切断された瞳
帰宅すると、実摘は薄暗い部屋の隅でうずくまり、にらをかぶって物と化していた。クーラーでひんやりした室内は重く、鬱にふやけている。「ただいま」と声をかけると、にらが痙攣した。ついで栗色の頭がぬっと突き出て、首が折り曲がってきた。
絡まった瞳に飛季が微笑むと、実摘は頬をほころばせた。にらをたなびかせて、こちらに駆け寄ってくる。飛びついてきた彼女を受け止め、飛季は声をもらして咲った。
「おかえり」と実摘は飛季の胸にすりよった。飛季は実摘を抱きしめ、「ただいま」ともう一度言う。実摘はごそりと顔を上げ、はにかんで咲った。
飛季は実摘の汗ばんだ額をさすって、口づけをした。実摘は睫毛を伏せる。しばらく唇をむさぼりあい、一日の空白を埋めあった。顔を離すと軆も離し、激情に走ったことにお互い照れ咲いする。
「飛季のごはん」と実摘にねだられ、飛季は着替えを済まして夕食の準備に取りかかった。実摘は飛季の背中にやもりになり、今日の剥離を奪い返す。室内は冷えこんでおり、背中に広がる実摘の体温は心地よかった。見返って一笑すると、実摘は幸せそうに咲い返す。キャベツをざく切りにしつつ、飛季は思慮にふけった。
幸せ。そう、実摘は自分といると幸せなのだ。実摘がそんなものを実感したのは、飛季に暮らしはじめてからなのではないだろうか。出逢ってまもない頃の実摘に、そんな余裕はなかった。あの分離した空気は、不運も幸運も隔離していた。
澱んだ瞳や不可解な言動、捻じれた過激性がよみがえる。飛季はこの子にさまざまな奇行をされた。無言で眺められたり、床を這いまわられたり、めちゃくちゃに罵倒されたり。強烈ながら、そんな実摘が遠くもあった。あれは、実摘が傷口に沈んだり溺れたりしている表示だった。
今、実摘は穏やかだ。ほとりに腰かけて飛季に寄り添っている。たまに爪先を浸されそうになっても、飛季がすくいあげれば大丈夫だ。この状態が続けば、実摘はあの分離した心にさいなまれなくなるだろう。
実摘の家族は、そんな安泰を危ぶませる。飛季は、実摘の家族に悪感情しかない。自分から実摘を奪う者たちであり、この関係を直視しない者たちであり、何より実摘を突き落とした者たちだ。実摘は、飛季の腕にすがってやっと救われた。だが、家族がそんなことを認めるだろうか。傷つけた者とは、傷つけた自覚すらない。
ここにいるほうが実摘が落ち着くのなら、と娘を飛季に預けるだろうか? ありえない。捜索願いは出していると母親は話していた。実摘の居場所が分かれば、家に連れ戻すだろう。そしてそこで、実摘の精神はゆがみ、また壊れてゆく。
キャベツをボウルに放っていた飛季は、考えながらかすかに眉を寄せた。実摘は飛季にすりよって鼻歌をしている。
捜索願い。実摘の居場所。あの家族が越してきたことを、飛季は偶然が過ぎると感じた。やはり、実摘がこの町にいるのをつかんでやってきたのではないか。まさか、飛季の部屋にいるのも──。
胸に広がる懸念に気分が悪くなる。息を殺してにんじんのふくろをあさると、「にんじんはうさぎ」と実摘が言った。「は?」と振り返ると、「うさぎうさぎ」と実摘は歌う。深い意味はないらしい。今日の実摘は機嫌がいいみたいだ。一緒に過ごして嬉々とする実摘に、飛季は嬉しくなると同時に、目下の危険性も実感する。
いずれにしろ、実摘はここにかくまったほうがいい。外に出してはならない。かなりつらいことでもある。何せ、無期限だ。どうかすれば、一生かもしれない。解放の見通しもなくまったく外に出られないなんて、普通は嫌がる。
実摘の場合だと、家でうずくまるのはできそうでも、買い物などには飛季についてきたがる。綾香家は、高台の住宅街だった。利用するコンビニやスーパーは異なっているだろうが、駅前に出れば鉢合わせる可能性はある。
駅前の大きな店舗でないと揃わないものもあるし、そのへんにはもう行かないという選択肢はない。用事があれば、ここに実摘を置いていくしかない。そのためには、実摘に事実を説いてやらなくてはならなくなる。
