月の堤-8

優しい夜明け

 残業が終わって着替えて、靴箱に行くと美星ちゃんがいるのが当たり前になっていた。帰り支度が俺より先に終われば、奈村さんもそこで俺を待っている。
 奈村さんがあの告白をしてくれてから、正直、部屋に行きづらいのが本音だった。
 俺じゃないのに。本来ここにいるのは頼元さんなのに。俺なんか、頼元さんに代りになれるわけでもないのに──
 身の程知らずが痛くて、でもいまさら距離を置くのも残酷な気がして、どうしたらいいのか分からずに作り咲いをしていた。
 今日もまた残業だった。部屋行くのか、とすっかり習慣になっていることが、嬉しいよりやるせない。
 俺が邪魔していては悪い、と早く言わなくてはならないとは思っていた。奈村さんと美星ちゃんが話し合うべき相手は、しつこいけれど頼元さんなのだ。
 奈村さんのドクターになりたいと頼元さんは言っていた。その勉強だってした人だ。奈村さんの傷には、俺とのんきに食事している場合ではない深さがある。
 俺じゃない。俺が立ち入っている余裕なんかない。頼元さんの愛情と知識で、奈村さんはそろそろ癒されていい。
 奈村さんの心身を愛おしむゆえに、頼元さんがどうしても美星ちゃんを愛せないなら、俺でもできることは美星ちゃんの話相手だ。俺は美星ちゃんをやっぱり忌んだりできない。穢された産物のようなものでなく、美星ちゃんはすでにひとりの人間だ。
 美星ちゃんとはこのままでもいいのかもしれない。でも奈村さんがあいだにいないと、俺がロリコンの変態みたいな話になってくる。
 どうしたら奈村さんとは離れて、美星ちゃんとはこのままでいてあげられるのか。そんなことを考えながら、靴箱に向かった。
 けれど、スニーカーに履き替える時点でいつもかかってくる元気な声がない。あれ、と見まわすと、そこには奈村さんも、美星ちゃんのすがたもなかった。
 怪訝できょろきょろしてしまう。まさか、帰ったのか。いや、黙ってそうするようなふたりじゃない。
 今までも、残業であっても俺が邪魔するのが無理なときは、奈村さんが昼食のときに断りを入れてくれていた。今日も一緒に昼飯を食ったけど、特に何も言われなかったし──
 ドアを開けて外に出た。初夏のさわやかなオレンジの夕暮れが視界に広がった。それと同時に、「おにいちゃん!」と悲鳴に近い声が耳に飛びこんだ。
「た、助けてっ!」
 見ると、工場の壁際で美星ちゃんが見知らぬ男に腕をつかまれていた。こちらを見た男は俺より年上で、三十手前くらいで──
 思わず居竦まったけど、ここで引っこんだら最低だ。大股に歩み寄って強引に男の腕をつかむと、「何してんだよ」と何とか声が震えないように言った。
「警察呼ぶぞ」
「……誰だ」
「は?」
「その子を返せ」
「こ、この子は──」
「父親でもないくせに」
「っ……」
「その子は俺と実暁のっ──」
 え。
 いきなり、美星ちゃんが俺の腕を強く引っ張った。よろめいた次の瞬間、鈍いきらめきが空を切った。
 がつっ、と男が持っていた小さなナイフが工場の壁にぶつかる。
 美星ちゃんは俺の後ろに隠れた。男はぎょろりとこちらを見る。
「その子は戻ってくるんだ」
「お、お前……」
「俺たちの子供なんだ」
 美星ちゃんも、さすがに察して愕然と目を開く。俺は美星ちゃんをドアのほうに押した。
「中入って。誰でもいいから警察に──」
「家に帰ってこいって言ってるだけだ!」
「早く」
「おにいちゃんも──」
「早く逃げろ!」
 美星ちゃんが後退ると、男はそちらを目で追った。ひどく濁った目だった。
 その隙に、俺は男の手首をつかんで、ナイフを取り落とさせようとした。
 しかし、情けなくも強くひねりあげる腕力が出ない。危なっかしくナイフをよけながら格闘していると、がちゃっとドアが開く音がした。
