野生の風色-46

中枢に根ざす傷

「分かんない。いや、ごはん持っていったのが悪かったのかな」
「遥くん、嫌がらなかったんだろ」
「隠してたのかも」
「話で聞く限り、遥くんは嫌なら異常なぐらい嫌だって言う奴に思えますが」
「………、数学の広田のときとか、抑えたじゃん」
「バカにして仕返しはしたんだろ。殺したいほど嫌いなら、とっととわめきちらしてたと思うよ」
「じゃあ、何で遥は、僕が悪いとか言ったの?」
「出任せじゃないの」
 安易すぎて思い浮かばなかった視点に、僕は希摘に顔を上げる。「出任せ」と僕はつぶやき、希摘はうなずく。そうなのか、と僕は空を眺めたものの、あのときの遥の猛烈な殺意を思い返して、首を振った。
「違うよ。あれは本気だよ。眼とかすごかったもん。錯覚じゃない」
「じゃ、悠芽は何したの?」
「………、分かんない。遥にしか分かんないんだよ。遥だから傷つくことをやったんだ」
「じゃあ、悠芽は気にしなくていいじゃん」
「え、何で」
「他人には分かんない感覚で傷ついたなら、傷つけた相手を責めるのは間違いだよ。自分はそれで傷つくんだって、相手にきちんと説明してるなら別だけど。普通はそんなの気にしなくても、傷のせいで、自分にはそれがトゲになるんだよな。でも、それは個人的なものなんだよ」
「個人的」
「テレパシーで読んでもらって気遣ってもらおうなんて、驕りだね。何も知らない相手に、一般的には無害な対応されて、それに個人的なトゲを感じても、相手を責めるのは良くない。こっちだって、神様じゃないんだしさ」
 希摘っぽい意見だ。だが、いっとき僕も似たように思っていた。遥が初めて鬱状態になったとき、僕は彼に、気に入らないことはきちんと言え、言わないと分からない、と吐き捨てた。
 僕は同情にほだされつつあるのか。そのへんを述べると、「単に遥くんに情ができたんじゃない」と希摘は僕の卑下をなだめる。
「さっきの、言うことを鵜呑みにしないってのも、遥くんの言葉を信じるなってことじゃないよ。どんな言葉にも、きっと遥くんの感情は映ってる。ただ、それはストレートじゃないんだ。裏返しだったり、舌足らずだったり、いらないことつけたりする」
「捻くれてるだけじゃん」
「そうだよ。遥くんの心が、無防備にさらせる状態だと思いますか」
「……思いません」
「本質を解読しなきゃ」
「できないよ。僕は遥を知らなすぎる」
「だから、知ってみようって言ってたじゃん」
「何やっても傷つけるなら、ほっとくって決めたんだ。なのに、手首切ってたら構っちゃってさ、もう──何これ」
 捨て鉢になりかけた僕の左肩を希摘はとんとんとして、泣きたいような僕は息を抜いて気持ちをなだめる。
「遥くんに、死んでほしくないのね」
「………、そう、言ってたな。あの夜。無意識に。何でだろ。そうなのかな」
「そうなんでしょうねえ。泣いたんだろ」
「情けなかったのかな。僕のせいなんだって。遥が、それ以上傷つく必要はないぐらい傷ついてるのは事実じゃん。自分はそれに傷を上塗りしかできないのかって。死んでほしくないかは分かんなくても、死んでほしいわけじゃない。なのに、あんなに追いつめて。『ごめん』って、それしか言えなかった」
「『ごめん』」
「僕が何かしたのは、絶対だと思う。希摘の視点も正しいと思うよ。僕だってそう思う。でも、実際それで傷つけると、情けないんだ」
 希摘は僕を見つめ、「俺のは、赤の他人に刺された場合の意見かもね」とひかえめになる。僕は微笑み、「そんなことないよ」と希摘らしさは保ってもらう。
「希摘が言うみたいに、遥の言葉が変化球みたくなってるなら、遥は遥なりに、いつかどこかで僕に傷を説明してたってのもありえるし。僕が鈍感なんだよね」
「悠芽はだいぶ分かってると思うけどなあ。生まれなきゃよかったって言われてきた遥くんに、そんなん言うなら親じゃないって言ったのとか」
「そう……かな」
「うん。親じゃないんだよな。正確には、家族じゃない、かな」
 希摘はあぐらをほどいて脚を下ろし、「分かんないなあ」と天井を向いてぼやく。
「悠芽には怯えなくていいって、変わってきてもよさそうなのに」
「……やっぱ、単に嫌われてんじゃない?」
「だとしたら、やばいね」
「やばい」
「誰とも親しくなりたくないとも取れる」
「………、そうかもしれない。遥は、そうなっても変じゃないよ」
 言いながら、だとしたらこうして遥のために悩むのも、不毛なのかと思える。遥の痛みや絶望は、僕たちが思うよりひどいのだ。遥の心は傷だらけで、痛覚におおわれ、何をされても痛みしかない。
「実は、兄貴に遥くんのことちょっと話したんだ」
「え、そうなの」
「ごめん。勝手にしゃべっちゃまずかったかな。虐待とかも言っちゃった」
「真織さんならいいよ。何て?」
「むずかしいだろう、って。俺の意見にだいたいうなずいてくれて、社会が重たいのかもしれないって言ってた」