フライパンに油を引いて熱し、肉を落とした。じゅっ、という音に実摘は慌てふためいたが、飛季がなだめてやると収まった。実摘は飛季の背中を離れ、隣に立ってフライパンを覗きこむ。飛季の顔を眺めたり、キャベツをつまんだり、にらに話しかけたりする。飛季は実摘に咲いかけつつも、憂色に落ちこみそうになる。
率直に言って、いいのだろうか。伝えれば、実摘の精神をぐらつかせるのは必至だ。日中、この部屋にひとり残る実摘を、家族の気配に怯えさせることになる。実摘の壊滅的な心をさんざんぶつけられた飛季は、彼女をあの恐怖と隣り合わせにするのは忍びなかった。
伝えてもいいのかという不安に、伝えなくてはならない現実が重い。下手な方法で伝えては、実摘を失ってしまう恐れもある。家族に見つかる前に、飛季を捨てて遠くにいってしまうとか。そう選択されても、飛季は文句を言える立場ではないのだが、そうされたらやはりつらい。
実摘は飛季のかたわらを離れ、部屋をぐるぐる歩いた。飛季はフライパンの野菜炒めを菜箸でかきまわし、実摘を見つめる。にらを抱いた実摘は、飛季の視線に咲った。飛季は咲い返そうとして、うやむやに崩れてしまう。
こんな心配は、すべて戯れ言なのかもしれない。飛季は怖くてたまらなかった。実摘を失くすなんて、考えたくもなかった。初めて、自分の意志も及ばず愛した人なのに。飛季は、情けないほどにこの幼い少女に依存している。
うつむいた飛季に、実摘は焦って駆け寄ってきた。「どうしたの」と心配そうにする彼女を、飛季は微笑んで左腕に抱き寄せた。実摘は飛季の胸にもぐりこむ。彼女は飛季の心を感知し、共に泣き出しそうにしている。
愛しさがこみあげ、料理の手を休めた飛季は、汗に湿った栗色の髪を撫でた。すると、実摘の表情の曇りは次第に溶けていく。飛季の胸に柔らかい頬を押しつぶし、おっとりと目を閉じる。その様子に、飛季の不安に駆られた心もやわらいだ。飛季が愛撫すれば、実摘は安らぐ。
彼女が家庭で受けた傷が、飛季の愛撫ごときで収拾がつくとは思わない。とはいえ、せめて気休めにならないだろうか。飛季は彼女に覚えさせなくてはならない。もう、ひとりではないことを。
夕食は野菜炒めと味噌汁、補助食としてふたりでひとつの鮭弁当だった。あとは白米で、炊けるには時間があった。「待とうか」と飛季は言って、ふたりは床に腰をおろす。
実摘は飛季の脚にまたがって向き合い、正面から抱きついた。喉に埋まった実摘の頭に、飛季は顎を乗せる。実摘の吐息が喉仏をくすぐる。ふっくらしてきた実摘の背中をさすり、背骨をなぞった。
「実摘」とささやくと、実摘は鼻に抜かした声で返事をする。飛季は数秒躊躇い、「話があるんだ」と切り出した。「お話」と実摘は頭をもたげる。飛季はうなずき、彼女の頬を手のひらでおおった。実摘の頬はちぎれそうに柔らかい。実摘はまばたきをして、飛季の瞳孔にいる自分を正視した。
「お話」
「うん」
「なあに」
飛季は口ごもった。実摘はしばらく瞳をくるくるさせていたものの、飛季の深刻な様子に不安げになっていく。飛季は、心をくくって顔をあげた。衝撃を与えるであろう話題の前に落ちこませてしまっては、最悪だ。
「実摘、その、もし傷つけたら、俺、何て言ったらいいか分かんないんだけど」
「いるよ」
「え」
「僕、飛季といるの。離れないもん。飛季が『嫌』って言ってもいるの。出ていかないよ。ここにいるよ。おうちだもん。見つけたんだもん。僕のだもん。飛季と一緒なの。飛季、だって僕、飛季──」
実摘は肩を震わし、喉を剥いて泣き出した。飛季は慌てて、彼女を抱きしめた。部屋を出ていけと言われると思ったみたいだ。
「違うよ、実摘」
「いるもん。飛季は僕のなの。嫌だよ。僕、飛季がいないと、」
「うん。ごめん、その、疑ったわけでもないよ。ほんとに、大事な話なんだ。俺たちは離れたくなくても、離されるかもしれないんだよ」
「そんなん殺せばいいよ。殺すよ。僕、殺せるよ」
「実摘」
「殺す。僕と飛季、一緒」
「実摘、ちゃんと聞いて」
「一緒一緒」
「実摘の家族が、すぐ近くに来てるんだ」
実摘の動きが止まった。言葉も止まった。
切断された瞳が、こちらを見た。
【第四十章へ】