光を見守って
梅雨が明けて夏が始まった七月の半ば、引きこもるように過ごしてきた家を出た。
親にはあんまり詳しいことは話さなかった。アパートの住所ぐらいは伝えておいても、そこで一緒に暮らす人がいることは伏せていた。
実暁さんたちも、これまでのことはあまり吹聴されたくないだろうと思った。
職場は、俺も実暁さんも変わらなかったけど、不思議と周囲の刺々しさがやわらいだ気がする。俺にも実暁さんにも、それぞれ同性の友達がいるくらいになってきた。
俺の場合は、先輩の中にもう一度力仕事を試してみるかと声をかけてくれた人が現れて、今度こそと努めているうちに、男の同僚と話すようになったのだった。
その友達の中に、夜間高校に通っている奴がいて、俺が中卒なのを知った彼に、来てみないかと誘われている。ちょっと揺れる自分に驚いた。
学校にいい想い出はない。けれど、やはり高卒ぐらい取っておいたほうが、実暁さんたちを養う力も広がるだろうし──。
春までに決心つけてちょっと頑張ろうかなと言った俺に、実暁さんは微笑んでうなずいた。
実暁さんとは、引っ越しの段ボールも片づいた残暑の頃に、籍を入れた。それでも、軆の関係は深くなっていない。実暁さんは気にするけれど、俺は初めて好きになった人と結婚までできた幸せでしばらく酔えそうだった。
ときどき、実暁さんのタイミングでキスをしてくれることはあった。俺のほうがおろおろして、真っ赤になってしまうのだけど。
「おにいちゃんじゃなくて、おとうさんって呼ぶの?」
籍を入れる前の真夏になるけれど、寝かしつけるまくらもとで美星ちゃんが訊いてきた。かたわらに寝そべる俺はちょっと咲って、「呼びづらい?」とポニーテールをほどかれた黒髪を撫でる。
「ん、何か照れる」
「俺も照れる──けど、美星ちゃんのおとうさんになろうと思ってるよ」
「私も、おにいちゃんがおとうさんになるのは嬉しい」
「じゃあ、まあ、『おとうさん』でいいのかも」
「……おとうさん」
「うん」
「おとうさん、と……おかあさん。もう、私、どっちもいるんだ」
俺は微笑んで、美星ちゃんの頭をぽんぽんとした。美星ちゃんは喜びを噛みしめるように笑みをたたえ、「おとうさん」と何度も俺のことを呼んだ。それから、あっという間に美星ちゃんは俺を「おとうさん」と呼ぶようになり、俺も「美星」と呼び捨てにするようになった。
そんな美星が寝静まった、籍も入れてしばらく経った夜、リビングの座卓で実暁さんとお茶を飲んでいた。そのお茶で実暁さんが薬を飲んでいたので心配すると、生理痛だそうだ。
そのつらさはよく分からないけど、「大丈夫?」と訊くと、「膝まくらしてくれる?」と実暁さんがちょっと頬を染めながら甘えてきた。何だか俺も頬を赤くさせつつ、「どうぞ」と言うと実暁さんは俺の膝に頭を乗せて、横たわった。
「お腹が痛い感じ?」
「ん……痛みもあるけど、何か、重たい感じかな」
実暁さんは俺の左手を取って、下腹部に当てた。
「このあたり」
「あっためたほうがいいのかな」
「うん。ちょっと、このまま」
実暁さんの髪をほどくように梳く。やっぱり、柔らかい髪だ。出逢ったときからけっこう伸びたけれど、出逢いは今年の初めだったから、思えば一年も経っていないのだ。それを言うと、「ずっと一緒にいるみたい」と実暁さんは下腹部にある俺の左手をつかむ。
「俺も、実暁さんといると落ち着く」
「もうどきどきしない?」
「どきどきはしてる」
「ふふ。私も──すごく、どきどきして意識してるのに、それが心地いい」
「いつかどきどきしなくなるのかな」
「分からない。けど、それがなくなっても、一緒にいて居心地がいいのは変わらないと思う」
「そうかな。俺、けっこう鬱陶しい奴だよ」
「病院の回数は減らしてもらえたんでしょ」
「うん。最近、顔色もいいからって」
「きっと、これから強くなっていけるよ」
「……ならないとね。実暁さんと美星を守らないと」
「うん」
実暁さんを見つめた。実暁さんはくすりとして、「大丈夫」と言った。それから、俺は実暁さんに軽く口づける。
「あのね、昔は子供を下ろすことを月流しって言ったんだって」
「月流し」
「毎月来る生理が、妊娠すると止まるでしょう? それを、また生理を来させて子供を流すって意味だった気がする」
「……そうなんだ」
「私も……堕ろさなきゃって、何度も考えた。堕ろしたいとは思えなかったけど、きっと誰にも祝福されないし、生まれてきてくれても不幸にするから、早く堕ろさなきゃって」
実暁さんの細い指が俺の指にもつれる。
「その気持ちを、ひとりで必死に抑えこんでた。この世で私だけでもいい、この子を愛してあげるんだって……本当に愛せるのか自信もないまま思ってた」
「実暁さんは立派な母親だよ」
「そうかな」
「血の上での父親を許せなくて、やっぱり堕ろしたり、虐待する母親だっていると思うんだ。でも、実暁さんはしっかり美星を愛してあげてる。美星を見てると、それがよく分かる」
「……うん」
「これからは、俺もいるよ。実暁さんが流さずに生んでくれた命、一緒に大切にするから」
実暁さんは俺を見上げて微笑んだ。俺も微笑を返して、実暁さんの下腹部に手のひらを当てて温める。
月流し。実暁さんは、それに必死に堤防を立てて、美星を生んだ。
ひとりで。知られず。理解もされず。
でも、これからは俺がそばにいる。ふたりで、美星という光が生まれたことを支えていく。
流れなかった命。俺が今手を当てているこの中で、動きはじめていた命。
もう光が宿っていたのだ。その光もまた、月だったのかもしれない。けして流れぬ月だった。
母の愛という堤に守られて生まれてきた月を、これからはふたりで見守ろう。いつまでも輝いているように、息絶えて闇に堕ちないように。
ずっとずっと、その光を見つめていく。
たったひとりでそうして、凍えていたこの人の肩は俺が抱く。優しく寄り添い合って、俺たちは一緒に綺麗な月を眺めつづけ、その命を育んでいく。
FIN