「社会」
「すべて断絶されて育ったのに、精神も感覚も健康な中に放りこむのは、拷問に近いって。遥くんが異常ってわけじゃないよ。だから、やばいんだ。健康な周りに囲まれて、自分がそれに合わせられなかったら、自分はおかしいんだって思っちまうじゃん。ただでさえ、学校には競争だの比較だのがあふれてる。自分は変だ、ってその思いこみを深めるのが一番危険だって。中枢にかかわってくる」
「中枢」と茫漠とした言葉に少しとまどうと、「兄貴、そこは何とかって言ってたなー」と希摘は眉を寄せて反復を試みる。
「自分の存在意義が、懐疑につながって崩れ、最悪の事態になる恐れがある──かな。言い方むずかしいって兄貴」
「最悪の事態っていうのは」
「今回みたいなことだよね。傷は異常な欠陥じゃない。その人の個性にほとんど近くなる。感情とか言動に影響するだろ。常識を押しつけると、大袈裟じゃなく、その人の人格否定になる。で、みんなと同じように生きられない自分は、生きてる意味がないって感じるようになったり」
 希摘の真剣な瞳に、僕は黙ってうなずく。家では部屋に、教室では殻に、いたたまれないように閉じこもっていた遥を想う。
「自分とは違うみんなの中で、俺は俺だってつらぬくには、遥くんは傷で弱ってる。兄貴は、社会にいられないことを『隔離』とは表現しなかった。社会に入ろうと思えば、いつでも入れるんだ。俺は俺だって言えるようになれば」
「……うん」
「兄貴は、どっちも必要だって言ってた。自分を作る場所を見つけるのも、自分を確立させるのも。順番を言えば、前者が先だろうって」
「それは、社会から守られた場所──かな」
「そう。たいていの場合、家かな。遥くんには、家が必要なんだ。崩壊してない家。だから兄貴は、遥くんを悠芽のとこに連れてきたのは、あながち間違いではないんじゃないかって言ってた」
「そなの」
「そうなの。『えーっ』とか俺は言いましたが。そしたら、『えらそうに言えないけどね』って兄貴はちょっと弱気になってたけど。まあ、そういう見方もありだよ」
 遥は僕の家に来てよかった。そういうふうに見る人もいるのか。
 遥を直接的に見れば、いきなり家庭に連れてきたのはきつかった気もする。しかし、間違った家庭を訂正するのは、正しい家庭だというのは事実だ。
「社会や常識を考慮した大人の視点だって、兄貴は自覚してたよ」
 僕の思うところが読めたのか、そう補足する希摘に、僕は素足を床に伸ばす彼を向く。
「遥くんの感情を尊重するなら、俺の言う通り、家庭について厳重にあつかうべきかもしれないって言ってた」
「どっちがいいのかな」
「遥くんがえらぶところじゃない? とりあえず今を見るか、長い目で未来も見るか」
「あいつ、未来なんて見てないと思うよ。現在どころか、過去にも必死なのに」
「じゃあ、まず現在の感情を改善するのがいいのか。一週間したら、遥くん、帰ってくるんだっけ」
「うん」
「そのまま、病院にいたほうがいいのかな」
「どうだろ。病院も家と変わんないんじゃないかな。過去のために来た場所だし。あいつに必要なのは、きっと昔が関係ないとこなんだ。学校はダメだった。それでグレて、あいつなりに過去を断ち切れる場所を探してるのかも」
「グレて道が開ける場合もあるけどね」
 希摘はかたわらの真織さんの本を手に取り、「でも、この主人公は強いからなあ」とページをめくる。
「はっきり、あんな奴は俺の家族じゃなかったって認識してる」
「遥は縛られてるよ。僕はそう思ったな。親に言われたから死ぬ、みたいなの言ったとき」
「遥くんは落ちこぼれるには弱そうだよな。遥くんには、まだ『真っ当』は強要しちゃいけなかった。悠芽が正しかったんだよ。遥くん、たぶん、学校に行かなきゃマシだった」
 僕は春先、遥に学校は無理させないほうがいいと思っていた。そうだ。社会という外界どころか、家庭という内界も知らない遥の精神は、まだ学校からは保護しておくべきだったのだ。
「帰ってくるのはくるわけね。ほっとくの?」
「………、そうしたい。のに、何かあれば構っちゃいそう。ほっとく根拠が欲しいんだよね。推測のじゃなくて」
「避けてたら推測だけだよ」
「うん」とうやむやにうなずいていると、いつのまにか外では蝉の声が聞こえていた。「蝉だ」と希摘が先に気づき、僕はそのだみ声を出す昆虫の形態を想像して、例によってぞっとする。
 避けていては何も分からない。毎回言っているけれど、遥と接してみなければ何も始まらない。でもなあ、という後ろ向きも狐疑するうちに強くなっている。
 希摘は憂鬱な僕を観察し、「まあ、ここで息抜きしなさい」と提案する。僕は希摘を見て、今回は自分も疲れているのを認めてこくんとすると、親友との時間で気を鎮めることにした。

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