 その瞬間、男が存外の力を出して俺を壁に振りはらった。
「実暁!」
 目を剥いた。そちらを見ると、ドアを開けるところでちょうど鉢合わせている、奈村さんと美星ちゃんがいた。
 奈村さんは見る見るその場に凍りついて、俺は舌打ちすると、もう殺されればいいと思って男の背後に飛び掛かった。駆け出そうとしていた男は前のめって、そのまま俺がうつぶせで押し倒すかたちになる。
「実暁あっ……」
「……くっそ、動くなっ」
「実暁あ……探したよお、実暁あ……」
 男は俺の言葉など聞かずに、泣きながら奈村さんに手を伸ばす。
 奈村さんは膝をわななかせて立ち尽くす。美星ちゃんはぞっとするものを見る目で男を見つめている。
 俺にナイフを取り上げられても、男は奈村さんを気味が悪いほど凝視している。
「実暁、会いたいかったよお……。とうさんも、かあさんも、お前の居場所教えてくれないんだ……。お前が娘じゃないとまで言ってるんだよ……お前が穢れてるなんて、バカだよなあ。でも、だから俺もお前に関わるなって……何でだよお。とうさんたちは勝手だけど、俺と実暁はずっと一緒だよなあ。俺たちが元通りになれば、とうさんたちだって分かってるくれるよなあ……お前は俺の言うこと聞いてくれるよなあ、そしたらうまくいくこと分かってるだろお……お前が俺のそばにいれば、また、ぜーんぶ昔のまま──」
 だらだら続く妄言に吐き気がして、馬乗りになって男を仰向けにした。男は逆転した視界に奈村さんを探す。
 俺はナイフを持つまま、男の胸倉をつかんだ。男の目は毒気に濁り、獲物を狙うピラニアの血走った目みたいだった。
 ──こいつが。
 不意にそう思った。
 そう、こいつがあの人を。
 飛び散った涙が思い返る。
 こいつが。こいつが。こいつが!!
 無意識にナイフを振り上げた。やめて、と聞こえた気がした。抑えられなかった。
 だって、こいつが俺の好きな人を!
 腕を振り下ろそうとした──が、突然、背中を羽交い絞めにされた。落ち着け、という声がした。
 動悸が緊迫し、息が上がっている。はっとあたりを見まわすと、同僚の男が俺を抑えつけていた。
 奈村さんは泣き崩れたところを誰かに支えられていた。美星ちゃんのことは、年配の女の社員さんが抱きしめて視界を覆っていた。
 男は腐った目で、まだ奈村さんの名前をぶつぶつ言っていた。
 俺がナイフを下ろしてから、やっと誰かが警察を呼んだ。男だけ連行されていった。奈村さんは後日警察署に来るように言われていた。俺のことはみんな黙っていた。
 警察が引き上げると従業員は帰宅して、でもさっきの女の社員さんが気を利かせて、落ち着くまでと工場の廊下に入れてくれた。美星ちゃんは、やっと俺の元に駆け寄って泣き出した。俺はそれを床にひざまずいて抱きしめながら、自分の手を見つめた。
 いまさら、恐怖がこみ上げてきた。
 殺そうとした。本気で。何も分からなくなった。ただ、あの男を殺したいと思った。
 俺の大切な人を、あの男は、男としてもっとも卑劣に傷つけたのだ。
 顔を上げた。かたわらの長椅子には奈村さんが腰かけ、まだほろほろと涙を落としていた。
 ナイフの感触を忘れたくて、奈村さんの手に手を重ねた。柔らかい感触がぴくんと動き、視線も重なる。
 月明かりが涙をきらきらと反射している。
「……奈村さん」
「……───」
「俺……何というか、美星ちゃんのこと好きですよ」
「えっ……」
「だから、その……、生んでくれて、ありがとうございます」
 奈村さんがまぶたを押し上げた。美星ちゃんは、俺の胸を嗚咽で濡らしながら服をつかむ。
「俺が……父親に、なれたらいいですけど。なりたい、けど。無理ですよね」
「風野さん──」
「俺なんか、ダメですよね。やっぱ、頼元さんみたいにしっかりした人じゃないと」
