですか」
「そろそろおやつの時間ですし」
「……じゃあ、ありがとうございます」
「美星。さくらんぼ食べない?」
「んー、あったかくてちょっと眠い」
「昼寝する?」
「さくらんぼ食べたい」
「残しておくから。眠いときは眠りなさい」
 陽光の中にごろんと転がった美星ちゃんに、奈村さんが毛布をかける。それを見ていると、美星ちゃんも俺を見て、「えへへ」と何だか幸せそうに咲った。
「何かいいね、こういうの」
「えっ」
「おかあさんがいて、おにいちゃんがいて、ぽかぽかしてて……何か……」
 最後のほうは言葉になっていなくて、美星ちゃんはうつらうつらしはじめた。「安心したみたいですね」と俺の正面に腰を下ろした奈村さんが微笑した。
「昨日から、風野さんのこと心配してましたから」
「俺のこと」
「耀が風野さんにいらないこと言うんじゃないかって」
「……ちゃんと、信用するって言われましたよ」
「そうですか。よかったです」
 微笑んだ奈村さんに、俺はあやふやに咲ってさくらんぼをいただく。口をすると、甘い香りのわりに酸っぱかったけど、瑞々しくておいしかった。
「ほんとに、何も言われませんでした?」
「何も、ってことはないですけど」
「え、じゃあ」
「いや、ずっと無言だったわけではないというか」
「あ──そうですよね」
「奈村さんが、大事なんですね。それは感じました」
 言ってから、俺は美星ちゃんを振り返る。もう眠ってしまっている。
「そういえば、あんまり美星ちゃんの話は出なかったですね」
 奈村さんはどこか寂しそうに咲う。
「耀は……美星を、よく思っていないので」
「え」
「父と母もそうですけど──両親は、ただ何も知らないだけで。耀は知ってるんです」
 奈村さんが俺を見つめた。俺は動揺を覚えながらもその瞳を見つめ返す。奈村さんの目なら、怖くない。
「知ってるって──」
「美星の父親、です」
「えっ」
「耀が私のこと心配してばかりなのも、しょうがないんです。全部知ってて、平然とできる人ではないから。心配にもなりますよね。……兄からの性交渉も断れない女」
 目を開いた。奈村さんはうつむきながら、卓袱台の上で手を握る。
 俺が何も言えずにいると、奈村さんは引き攣った笑みを向けてきた。
「……やっぱり、いくら風野さんでも軽蔑しますよね」
「ど……同意、ですか」
「………、断ったら、せっかくの家族がばらばらになるって言われてました」
「せっかく、の」
「兄は母の連れ子でした。血のつながりはないんです。父と母はとても仲が良くて、幸せそうでした。再婚までは父はわりと仕事人間だったのに、母が変えてくれて。感謝しています」
「じゃあ……兄貴には、脅されてたんですか」
「分かりません。断れなかったのは私ですから」
「でも」
「少なくとも、赤ちゃんができる行為だとは知っていました。小学六年生のときでしたし。家族を壊してでも、私は自分を守ればよかったのかもしれないですけど」
 奈村さんの陰る瞳が透明な氷のように澄んでいて冷たくて、俺は何を言うべきか分からず唇を噛む。
「兄には、行為は……愛情のつもりだったみたいです」
「……えっ」
「お前が一番好きだ、一番大切だ、お前がいればいい、そんなことばかり言われていました。それを気持ち悪いと感じる自分がいました。なんて残酷なんだろうって、自分を責めてばかりでした。兄を憎むほうが簡単だったのに、そうしたら私はいよいよ人として最低なんじゃないかって。愛されてるのが気持ち悪いなんて、おかしいですよね」
「お、おかしくないですよっ。だって、兄妹だったら、ありえないのが普通なんですよ」
「そうなんでしょうか。よく分かりません。兄妹だなんて関係ない、って台詞もよくありますよね」
「それはっ──」
