新しい生徒
蝉の声は減っても、まだ日射しがある中、受験をひかえた女子生徒を訪ねた飛季は、持ってきた通信制高校やフリースクールの資料を渡した。しかし、相変わらず彼女は登校に気が進まないらしく、憂鬱そうなため息をつく。
「中学を卒業したらすぐに、とは考えなくていいんだ。勉強したいと思ったとき、行きたい場所の候補は見つけておこう」
「……勉強は嫌いじゃないよ」
「うん」
「ただ──みんなの中にいるのがつらい」
「たくさんの人の中にいることが?」
「そう」
「じゃあ、フリースクールより通信制高校かな。ぜんぜん登校しないわけにはいかないけど、別室登校でも出席になるから」
飛季がそう言って資料を手に取ると、彼女はこちらを見つめた。「何?」と飛季がその視線を問うと、「先生、夏休み楽しかった?」と急に彼女はつくえにかがんで、少しこちらを覗きこんでくる。
「俺は、夏休みってほど長い休みはなかったけど」
「でも、いいことあったでしょ」
どきりとして彼女を見ると、「何か、感じというか──」と彼女は言葉を選ぶように首をかしげる。
「話しやすくなった」
「……そうかな」
「彼女できた?」
飛季は苦笑して、「どうだろう」とはぐらかす。
内心焦ったけれど、彼女が飛季と実摘といるところを見たとか、そういうわけではなさそうだ。そもそも、彼女が夏休みにどこにも出かけなかったのは、この家に来たとき母親に聞いている。
クーラーのきいた部屋ではあるが、飛季はワイシャツのボタンをきっちり首元まで留めていた。少し暑苦しいものの、多感な生徒の手前、やはり緩めるわけにはいかないようだ。そこには、実摘の口づけの痕がさんざん残っている。
九月に入り、飛季はまた毎日、家庭教師として生徒の家を訪ねるようなった。保護観察になった男子生徒に当てていた、火・木の午後は今のところ埋まっていないが、それでもいそがしい。特に朝は憂鬱だ。目覚めると、腕の中にいる実摘と離れるのが惜しい。
昨夜も実摘と遅くまで愛し合い、今朝、何もまとわない実摘は、同じく全裸の飛季の胸に咬みついて眠っていた。しばらく飛季は、実摘を抱いてぼんやりとしていた。クーラーを切った室内で、びっしょり汗をかきつつ、眠る実摘は飛季の脚に脚を絡みつけている。
仕事行きたくない、と毎朝思うが、仕事をしないと実摘をかくまうこともできない。飛季は息をついて実摘を横たえ、ベッドを這い出る。実摘には、にらを腹掛けにしてやっておく。
トイレに行き、汗をシャワーで流し、ワイシャツとスラックスで部屋に戻る頃には、ベッドの上ではだかの実摘がきょとんとしている。実摘は飛季に嬉々として駆け寄るが、服装に気がつくと表情が不安げになる。
飛季は実摘の頭を手のひらでおおった。「一緒に暮らしたいからね」と言っても、飛季を映せば澄むようになった大きな瞳は、心情的な影によって曇る。長い睫毛を落として、実摘は飛季に抱きついてきた。飛季は彼女の背中をとんとんとあやす。
実摘は汗の匂いがしている。かまわず抱きあった。実摘は黙っているけれど、その想いはいつもくっきりと読み取れる。
いかないで。
飛季は、実摘と軆を離した。顔を覗きこみ、桃色の唇に口づける。実摘はかかとを上げて、積極的に応えた。遠巻きに聞こえるすずめのさえずりの中で、舌をむさぼって絡めあった。背伸びした実摘のアキレス腱はいたいけだ。
飛季が時間を忘れて実摘に酔っていると、彼女のほうが唇を離した。唾液が糸になる。栗色の髪に指をさしこむと、「ごめんね」と実摘はつぶやいてうなだれた。飛季は首を横に振り、一度彼女を抱きしめてから、手早く身支度をした。
飛季が朝食を済まして髪をセットするあいだに、実摘はガラス戸のカーテンを開けて、腰ににらをまとわせて窓辺に座りこんだ。朝陽が実摘を襲っている。細い背中は壊れそうで、実摘はうつむいている。
