野生の風色-43

行方不明の末

 遥が消えて以来、僕の家の空気は低迷していた。
 両親だけは、周りのように僕を責めずにいてくれる。僕に責める目を向けるのは、遥を診てきた医者たちだ。口調や表情はにこやかでも、目の奥が遥の味方ぶって鋭いといったらない。
 警察のようにあきらめつつあるわけではないだろうが、とうさんは出勤を再開し、かあさんは昼間は家で遥を待つことに徹するようになった。僕は遥が帰ってきても、こなくても複雑で、近づく夏休みに浮かれもできず、ゆいいつの救いとして青空を続ける空を見つめていた。
 遥が行方知れずになって、一週間が経った夜だった。明るさがぎこちない夕食どき、だしぬけの電話が食卓を引き裂いた。
 明かりのもとで、醤油が香ばしい焼き魚をほぐしていた僕ははっと手を止めた。正面の両親と顔を合わせる。ふたりとも、同じ緊張を持ったようだ。
 時刻は二十時をまわったところで、かあさんが箸を置いてゆっくり立ち上がり、リビングのチェストで鳴り響く電話に歩み寄った。それを見守る中、僕ととうさんは一度目を交わす。
 こんな時間に電話なんて、しょっちゅうあることではない。今なら、ひとつ、いつかかってきてもおかしくない連絡がある。受話器を取ったかあさんは、「もしもし」とこわばった声で呼びかけた。
 こちらだと、かあさんの背中しか見えなくて、それが何の誰からの電話か分からなかった。遥のことか。何でもないことか。張りつめた心臓に焦れていると、相手の話を聞きながら、かあさんが一度振り向き、神妙にうなずいた。
 遥だ。見つかったのか。
 こちらを向いたついでに、かあさんの横顔がうかがえるようになった。話を聞くうち、その面持ちは恐縮したものに変化していった。何だろう。「はい」という返事を続けていたかあさんは、「すぐ伺います」と低く答えて静かに受話器を置いた。
「遥くんか?」
 警戒を保つ声のとうさんの質問に、かあさんはひと息ついて、立ち上がるとこちらに戻ってくる。
「ええ。警察の人だった。遥くんが──」
 言いにくそうに口ごもるかあさんに、見つかったは見つかったでも死体とか、と僕は一瞬よぎった想像に蒼ざめる。
「見つかりはしたそうなの」
 かあさんはそう言い、僕はひとまずほっとする。
「でも、その、相談していた警察の人じゃなかった。補導、されたらしいのよ」
「補導」
「ひとりじゃなくて、何人かと。お金を脅し取っていたところを」
 かあさんは気まずく床を向いて、とうさんは僕と食事越しに見合った。
 とっさに、どう思えばいいのか分からなかった。
 そんなので発見されるとは、考えていなかった。しかし、一週間も帰ってこなくて、遥がどう生き延びていたかと考えれば、辻褄は合う。
 テーブルはどんよりした。それを振り切るように、とうさんは席を立ち、「迎えにいこう」とかあさんに外出の準備をうながす。
「悠芽は留守番しててくれるな」
 食卓を片づけはじめたかあさんに代わり、とうさんが確認する。
「ん、……うん」
「一緒に行くか」
「いや、その、遥、僕の顔見て大丈夫かな」
 とうさんはむずかしい顔になり、かあさんも手を止めて、そのとうさんを見た。僕は手に持つままの箸で、魚をつつく。
「かあさんに聞いたんだが」ととうさんはかあさんに片づけの再開を目配せした。
「とうさんたちは、遥くんを息子と思ってないって──悠芽の言う通りかもしれない」
 みずからを苦く思う顔つきのとうさんを、僕は見上げる。
「よそよそしく甘やかして。補導されたっていうなら、ただ見つかったのとはわけも違う」
「………、しかるの?」
「そうしたほうがいいのかもしれない。悠芽は部屋にいなさい。しかるかはともかく、遥くんとふたりで話したい」
「そう」と僕は口の中でつぶやき、こくんとした。「悠芽は食べてていいわ」とかあさんは僕のぶんの食事は片づけずにいる。
「食べ終わったら、水には浸けておいてね」
 僕がうなずくと、両親は遥を迎えにいく支度を始めた。“捜索願い”で見つかったわけはないので、病院には何の連絡も行かないだろうと、かあさんが病院に遥が見つかった知らせを入れておく。
