陽炎の柩-34

想いは絡まって

 重苦しい雰囲気の中で、夕食が終わった。
 実摘は床に座ってにらを抱き、飛季は食器を洗った。実摘は完全に口を閉ざし、飛季は意識的に背を向けて皿をこする。スポンジの泡立ちや、たらいに張られた水面の乱れが、間の悪い沈黙を際立たせる。
 バカな告白をしてしまった。そう悔やんでいると、突然、実摘の弱々しく不明瞭な声が背中にかかった。かえりみて、手が止まる。いつのまにか、実摘は天井を仰いで、ぼろぼろと泣き出していた。何秒かぽかんとして、飛季はただちに手をすすいで彼女に駆け寄る。
 そばにひざまずき、濡れた頬に触れる。実摘は飛季を向いて、腕を絡めてきた。飛季は彼女を受け入れる。実摘は飛季の胸にきつく取りついた。にらが飛季と実摘にはさまれる。実摘は涙をどくどくと生み、飛季は彼女のその背中を綏撫してあやす。
「どうかした?」と声をかけると実摘は喉を喘がせた。「あのね、あのね」と繰り返す彼女に、飛季はその顔を覗きこむ。「何?」とうながしてやると、彼女は鼻をすすって「お話があるの」と言った。「お話」と問い返すと、実摘はこっくりとして、みずから涙をぬぐう。
「しなきゃいけないの。でも、怖いよ。飛季、僕を嫌になるの」
「……どうして」
「飛季、いてほしいって言ってくれて嬉しいの。けどね、だからもっと怖いよ。飛季、僕を追い出すよ。僕、飛季といるの。飛季は僕が嫌なの」
「嫌じゃないよ」
「嫌だもん。僕、こんなの初めてなの。分からないよ。飛季がね、飛季って思うの。初めてなの。大切なの。怖いよ。飛季に嫌ってされたら、哀しいよ」
 飛季は腰を下ろして、実摘を抱きかかえた。実摘の涙が服を湿らせていく。飛季は実摘の軆を軆に包め、潤った髪に口づけた。「大丈夫だよ」と耳元でささやいた。実摘は嗚咽を引き攣らせ、かぶりを振る。
「嫌ってなるの」
「ならないよ」
「なるもん」
「なれない。実摘が遠くにいったほうが、俺は嫌だよ」
 実摘はびっしょりした睫毛を上げてくる。飛季は実摘のうなじをさする。
「ほんとだよ。話、しても平気だよ」
 実摘はうつむいた。「怖い」とぽつりと言った。実摘のしっとりした髪は、梳くと指のあいだにひんやりとした。実摘の落ちた睫毛が、濡れた頬に揺らめいた影を映す。
 飛季は息をつき、話については無理をさせないほうがいいと判断した。
「実摘」
「………、ん」
「俺は、実摘を嫌になったりしないよ。それは憶えてて。出ていかれても、帰ってくるの待ってるから」
 実摘は顔を仰がせてくる。飛季はおもはゆさをこらえて、咲いかける。
「話は、無理しなくていいよ。実摘が怖がることはないと思う。俺は実摘を追い出したりしない」
「飛季──」
「俺も、いろいろ実摘に初めてがあるよ。実摘にはマシな自分を造ったりしてない。俺にも実摘は特別なんだ。実摘がいると嬉しいし。大切に想ってるよ」
 実摘はまぶたを上げて、瞳を震わせた。飛季の服をつかむ手に、躊躇いがちに力がこもった。
 飛季は内面をさらした発言に頬が熱くなる。この子はときどき、どうも自分を臆面なくさせる。
 飛季は顔を伏せ、実摘と軆を離した。実摘は怖がった面持ちをする。飛季は実摘の頭をぽんぽんとして、キッチンのシンクに戻った。にらを抱いた実摘はおろおろと視線を彷徨わせ、飛季を追いかけてくる。背中に抱きついてきた実摘を、飛季はちらりと振り返る。
「何?」
「お話、なの」
「落ち着いてるときでいいよ」
「するの」
「………、あっち、行く?」
「こうしてるの。飛季は、お皿を洗ってるの」
 ほかのことをしながら聞いてほしいと言いたいようだ。飛季はスポンジを握る。泡が立つと、残り少ない食器を洗いはじめる。
 実摘は飛季の背中に顔を押しつけ、しばし口を開くのを逡巡していた。コップにスポンジを突っ込んだとき、「あのね」と小声が届いた。飛季は耳をかたむける。