「………、」
「……すみません。何か、俺が父親だったほうがマシだったかなとか思って」
 美星ちゃんの頭を撫でた。「おにいちゃんがおとうさんになってくれるの?」と美星ちゃんが言って、俺は苦笑して首を横に振った。
「どうして。おにいちゃんなら──」
「俺はそんな資格ないから」
「おかあさんが奥さんになるのは、嫌なの?」
「……俺だけだからね」
「おにいちゃんだけ?」
「俺の片想いなんだ。俺はおかあさんが好きだけど、おかあさんの好きな人は──」
 ぎゅっ、と奈村さんの手が俺の手をつかんだ。俺はそちらを見た。奈村さんは涙をこらえてこちらを見つめている。
「……好きでした」
「えっ」
「確かに、すごく好きでした。耀のこと」
「……あ、」
「だんだん、耀のことを好きじゃないといけないって思うようになってました」
「………」
「私は耀のことが好きだ、って思わないと、風野さんに惹かれてしまいそうで」
 目を開く。白い月明かりに、奈村さんの頬の淡紅が映る。
「勇気を出して、耀のことは過去だって言ってみたつもりですけど。風野さんは、耀とのことを勧めるから。やっぱり、片想いなんだって……私もそう思って、」
「でも頼元さんは──」
 美星ちゃんが唸って、「耀ちゃんなんかもういいじゃん!」と俺の胸板を揺する。「けど」と俺が言いよどんでいると、「耀のことは」と奈村さんが続けた。
「本当に好きでした。でも、あきらめたい気持ちがいつもどこかにありました。耀は風野さんと違って、美星を見切りました。それは、私を見切ったのと同じです」
「……そんな、ことは。だって、その、……頼元さんは奈村さんが好きだ、って」
「私から『好き』なんて言えないのを、耀はよく知ってるはずです。それで何も言わないってことは、それだけです」
「………、」
「風野さんは……」
 美星ちゃんが軆を離した。
「もう一度、おかあさんに言って」と言われた。
 もう一度。……もう一度。
 俺はひざまずくまま、そろそろと奈村さんのほうを向き、柔らかい手を握り返した。
「俺、は……」
 口の中が乾いていて、一度飲みこむ。涙の止まった奈村さんの穏やかな目が、月光を背景に俺を映している。
「美星ちゃんが、好き……です」
「……はい」
「美星ちゃんを生んでくれた奈村さんのことが、……もっと好き、です」
「はい」
「俺が、父親で、夫じゃ、ダメですか?」
 一瞬微笑がかすめて、ふわっとシトラスの香りが飛びこんできた。奈村さんが俺の首に腕をまわして、抱きついていると分かるまで何秒かかかった。
「奈村さん──」
「私も、あなたが好きです」
「……あ、」
「だから、私を、美星を、『風野』にしてください」
 涙が滲みそうになった。奈村さんの細い軆を、そっと抱きしめた。どのくらいの力をこめればいいのかも分からない。
 そんな俺なのに。
 本当にいいのだろうか。
 まだそんな不安がよぎるけど、いや、このまま素直に満たされていいのだ。美星ちゃんも俺の背中にしがみついて、優しい体温がふたりから伝わってくる。
 美星ちゃんの父親になる。
 この人の夫になる。
 どうしよう。幸せで泣きたい。このふたりが、この女の人が、すごく好きだ。そんなふたりが、俺の家族になりたいと言ってくれている。
 ──大切に、しよう。そう思った。ずっとずっと、大切にしてあげよう。
 これまで、あまりにも哀しいふたりだった。だが、これからは俺が幸せにする。
 生まれてくれてよかった女の子。
 生きてきてくれてよかった女の人。
 そんなふたりを、幸せにしてあげたい。そう、このふたりのためなら、俺は精一杯生きていける。

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