陽炎の柩-38

閉じこめても

 綾香あやか実富みとみ。それが新しく受け持つ生徒の氏名だった。
 中学三年生の十四歳。十二月生まれなのだそうだ。家族構成は四人で、父、母、姉妹がひとりいる。
「本当は、あの子が戻る家を離れたくはなかったんですが、どうしても主人の仕事の都合で」
 母親の言葉に、本当だろうか、と飛季の心臓はすくみあがり、きりきり痛むほどだった。あまりにも、できすぎているではないか。「あの子」はこの町にいるのだ。そう、飛季の部屋にいる。
 綾香実摘。現在行方不明になっている、実富のふたごの姉。
 実富とその母親、ふたりとダイニングルームのテーブルを囲み、飛季は顔面に笑みを貼りつけていた。何とか受け答えはしていても、ほとんど話は頭に入ってこなかった。
 今頃、飛季の部屋で寂しさに耐えている少女と、彼女にそっくりなこの少女が、眼前の女性から共に生まれたという事実が、唐突すぎて受け入れられなかった。
 実富自身が、前と今の学校の勉強の進み具合の違いを説明する。特に不登校になっている子ではなく、学校にはいたって普通に行っているらしい。「でもやっぱり、こっちはレベル高くて」と言う実富と、飛季は何とか冷静を努めて今後の学習内容を相談した。
 動揺していて間の抜けた反応ばかりだったが、ほかの講師に交代すると言い出されることもなく、改めて飛季が勉強を見ることが決まった。そして、玄関先での別れ際、実富はみずから飛季の前に立ち、微笑んだ。
「先生、来週からよろしくお願いします」
 まさしく、実摘の儚げな声だった。
 受ける印象は違う。実摘はそのまま消え入ってしまいそうだが、実富には張りがあった。生きてる、と感じた。おかしな感想だが、確かに実富は生きている。片や、実摘はあんなに死に振れている。
 それにしても、瓜ふたつだった。ふたごという名において、欠点が何もない。本当に同じだ。身長も同じなのが、実富が正面に来たことで分かった。
 ゆいいつ違うのは、髪型だ。実摘が固執するショートカットと異なり、実富はショートボブで毛先が耳にかかっている。
 そのほかは、何も変わらない。栗色の髪、目尻の切れこむ大きな瞳、すっとした鼻梁も桃色の唇も、柔らかな顎も。肌は雪白で、ほっそりした体質で──実摘と、飛季の心を縛るあの子と、実富のすがたはまるで同じだった。
 飛季は放心状態で「よろしく」と返した。実富は再度微笑むと、母親と共に頭を下げた。飛季は突っ立って彼女を見つめてしまったが、視線が重なってはっとして、ぎこちなく咲う。そして、「じゃあ、木曜日の放課後から」と会釈すると、きびすを返した。階段を降りながら、門扉を抜けながら、夕暮れの中に視線を感じて、飛季は混乱する頭にいっそ倒れこみたかった。
 飛季が講師として契約成立したことを伝えなくてはならないので、事務所に向かった。例の主任講師が席を外していたので、飛季はデスクに着いて、重くて深い息をついた。
「前の家にあの子が帰ってきたら、私の友達も、警察の人も、すぐ連絡くれるから」
 実富がそう励ますと、母親は顔を上げて「そうだよね」とうなずいていた。そのやりとりを思い出しながら、飛季は何とか事実を受け入れてくる。
 あの少女は、実摘のふたごの妹である。
 体重が落ちこみ、椅子がきしんだ。ふたご。実摘が。ぜんぜん、思いもよらなかった。あの子に、あんなに完璧なふたごの片割れがいたとは。
 実摘の家族も、実在したのだ。当たり前ながら、どこかでは蜃気楼のように感じていた。
 実摘は、家族のことを恐れている。飛季はゆっくり、母親と実富を思い返した。一見、あのふたりには、家族のひとりである少女の精神を捻じる要素はなかった。
 話題にものぼった通り、転居の原因となった父も存在する。同居もしているようだ。この父親に問題があるのか。
 いや、飛季は母親も実富もよく知ったわけではない。個人でなく、家族揃って実摘を迫害した可能性もある──