飛季の心では、仕事なんか投げ出そうかという考えが本物になる。電話をちらちらしつつ、デイパックの中身を点検する。慌ただしく用意を済ましたおかげで、時間に余裕がある。実摘のかたわらにしゃがみこむと、実摘は首をよじってきた。
飛季は実摘の側頭部に手を添えた。彼女はにらを握る。
「僕、ついていけないよ」
「……うん」
「ずっと一緒、って思ってたの」
つい謝ると、実摘は頭を揺すった。
「飛季、帰ってくる?」
「もちろん」
「僕が嫌になって、おうちごと捨てるの」
飛季は咲い、「そんなことしないよ」と諭した。
「実摘も、いてくれる?」
「え」
「帰って実摘がいなくなったら、つらいよ」
「飛季──」
「待っててくれる?」
実摘はようやく、はにかんだ笑みを見せた。
「待ってても、いい?」
「待ってて。俺もなるべく早く帰るよ。そしたら、夜は一緒にいられる」
実摘はこっくりとした。飛季は彼女の肩を抱いて、服を着ることと朝食を作っておいたことを教える。飛季は実摘の感触を腕に刻むと、彼女を置いて出勤してきた。
今、隣で気鬱そうに通信制高校の資料に手を伸ばしている女子生徒は、実摘と歳は変わらない。しかし、飛季の中に芽生えるものはない。やはり、実摘が特別なのだと実感する。
「先生が」
「ん?」
「いたらいいのになあ、学校に」
彼女は、そう言ってから小さく照れ咲いして、資料のページをめくった。飛季は何も言わずに、ただ、実摘以外の少女に懐かれても、冷たく微動もしない心臓を感じた。
直帰が多い飛季だが、その日はその女子生徒がやっと志望校に決めた通信制高校の名前を伝えておくため、派遣事務所に立ち寄った。中学校との連携が必要な業務を受け持つのは、例の嫌味な主任講師だ。気が重かったのは的中して、希望を聞き出すのが遅いとか何とか、ねちねち言われた。
「それと、藤巻くんを受け持っていた時間なんですが」
飛季がげんなりした顔をこらえていると、その主任講師は思い出したように話を続けた。
「桐月先生に見てもらいたいと仰る生徒さんが来まして」
「何年生ですか」
「三年生です」
受験生か、とひそかに厄介に感じていると、「何でも、夏休み中にこちらに越してきたそうで」と彼はいつになく嬉しそうな笑顔を見せた。
「少し勉強の進みが違うかもしれないから、念のために見てほしいと本人が希望したそうですよ。いやあ、そんなしっかりした子もいるんですね」
「自分の学力に不安があるんでしょうか」
「学力はとても優秀な子ですよ。しかし、本人が納得したいんでしょう」
つまり、自分の成績に自信が持てない生徒なのだろうか。そうなると、どちらといえばメンタルケアになるので、飛季は得意ではない。それを正直に言うと、「だからですよ」と彼は渋った飛季が癇に障ったように語気を強める。
「この子には、桐月先生が何かすべき問題はなさそうです。そういう生徒で、子供たちの話を聞くことに、もっと向かい合えるようになってください。そして、事情を抱える生徒にも対応できるようになってほしいんです」
その生徒を実験台みたいに言うが、そう言われると飛季も「苦手だから」と回避できない。仕方なく「分かりました」と引き受けると、「私としても、もっと熟練した先生に見てほしかったんですがね」と彼は嫌味をきっちり添えて、その生徒の資料を飛季に渡す。
「来週の火曜日から、さっそくよろしくお願いします」
飛季は書類をめくり、なおざりに目を通した。女子生徒のようで、確かに学力チェックの結果は優秀だった。
こんなに頭がいいなら、いっそ自分で授業の進みの差異などすりあわせればいいのに。そんなふうに感じながら、飛季は書類をデイパックにしまった。
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