 食べていていい、とは言われても、食欲がなかった。ぴったりふさがったように、喉が息苦しい。
 遥が見つからなければ、もっと怖かった。でも、顔を合わせるのも怖い。もう僕は、遥とつきあうことに自信がなかった。ごちゃごちゃ考えていたのが、バカバカしく感じられる。僕と遥に、光なんてあるわけないのに──。
 手短に身なりを整えた両親は、心配することはないと僕をなだめると、急いで家を出て、車の音は遠ざかっていった。
 僕はぼそぼそと焼き魚を口に押しこみ、これから遥に対してどうするか悩んだ。この際なので、無視を決めこもうか。友好的になろうとするだけ、僕は遥をいらだたせるどころか、傷つけるようだ。傷つけてくるから、遥も僕を傷つけようとするのだろう。
 遥はこの家に順応する気はなさそうだし、僕と遥が冷戦していても、家庭の日常の負担にはならない。非行も家出も薬だって、たぶん、僕のせいなのだ。僕へのいらだちが、遥にそういうものへと走らせている。
 ならば、何もしないほうがマシだ。僕がおとなしくしていれば、遥は恐喝なんてする必要もなく、ここで寝食できていた。僕は遥を追いつめようと思って気遣っていたのではないけど、遥にはそんなのは言い訳だろう。ほっとけばいいんだ、と僕は情けなさの中で結論を出すと、食べきれなかった夕食を片づけ、部屋に閉じこもった。
 考えごとをしても自己嫌悪に取りこまれるばかりなので、だいぶ蒸し暑くなった気候にエアコンをかけた僕は、例の新しく購入したゲームを始めた。試験がはさまって、物語はそんなに進んでいない。RPGの序盤は退屈だ。物語もそうだし、主人公の能力も融通がきかない。
 希摘も新しいゲームを買いたいと言っていた。森林を駆けまわる主人公を見つめ、会いたいな、と慣れない操作をする僕は希摘を想う。このあいだの日曜日は、へこみきっていて会いにいかなかった。今度の日曜日には、担任に預かる封筒の渡すのも兼ねて会いにいく。絶望的なら放っておくのも手だ、と希摘は言っていた。「そうなりそうだよ」と僕はここにはいない親友に向かってつぶやき、雑魚な魔物を倒して経験値を溜めた。
 ゲームのBGMなんて、完全には外界の音を切断してくれない。ボスが出る合図にセーブポイントを発見していたとき、聞き憶えのある車の音が耳に届いた。
 息を飲む。帰ってきたのか。すくむ心臓を抑えて耳を澄ますと、確かに僕の家の車だ。時刻は二十二時前だった。僕は呼吸が震えそうなそわつきに襲われる。
 遥。やっぱり帰ってきたのだ。いたたまれなさに打ち負かされて、帰ってこなかったほうがよかったかな、と現金に思ってしまう。でも、今すぐ顔を合わせる必要はない。いや、これから彼とつきあう必要もない。僕は遥を放置するのだ。存在しないようにあつかう。きっと遥にはそれがいい。
 悩むことないよな、と自分に言い聞かせつつも、僕はテレビの音を消して、ポータボルCDプレイヤーとヘッドホンで内界をかためた。
 僕は一階で両親と遥がどんな話し合いを行なったか、いっさい知らなかった。ロックバンドの音にこもり、ボス戦には行かず、狭い森をうろうろして主人公のレベルをじりじりと上げていた。好奇心がなかったわけではない。しかしそれより、恐ろしさが勝っていた。
 僕はすっかり、遥に対して自信を喪失していた。もともと自信があったわけではなくても、いくばくか“期待”はあった。それも打ち砕かれた感じだ。僕は遥にとって、徹底的に害であるらしい。
 そんなふうに思われてまでも思いやるなんて、僕は優しくない以前に強くない。自分をそんなふうに見る彼が、嫌いというか、怖くもある。
 眠たくなっても、ヘッドホンを外して何か聞こえるのが怖くて、無理に起きていた。レベルをじゅうぶん引きあげて楽にボスを倒した零時過ぎ、やっと隣の部屋で物音がして、僕は白い壁を見た。
 音楽を止めると、ただでさえきつい音を音量をあげて聴いていたので、聴覚から頭がふわりとした。浮遊感が落ち着くと、隣の部屋で話し声が聞き取れる。
 そういえば、遥が見つかったのなら、明日は医者が来るだろうか。やだな、と僕は心を曇らせてコントローラーをいじる。昼のうちに来て帰るならよくても、夕方にもいるようなら、希摘の家に逃げこもうか。