「何が正しいのかは分からないです。兄妹で結ばれる愛もあるのかもしれません。でも、私は無理だった。どうしても、行為のあいだは気持ち悪くて、早く終わってほしくて、早くお風呂で軆を洗ってしまいたくて。でも、軆の中まで洗い流す知識はなかったし、いつそれが起きてしまうのかびくびくしていました。身ごもったのは、中学二年生のときでした」
 俺は美星ちゃんを一瞥した。やっと、母と娘にしてはおかしな年齢差の謎が解ける。
「憎みたい、嫌悪している男の子供です。そんな子がお腹の中にいるんです」
「……はい」
「男の人には、きっと分からない話です。だから、耀も理解できずにいまだに美星を認めてくれないんですけど──あんな男の子供なのに、怖いんです」
「怖、い?」
「殺せないんです。お腹が目立ちはじめて、耀にだけ打ち明けました。すぐ両親に話して堕ろせって言われました。でも、もうその頃になると、お腹の中で動くんです」
「……動く」
「私のお腹の中で、私の子供が、もう生きてるんです」
 眉を寄せた。奈村さんの瞳はゆらゆらと震えている。
「あんな男の子供です。分かってます。でも、生むのは私だから。身ごもってしまうのは私だから。軆の中に宿ってるんですよ。引きずり出して殺すなんて、そんなの、怖くてできませんでした。私の中に命があって、その動きがお腹を触ると分かって、それを……そんなひどいこと、できない」
 ぽた、ぽた、と卓袱台に奈村さんの涙が飛び散る。
 動く。宿る。生きている。
 確かにそれは、女の人──身ごもったことのある女の人にしか分からない。憎い相手の子供なんて、気分が悪いのではないかと男の俺は単純に考えてしまう。
 でも、体内に子供がいるという感覚は、そんな感情だけでは片づかないのかもしれない。
 少なくとも、頼元さんを責めることはできない。俺でも、何で堕ろさなかったんだとその涙を見ても思う。
 美星ちゃんのことは好きだ。それでも、そんな経緯の子供なら、出逢えていなくても仕方なかったのかと思ってしまう。
「中学三年生で生みました。卒業を待たずに家出しました。それからは……保証人も要らないようなひどいアパートで、ほとんど、水商売です。風俗に行こうと何度も考えました。でも、体験入店では吐かないことに必死で何もできなくて。兄だと麻痺していたものが、今度は鋭利なほどになっていて、気持ち悪くて耐えられませんでした。男の人がみんな汚く見えました。潔癖症気味にもなって、男の人が背後に立つだけでパニックになっていた時期もあります。……ただ、耀だけは、怖くありませんでした」
 奈村さんは涙をはらって、鼻をすする。
 美星ちゃんは安らかに寝息を立てている。
「家出しても、耀とだけはつながりを残していました。お金がなくて、仕事でどうしても風俗しかないからって、……耀と、しようともしました」
「えっ」
「でも、やっぱり、行為だけは耀でもダメでした。『無理するな』って言われるのに、『風俗じゃないと美星を学校にも行かせてあげられない』とか言って、何度も、練習させてくれって。耀はつきあってくれましたけど、いつも『こんなことしてるよりまともに働け』って言われました。何年も頭がぐちゃぐちゃした状態でした。そう言われても焦ってまた風俗に走ろうとして。結局は、何も事情を話さずに会ってもらった親にお金を借りて、せめて美星を小学校には行かせてあげて。美星の成長を見ていて落ち着いてきて、何とか水商売で両親への借金を返して、この部屋も耀が保証人になって借りて──今の工場のお仕事も決まって、やっと水商売も辞めることができました」
 息が、つっかえる。うなだれていた。
 何、だ。思い設けないどころではない。この人が、そんな、ひどい──。
 あまり直視できなかった頼元さんの顔が不意によぎった。同時に、ぽつりとこぼしていた。