 ここで、飛季ははたとした。初対面相手に、ひどい推察だ。飛季は綾香家どころか、実摘もよく知らない。飛季が実摘について知っていることなんて、彼女の感触がどうのとか、頭を撫でられるのが好きだとか、そういうことだ。
 実摘の背景は、何も知らない。それでも、家庭で深い傷を負ったことは確かだ。彼女は、あんなにも自身の存在意義を内攻されていた。家庭で何かされたかどうかは分からないが、あの状態になった現場は家庭で間違いない。
 あの女とあの少女は、実摘の心を引き裂いた場所にいた。家が怖い、と実摘は言っていた。学校は嫌いではなかった、とも。そう言われては、家族が実摘の精神を破砕したと読んでしまう。
 実摘の家族が、近所にやってきた。偶然──なのだろうか。分からない。それが怖い。
 やっと気持ちが疎通し、平穏に暮らしはじめたところなのに。彼女の傷も、出逢った春先に較べれば、ずいぶん癒えてきている。咲ったり、心を表示したり、何より、内的な亀裂に足を取られて暴れまくるのがなくなった。
 今、彼女が傷ついているのは、どちらかといえば、白刃の記憶のせいでなく、飛季の不在のせいだ。恋愛をする人間なら誰でも覚える痛みで、実際、飛季が隣に戻れば元気になる。
 実摘の心は、回復過程にある。触れるのもおぞましかった膿んだ傷は、かさぶたとなり、乾いてきた。そこに、実摘の心を分裂させた家族がやってきた。
 彼らは、飛季と実摘が想い合っているなんて認めないだろう。娘はロリコンに拉致されていたと言い張るはずだ。飛季と実摘のつながりは、露顕すれば絶対に切断される。
 息が苦しくなった。偶然か、故意かは分からない。だが、飛季の初めての安息を奪う、実摘の家族がそばに迫ってきたのは事実だ。
 実摘は、飛季の腕に包まっていれば癒やされる──世間は、そんな秘めやかな真実は断固否定する。
 覚悟はしていた。実摘と生活を共にするなら、飛季は彼女の親に訴えられてもおかしくない。当人同士がどんなに年齢を気にしていなくても、しょせん飛季は独立した成人であり、実摘は保護される未成年だ。
 飛季が実摘を部屋に住まわせているのは、もはや保護とは呼べない。保護なら速やかに警察に届け出ていた。飛季は実摘を帰すべき場所に帰さず、手元に置いている。飛季と実摘の関係は、世間の一面観ではそうなのだ。
 薄かった実感が、急速にのしかかってくる。自分が変態の犯罪者とされるのは構わない。ただ、実摘と引き離されるのが怖かった。あの子と離れるのは、夏休みのあの期間でじゅうぶんだ。もう実摘と離れたくない。
 実摘の家族にばれたら、おしまいだ。法をかざして引き離される。飛季を失くし、実摘の精神が壊れるのも怖い。飛季がこうして出勤するだけで、実摘は空気の粒子に息苦しさをたっぷり染みこませるのだ。いまさら飛季を失い、おまけに精神を粉砕した場所に引きずり戻されたら、彼女は以前の傷口とは比にならない裂傷を負う。
「桐月先生。綾香さんはどうでしたか」
 そんな声がかかって顔を上げると、いつもの嫌味っぽい主任講師がかたわらにいた。飛季は事務的に契約の報告をした。「いい子だったでしょう」と彼は目尻を下げ、飛季は適当に相槌を打った。
 あれくらいの歳の子は、何を考えてるか分からない。飛季はそう思うが、無論口にはしない。
 帰り支度をしながら、このことは実摘に話すべきだろうかと自問した。悩む必要もない。話さなくてはならない。実摘を部屋から出すのは、今後いっさい厳禁だ。休日の買い物には、実摘はついてきたがるだろう。そういうとき、もう一緒に歩くのは──いや、ひとりで出歩くのも危険だと教えなくてはならない。
 実摘を傷つけた人間たちがやってきた。だが、飛季はどうやっても実摘を守ったり救ったりできない。実行すれば、世間や法律によって、逆効果になる。自分の意志で家庭を逃げ出した実摘をかくまい、手助けするぐらいしかできない。
 だから、飛季は実摘を隠す。それぐらいだ。彼女が望みさえすれば、飛季は実摘を監禁だってする。

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