「飛季はね、ほかの人と違うの。僕、ずっと空っぽだったの。何にもなくてね、誰かがいちいち入ってこないと、何もなかったの。飛季は違うよ。飛季は、そばにいたら僕をどきどきする。そばにいなくても、考えたら心臓がさわさわってする。僕、なかったのは、違ったの。眠ってたの。飛季は、僕の中を起こした。飛季といると、いるよ。飛季は僕を僕にする。僕を生きてるってするの。飛季は僕の命と仲良しなんだよ。すごいよ。でね、僕には飛季がいるのが普通なの。飛季が足りなかった。飛季がいなかったところから、僕は僕が落ちてたの。飛季がいると、僕は僕を失くさないよ。だから、飛季といるの。いたい、の。ずっとね、飛季といるの。飛季がほかの人といるのは嫌だよ。飛季は僕といるの。いてほしいの。ずっと、僕、飛季といて、どきどきするの。好きだよ。楽しいよ」
 ひと息ついた実摘に、飛季はスポンジの手が止まっていることに気づいた。再び動かしつつ、飛季の心は狼狽えていた。
 何だか、実摘の中で飛季は大層な存在になっているらしい。そんなに大した人間じゃない、と卑下する反面、実摘の特別な地位につけているのに驚喜してしまう。
 飛季にも実摘は特別な人だ。それが努めずとも釣り合うのは、やっぱり嬉しかった。
「でもね」
「ん」
「こんなの、嫌だよね」
「え」
「ずっと一緒にいてほしい、飛季は嫌なの」
 意外な方向に飛季は拍子抜けた。飛季は嫌。なぜそうなるのだろう。理解しようとした緘黙を実摘は肯定と取る。
「縛ってるもん。飛季を全部ぎゅってしたいの。わがままだよ。あとね、僕、子供でしょ。飛季は大人だよ。飛季は、もっと大人の人がいいの。あの人とか」
「あの人」
「あの綺麗な人。飛季の好きな人」
 好きな人。綺麗な──
「柚葉」
 実摘の額がこすれた。うなだれたのだろう。
「飛季はあの人が好きだよ」
 口をつぐんだ。図星を指されたのでなく、事実をどう伝えるかを思慮した。
「実摘、」
「飛季は、あの人といるの」
「実摘。俺はもう、柚葉とは会ってないんだ」
「えっ」
「会ってないよ。実摘と最後に会って以来、街にも行ってない」
「どうして」
「実摘が気に入らないならって」
「………、飛季、あの人好きなんでしょ。僕が邪魔なの。僕がいてあの人と、」
「違うよ。俺が、実摘の嫌がることはしたくなかったんだ。実摘が離れていくのが嫌で。柚葉じゃなくて、実摘を選んだんだよ。実摘のせいじゃない」
 実摘は黙りこみ、飛季の服を握った。当惑した呼吸が聞こえる。
 飛季はスポンジを置き、泡をすすぐ作業にかかった。実摘は飛季に額を弱くすりつけ、低くうめいている。飛季は二枚の皿をすすいで、コップにさしていたスプーンもすすいだ。
 あとはコップひとつになったとき、実摘が沈黙を破いた。
「飛季」
 飛季は身動きで呼応する。
「僕、痛いよ」
「え」
「苦しい」
 実摘へと首を捻った。実摘は飛季にしがみついている。
「苦しいって」
「んとね、喉とね、胸のとこなの。震えるの。嫌じゃないよ。痛くても、嫌いじゃないの。飛季に優しくされると、そうなって息が苦しくなる。ほっぺた熱くなったりもするよ。嫌じゃないよ。嫌がってるみたいだけど、ぜんぜん違うの。ほんとだよ」
「………、うん」
「こんなの初めてなの。誰にもこんなのならなかった。知らなかったの。飛季といると、たくさん初めてがあるの。最初はこんなのなかったよ。けどね、飛季がほかの人といるの見てね、こんなになっちゃったの。僕、これがいいのか悪いのかも分からないよ。飛季の隣、泣きたいの」
「実摘──」
「ごめんね。飛季は悪くないよ。僕が悪いの。どこが悪いのかは分かんない。息がいっぱいになるの。飛季といるの、怖くなったりもする。朝起きてね、飛季が僕を抱きしめてすやすやってしてると、びっくりするの。それで、どきどきしたりぱんぱんになったりするの。逃げるの。次来るのは、すごく怖いよ。飛季に、嫌そうにされたらどうしようって。それで行ったら、飛季は僕を憶えてて、ここに入れてくれるよ。僕の命が起きて、生きてるって思うの」
 実摘は、飛季の背中に顔をつぶした。飛季は手の甲を打つぬるい水道水を見つめた。水音と実摘の吐息が、暗黙の部屋の空気を振動させる。
 飛季はコップをすすいだ。実摘は動かない。飛季の答えを待っている。
 手を洗って水道を止めると飛季は実摘と向き合った。うつむいた実摘のこけた頬は、真っ赤になっていた。飛季は実摘の頭を撫で、その手で実摘の頬を覆う。熱かった。実摘はおこがましそうに上目遣いをしてくる。
「実摘──」