「奈村さんは……頼元さんが、好き……ですよね」
「………、昔は。自分には耀しかありえないと思っていた頃もありました。今は、恋人の女性とうまくいってほしいと思えます」
 それは、幸せを願えるほど、いまだに好きだということだろうか。よく分からない。
 でも、頼元さんがこの壮絶な女の人の一番近くにいたのは事実だ。
 乾いた笑いを何とかこらえた。俺など、入りこむ余地どころか、資格もないではないか。
 絶望的なほど、想い合っているふたりだ。これで頼元さんと結ばれなかったら、奈村さんの人生はあまりにもむごい。
「俺なんか……」
 奈村さんがやっと俺に目を上げる。俺は情けない笑みを作った。
「俺なんか、甘ったれてますね。理由もなく登校拒否って、高校も行かずに引きこもって、早く『辞める』って言うのを待ってる職場でだらだら働いて」
「風野さんは──」
「何か、すみません。やっぱ、奈村さんは頼元さんがついてるほうが自然ですよ」
「………、でも、耀には」
「頼元さんだって、そこまでするなら、ちゃんと奈村さんを特別に見てますよ。というか、絶対特別ですよ。話聞くだけででも」
「そう、でしょうか」
「奈村さんが素直に気持ち伝えてみたら、全部うまくいきますよ。頼元さんだって、それ待ってるんじゃないですか」
「でも、耀は美星が、」
「さ、さっきの話、俺も分かるとかは言えないけど。母親って、きっとそういうもんなんですよね。父親のことは、別に受け入れなくていいとも思いますよ。というか、ほんと父親は関係ないんですよ。美星ちゃんが、奈村さんの娘なのは変わらないじゃないですか」
「………、そう、ですよね」
「そうですよ。頼元さんも、話せばそこ分かってくれる男ですよ。だから、頼元さんと一度ゆっくり話してみたらどうですか?」
 ああ、ちくしょう。ちくしょう。ちくしょう!
 やっぱり、これだ。こんな心にもないことを言って。自分の恋心など踏みつけて、案の定、俺は奈村さんと頼元さんを応援している。どこまで俺はみじめな奴なのだ。どうしてこんなに自分を貶めるのだ。
 奈村さんは打ち明けてくれた。今、揺すぶったら、俺にかたむく可能性だってあるかもしれないのに。……結局かたむかなかった場合に備えて、はなから奈村さんに気がないふりをしている。
 好きなのに。俺だって、奈村さんが好きなのに。
「ありがとうございます」と言われて、咲っている自分が死ぬほど嫌いだ。好きな人の背中をほかの男へと押して、何て滑稽なのだろう。こんな自分、ほんとに、大嫌いだ。
 言えたらいいのに。
 俺は奈村さんを軽蔑しない。
 俺は美星ちゃんと出逢えてよかった。
 せめて、このひと言だけでも。
 俺は奈村さんも美星ちゃんも大切だ──
 言えたら、少しくらい、自分を褒めてやれるのに。結局言えなかった。
 ぼんやりさくらんぼを食べて、美星ちゃんが起きて、何事もなかったように夕飯をもらって、とぼとぼと帰宅した。こもった部屋で、なるべく多く薬をあおってベッドに倒れた。
 あれだけの人生を送ってきて、奈村さんは絶対にこの言葉を言わなかったのに、なぜか俺が空中に向かってつぶやいていた。
「……もう死にたい」
 虚空に消えた声は自己嫌悪をかきむしって、ふとんをかぶる。
 何で自分はこんな人間なのか。もっと誇れたら、奈村さんに何か言える勇気だって持てたかもしれないのに。
 この気持ちではなくとも、せめて、うわべではない言葉を。
 結局俺は、あれだけの告白をしてくれた奈村さんに何もできなくて、そんな無力な自分が情けなくて──好きな女ひとり受け止められなかった自分が、悔しくてたまらなかった。

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