 そんな算段をしていると、ノックが聞こえ、僕は痺れてふらつきかけた脚でドアに駆け寄った。
「まだ起きてるの?」
 蒸した空気が重い廊下にいたのは、かあさんだった。「だってさ」と僕は遥の部屋を一瞥し、「遥くんは休んだわ」とかあさんは抑えた声で言う。
「……そう。じゃ、僕も寝るよ」
「何か、待ってた?」
「いや、その──ヘッドホンしてないと、聞き耳立てそうで」
「そう」とかあさんは少し咲い、けれど僕は咲えない。「僕のこと、何て?」と気になるところを訊くと、かあさんも笑みを潜めた。
「何も言ってくれなかったわ」
「え」
「悠芽の何が気に入らなかったのか、訊いたのよ。答えなかった。ほとんど何も話してくれなかったわ」
「………、とうさん、怒った?」
「厳しかったわね」
「そう。明日、医者来るの?」
「ええ。お昼過ぎにね。悠芽とまた話したいって仰るかもしれないわ」
 陰気に倦色すると、「遥くんのためなの」とかあさんは僕の肩に手を置く。僕は何も答えず、「明日も学校だし」と背後のベッドをしめす。かあさんはうなずき、僕はドアを閉めると、フローリングに息を吐いた。
 ゲームを片づけて、一階でざっとシャワーを浴びると、パジャマでベッドにもぐりこむ。が、さっき眠気を殺してやりすごした僕は、よく寝つけなかった。まぶたは重く、軆も弛緩していても、頭の中は異様に冴えて、眠気に潤びない。
 消したクーラーで、軆が汗にほてってきた。けれど僕は、クーラーをつけたまま寝ると、翌日軆が重くなる。
 虫の声が響いている。稀に表の道を車や足音が通り抜ける。
 暗闇に視界が慣れ、仰向けになると、陰った白い天井が見取れた。ふとんはひなたの匂いにふかふかだけど、僕の気持ちはそれにすっぽり包まれるにはどろどろだ。
 隣に遥がいる圧力がかかり、いらつくように胸苦しい。とうさんとかあさんが寝室に行くのを聞き届けても眠れず、ふとんの中でうつぶせに寝返った僕は、ベッドスタンドの明かりをつけてポストカードの空の写真を眺めた。
 将来、僕は空に関する仕事がしたい。けれど、どう関わりたいかは分からない。学生時代に見つからなければ、僕は何か適当な仕事をしながら“待つ”のだろう。その頃には、きっとこの家も出ている。
 この家は借家でなく、いつかひとり息子の僕に渡るはずだった。分からない。遥に譲られるかもしれない。それでもいいと思う。少なくとも、僕と遥の同居はありえない。いつか、僕と遥は他人同然になる。
 せめて、それまで遥が耐えてくれればいい。無理なのだろうか。遥の僕への嫌悪の度合によるけど、そんなのは軽くあってほしい保身が客観性を妨げ、僕にはうまく測れない。
 蛍光燈に照らし出される夕陽を見つめ、そもそも遥は未来なんて見てないのかな、とまぶたを緩めていると、ふと、隣で物音がした。僕ははっとして、すぐ右の壁を向いた。
 バネがきしむ、おそらく、ベッドの上で動作した音だった。何だろう。寝返りか。遥の神経に、問題の直後に熟睡するずぶとさはなさそうだ。じゃあ、起き出したのだろうか。
 すると、なるべく殺された足音がして、なるべく殺されたドアを開ける音が続いた。
 何? トイレ? 早くも夜遊びか? まさか、僕を殺しにくるとか──
 遥への不信感が高まった妄想に、ぎゅっと身を縮めると、低い足音は僕の部屋の前を横切り、階段を降りていった。
 僕は、橙色に照らされるベッドに身を起こした。時計は一時半をさしている。
 どこに行くのだろう。やはり夜遊びか。明日は医者が来ると言っていたし、それが嫌で逃げ出すのはありうる。ここで遥が逃げ出したら、僕は医者にまたあの嫌な目を向けられるのではないか。
 いや、だけど、僕はあいつを放っておくと決めた。もう構いたくない。構えば夜遊び以上の最悪が起こるに違いない。寝ておこう。何が起きても、知らなかったで済ませばいい。
 そうだ。遥なんか知ったことではないし、遥だって僕にそう思われることを望んでいる。そう心に羅列して明かりを消し、空の本を閉じてベッドにもぐりなおした。

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