 飛季は細く小さい手を握った。実摘の白い指は弛緩しており、握り返してこない。
「実摘」
 実摘の睫毛は、今にも伏せられそうに揺れている。
「俺も、実摘と同じだよ」
「え」
「俺も実摘といたら、切なくなるんだ。会わずにいたら、嫌われたんじゃないかって落ち着かない。でも……片想いだって」
 実摘は静かに顔を上げた。飛季は彼女の澄んだ瞳を正視する。
「俺は──この気持ち、“愛してる”ってものだと思うんだけど」
 実摘は目を開いた。飛季は紅潮した。愛してる。こんな言葉を吐く日が来るなんて予想もしていなかった。けれど、実摘への複雑な思慕に一番近い形容は、これしかなかった。
「違う、かな」
「えっ」
「俺はそう思うけど」
「………、愛してるの」
「うん」
「僕、飛季を」
「たぶん」
「飛季は、僕を」
「愛してるよ」
 実摘は瞳をゆがめて、軆をぶつけてきた。飛季は受け止めた。実摘は飛季の胸に埋まり、飛季は彼女の背中を撫でる。実摘がもそもそと頭をもたげてくる。
 首を引いて覗きこむと、彼女は背伸びして飛季に口づけた。驚いたものの、飛季は応える。唇を離すとおもはゆそうに咲った実摘を、飛季は強く抱きしめた。
 ──シングルベッドは、絡みあうふたりぶんの体重にきしめく。そのきしみを、深くなった息遣いと詰められた喘ぎが濁す。軆のほてりの蒸発に、部屋の空気は濃やかにたぎった。こすれあった熱に汗が流れて、雫は滲んだ肌に降りそそぐ。
 手淫も忘れていた飛季の性器は、実摘に頬擦りをされると、敏感に腫れ上がった。彼女の口に育てられたそれで、軆を重ねる。細くなった軆に、下手な加減をしたくなるのと、ようやく満たされていく欲求を放ちたいのが、心でこみいった。
 実摘は飛季の肉体に陶然として、全身を開いて容赦ない性感を欲しがる。内奥を探られると喉を剥き、飛季に脚をまとわせて肺を広げる実摘の渇望に、こちらも徐々に理性が失われていった。
 つながった腰を揺すって、実摘の呼吸を高くさせ、充血で彼女の体内を快感として知覚する。激しさを緩めて破裂を焦らし、彼女をよく味わった。実摘は頬を真っ赤にして、声が混じりそうで混じらない無音の喘ぎを上げている。飛季もだらしないうめきは抑え、頭を発火で圧迫させた。飛季と実摘は恍惚を揺蕩い、そして、快感を絶頂に放出した。
 呼吸があふれ、快感の痺れが筋肉を脱力させる。搏動が鼓膜に響き、めまいがこめかみを巡った。実摘はまぶたを下ろして、息を荒げている。飛季は余韻をこらえて、実摘とのつながりを解いた。とろりと精液がぬめる。
 実摘の腰をベッドにおろすと、その隣に体重を放った。実摘はシーツに仰向けになっている。飛季は実摘の額にはりつく髪を指に絡め、剥がしてやった。実摘は飛季の胸に顔を伏せてくる。飛季は実摘の軆を胸に抱き、痩せた背中を撫でた。
 実摘は飛季の鼓動に耳を当てている。息や動悸が収まっていくと、飛季は実摘に話しかける。実摘は飛季に頬をすりよせ、反応をよこす。
 眠るかと問うと、実摘はこくんとした。飛季と実摘はティッシュで後始末をした。服に手を伸ばそうとしたら、実摘は飛季を押し倒す。着るなということらしい。異存のなかった飛季が明かりを消そうとすると、彼女は飛季の上を降りる。
 視線で追うと、「にらも」と実摘はリュックの上にたたまれていたにらを引っ張り上げた。実摘は飛季の上に戻り、腰ににらをかける。汗の引いた軆にクーラーが冷えこみはじめていたので、ちょうどよかった。
 にらと飛季にはさまれた実摘は、心地よさそうな笑みをたたえ、睡魔に侵蝕されはじめた。ベッドスタンドのリモコンで明かりを消すと、飛季は彼女の髪に口づけた。もろくなった背中のへこみをにら越しに撫で、安堵が絶えないようにする。にらのパイル生地は手触りがよかった。
 実摘の寝息が聞こえてくると、飛季は手を休めた。暗い空中に視線を泳がせる。この子と自分は、疎通できたのだろうか。
 正直、よく分からない。明日の朝、目覚めると実摘はここにいてくれるかどうか。懐疑は払拭できない。
 実摘を待ち続けた重たい夏休みを思い返す。もうこの子にいなくなってほしくない。痩せた軆を抱きしめると、明日実摘がいなくなっていないのを祈って、飛季は眠りに沈んだ。

第三十五章へ

error: