陽炎の柩-37

鏡の中の君

 十九時をまわっても空気はねっとりしているが、空はもう暮れていた。途中でオートバイの給油、そしてコンビニで買い物もしたので、だいぶ遅い帰宅となってしまった。オートバイを降りて荷物を提げた飛季は、急いで部屋に帰る。
 風が抜ける日陰の廊下は、わりあいひんやりとしている。汗をぬぐって鍵をさしこんでまわすと、駆け足が聞こえた。ドアを開けると、「飛季」とはずんだ声がする。
 もちろん実摘だ。ちゃんと服を着て、にらも被っている。抱きついてきた彼女を受け止め、飛季は口を綻ばせる。「ただいま」と言うと、実摘は嬉しそうに「おかえり」と言った。
 飛季は後ろ手にドアを閉め、抱き上げた実摘と部屋に入る。クーラーはかかっておらず、実摘は汗に濡れていた。ベッドがくしゃくしゃになっているほかは、部屋の状態は平穏だった。
「ずっと、目つぶってたの」
 実摘がそう言って、飛季が首をかしげると、実摘は飛季の肩に腕をまわす。
「飛季がいない飛季の部屋ね、すごく寂しいよ」
 飛季は、首筋に埋まった実摘の頭を見下ろした。その頭に、軽い口づけをして荷物をおろす。ベッドスタンドのリモコンを取って、クーラーをつける。
「お腹空いた」と実摘は甘えてくる。何も食べていないのかを問うと、「朝ごはん食べたよ」と実摘は答える。「昼も食べてよかったのに」と飛季は放ったコンビニのふくろをあさった。メロンパンがあったので、それを実摘に渡して食べさせる。
 そのあいだに、飛季は米を研いだ。メロンパンを胃におさめた実摘は、飛季の背中でやもりになる。実摘はこうして、料理をする飛季の背中に吸いつくのが好きだ。たまに飛季が振り向いて微笑むと、無邪気に嬉笑する。
 飛季は米を炊飯器にそそぐと、炊けるまでどうしようかと悩んだ。飛季も実摘も、汗をかいていた。クーラーで涼しくなってきていても、服は汗にべっとりしている。飛季は実摘を正面に連れてきて、「シャワー浴びようか」と提案した。実摘は飛季を仰ぐ。「一緒に」とつけくわえると、彼女は瞳を輝かせた。
 飛季は着替えを選ぶと、実摘を連れてバスルームに行った。脱いだ服は洗濯かごにやった。昨日コインランドリーに行ったので、かごの中身は数枚だ。
 実摘の軆は汗でべたべたしていた。「暑くなかった?」と質問すると「暑かった」と即答される。
「クーラー、入れていいよ。蒸したとこにずっといると、軆に悪いし」
「お金かかるの」
「構わないよ。実摘の家だし」
 実摘はまじろいだ。その反応に、でしゃばった言葉だったかと飛季はすくむ。けれど、実摘は嬉しそうに咲って、「僕のおうち僕のおうち」と繰り返した。実摘が、ある言葉をうわ言じみて反復するのは、喜悦の表れだ。
 飛季は実摘の汗ばんだ髪を梳き、タイルに踏みこむ。先に実摘の軆を洗ってやった。実摘は飛季の軆を観察する。指を伸ばし、肩の線をたどったり胸の筋肉を押したりしている。
「何?」と飛季が苦笑すると、実摘はなぜか頬を染めた。
「飛季の軆、綺麗なの」
「え、そう、かな」
「うん。嘘つきだよ」
「嘘つき」
「服来てたら地味なのにね、脱ぐとえっちなの」
「えっち、ですか」
「どきどき」
 飛季は曖昧に咲った。考えれば、柚葉にも似たことをささやかれたことがある。
「飛季」
「ん」
「飛季はね、先生なの」
「え、ああ──いや、家庭教師だよ」
「でも、いろいろ教えてるの」
 それは、そうかもしれないけれど──うまく言えず、ただあやふやに咲う飛季に、実摘はまばたきをする。
「飛季、恥ずかしいの」
「え」
「先生って言われると、飛季は恥ずかしそうだよ」
「………、恥ずかしいし」
「先生はえらいよ」
「えらくないよ。俺は生徒の話とか聞けないし。どうせ、どんな子もただの目立たない人間になるのに。俺も、自分は凡人になるって考えてきて、実際そうなった」
「飛季、変わってるの」
 飛季は、泡立った素手で実摘の肌を柔らかくこすった。
「あんまり、こういう仕事は向いてないんだ。でも、ほかに何して食べればいいのか分からなくて」
 実摘は飛季を見つめた。飛季は微笑む。
「実摘がいてくれれば、もっと割り切れるかな」
「え」
「実摘とここで暮らしたり、一緒にごはん食べたりするためだって思うと、頑張れる」
 実摘の瞳は潤びる。飛季は自分の台詞に照れて、実摘の軆を洗う。実摘は飛季の腕を握る。
「飛季」
「うん」
「飛季ね、普通の人だけど、僕には違うよ」
「え」
「僕には飛季すごいの。飛季、僕に教えたよ。どきどきしたり、そわそわするの。いっぱい初めてだったよ。でもね、だからほかの人には、飛季はつまんなくちゃいけないの。ほかの人は、飛季が見えたらダメだよ。決まってるの」
「実摘──」
「飛季が平凡なのは、僕の特別だからだよ」
 つたない口調の強烈な殺し文句に、飛季は切なくなった。彼女に口づけをする。実摘は応えた。
 愛おしかった。出逢えてよかった。夢想じみているとはいえ、飛季は本気で信じはじめている。自分は、この子のために生まれた。
 唇を離すと笑みを絡めて、飛季は実摘の軆と髪を洗ってやった。実摘の髪は、飛季が散髪してやってショートカットを保っている。
「飛季は僕が洗う」と実摘は主張し、従った。実摘の小さな手は、一途に飛季の全身の広い肌をこする。飛季は実摘の雫を滴らす栗色の髪や薄く儚げな肩、ほっそりとした腰を眺めていた。軆をこすりおえると、実摘は飛季に正面から覆いかぶさって髪を洗う。
 実摘の性器が眼前に来る。飛季の股間は、彼女に素手で洗われたにも関わらず、勃起していなかった。実摘の真っ白な内腿には、飛季の口づけの花が生々しい。昨日したばっかりだもんな、と胸中でつぶやいた。
 そうしていると、シャワーで泡を落とされ、実摘は飛季の軆に指をすべらせた。「綺麗だよ」と実摘は満足そうにする。飛季は実摘の手にあるシャワーを盗んで、こちらを洗っていて飛んだ彼女の軆の泡を流す。コックを止めると、ふたりはバスルームを出た。
 水滴を拭きあって、服を着て部屋に戻る。飯が炊けた匂いがしていた。「ごはん」と実摘が催促してきて、飛季は夕食の用意をした。実摘はベッドサイドでにらと戯れた。テーブルに食事が並ぶと、四つんばいで這ってくる。
 実摘は彼女専用の箸を取り上げ、「いただきます」と手を合わせた。何だかこちらもそれにならって頭を下げ、あつらえ品の魚の塩焼きに箸を入れる。食事に熱中する沈黙を流していると、突然、実摘がそれを裂いた。
「あのね」
 飯をすくっていた飛季は、実摘を向く。
「飛季って、どんな先生なの」
「えっ」
「飛季が先生って、想像つかないよ」
「………、冷たいんじゃないかな」
「冷たい」
「よく、上司の先生に注意されるし。もっと生徒の気持ちに親身になれって」
 実摘は飛季を眺め、ひとりうなずいた。
「忘れてたの」
「え」
「飛季、外では仮面だよ。僕、飛季が剥き出しなのに慣れてたの。飛季、変わったね。仮面つけてた名残もなくなった。目に血がないよ。透明なので濡れてる」
 飛季はつい咲いながら、口に魚と飯を詰めこむ。
 変わった。それは今日の女子生徒にも言われた。そして、それは実摘のおかげなのだ。
「僕ね、飛季が先生なら、学校に行ってもいいよ」
「冷たくてびっくりするよ」
「ひいきしてもらうの」
「はは」
「僕、学校そんなに嫌いじゃないよ。好きでもなくてもね、家よりよかった」
 家。実摘の禁忌だ。飛季は、笑顔をひかえて真顔になる。
「ここに来る前の家。家は怖かったよ。嫌いじゃなかったの。ただ、怖かったの」
「怖い」
「分かんないの。僕、家ではいなかったの。おまけなの」
 いない。おまけ。飛季の中にある実摘の知識では、まだその言葉はつながらない。
「いなかったの」
 そう繰り返した実摘は、もそもそと茶碗の飯をつついた。
 彼女の過去は分からなくとも、そのせいで実摘がずたずたになったのは確かだ。実摘は自分といると、子供っぽく無垢になる。そんな近頃の様子に、飛季は彼女には壮絶な過去があるのを忘れていた。
 実摘の過去は、消えたわけではないのだ。目先の飛季に夢中になっているだけだ。昼間、ここにひとりぼっちでいて、うっかり傷口がめくれたのかもしれない。
 飛季は、実摘をそばに呼び寄せた。実摘は顔を上げて茶碗を置き、這いずってくる。飛季は彼女を腕に抱いた。実摘は不思議そうにしばたく。
「飛季──」
「大丈夫だよ。実摘はいるよ」
 ぽかんとしたのち、実摘は目尻の切れこんだ瞳を湿らせた。
「実摘の家は、ここだし。実摘が空っぽだったら、俺の目が血から透明になったりしないよ」
 飛季のささやきに、実摘は照れ咲いをして大きくうなずいた。飛季の胸にきゅっと身を縮める。飛季は実摘を腕に包め、確かに在るその熱と柔らかさを感じ取った。
 それでも、飛季が日々出勤するのが日常化し、実摘は明らかに精神を不安定にさせていった。以前は頻繁に受けていた、あの重たい空気が部屋に帰ると強く残っている。
 実摘は、だいぶ変わりつつあった。暴力的な逆上はなくなった。部屋を転げまわったり悲鳴を上げたり、あの猛烈な罵倒も失せている。
 夏休み、飛季に甘えてくっつきまわっていたあいだは、鬱屈もなくなっていた。しかし、飛季が常勤になって強制的に置かれる空白を、実摘は放棄していた内向で埋めはじめた。
 飛季が帰ってくると、実摘はぱたぱたと駆け寄ってくる。密度の高い空気には、涙の匂いがした。飛季は彼女をきつく抱いて、ただいまの前に謝ってしまいそうになる。もちろんこらえて、「ただいま」と微笑んだ。実摘は、「おかえり」と噛みしめた笑みをする。
 彼女は、はしゃぐことが極端に減った。黙りこんで、飛季に密着したがった。仕事を投げうちたくても、そうすれば収入が絶える。実摘がどんなに落ちこんでも、飛季は生活費を稼がなければならなかった。
 一緒に暮らしたい。その気持ちは、彼女も同じだ。だから、実摘はわがままを口にはしなかった。
 あんなに甘えていた実摘が、飛季が出勤するのを黙って見送った。その瞳はけして黙っておらず、すさまじい不安が渦巻いていたけれど。飛季はどんどん、仕事中に落ち着かなくなった。実摘ばかり想ってしまう。帰りたくて仕方ない。夜を待ち焦がれるのが、ゆいいつ叶う望みだった。
 週末を過ごしたのち、また一週間が始まる。その日は火曜日だった。朝礼のあと、主任講師に言われて、新たな受け持ちの生徒のことを思い出した。その生徒の名前すら把握していない。さすがにやばいと感じた飛季は、書類を突っ込んだままのデイパックをあさった。
 綾香あやか、という名字をひとまず頭に書きこむ。学力チェックは、やはり優秀──いや、完璧だ。これなら、嫌味抜きで、授業に関して飛季のサポートなどいらないのではないか。転居で急に志望したと思われる、挙げられた進学校の合格も余裕に思われた。
 たまに念には念を入れる生徒もいるけど、と思いつつ、自宅の住所と地図を参考に、飛季は午後、綾香家におもむいた。静かな住宅街に一角にある戸建てだ。幼い頃を含め、集合住宅にしか暮らしたことがない飛季には、一軒家に住む家庭は裕福なイメージがある。
 大きな二階建ての白い家に、『綾香』という表札を見つけた。家構えに臆しつつ、その下のドアフォンを押す。すぐに『はい、綾香です』と女性のインターホンの対応が返ってきた。飛季は自分の名前と派遣された家庭教師であることを名乗る。すると、『ああ、もうそんな時間!』とやや慌てた声が返ってきて、『すぐ開けますね』とインターホンは切れた。
 母親だろうかと思いつつ、飛季はおとなしく門扉の前で待った。短い階段の先で、すぐに玄関のドアが開いて、「すみません、越してきたまま散らかってますが」と四十手前ぐらいの女性が現れる。
 その後ろについてくる、中学生くらいの少女がいる。初対面で出迎える子はめずらしいな、と感じながら飛季は笑みを模造した。
 慌てていた様子とは裏腹に、母親はしっとりした顔立ちをした美人だった。「初めまして、先生」と会釈され、飛季は「桐月です、よろしくお願いします」と同様に返す。
 それから、その母親の隣に踏み出した新しい生徒に目を移した。そして、飛季は硬直した。
 そこでにっこりとしているのは、実摘だった。

第三十八章へ

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