望む通りに
九月になっても残暑は厳しく、クーラーをつけた室内にいないと汗だくになる。仕事を終えて帰宅した僕は、「ただいま」と言いながら部屋の明かりをつけて、ソファに置きっぱなしのエアコンのリモコンをつかむと、熱気のこもった部屋を冷ました。音を立てて部屋をめぐりはじめる冷風に当たり、しばらく、めまいがしそうなくらい暑気にあてられた頭を癒やす。やっと汗が冷たく感じられるほどになると、ため息をつきながらソファまで後退った。そしてそこにスーツのままぼふっと腰かけ、ポケットのスマホを取り出す。
メッセが着信している。梨苗ちゃんからだ。昨夜、梨苗ちゃんと少しだけメッセのやりとりをした。僕が心寧ちゃんのことを切り出し、梨苗ちゃんも興味を持ったみたいで、話を聞いてくれた。
心寧ちゃんがこちらに遊びに来たいと言っていたのを打ち明けると、『かなり押されてるね。』と来て、『やっぱり、そういう意味があるのかな。』といまいち自信がなくて僕は確認してしまう。『興味ない人のところに行きたいとは思わないよ。』と梨苗ちゃんは答えて、『真永くんが迷惑とか感じないなら、きっと悪いことじゃないよ。』と続けた。心寧ちゃんを拒絶しないことに、優空に対して罪悪感のようなものがあるのは見抜かれているようだ。
迷惑。迷惑ではない。でも、まだ、新しい恋愛という気分でもない。自分でも焦れったくて、はっきりしなくて、どう言ったらいいのか分からなくて、考えているうちに寝落ちてしまった。今朝になって、『あの子に期待はさせられないよ。』とぽつりと送信し、そのままだった。その返信がいつのまにか来ていた。
『期待されたとしても、応えようって思わなくていいんだよ。
それはさすがにその子も分かってると思う。』
僕はその文章を見つめ、そうか、と目を伏せた。確かに僕は、想われているのなら、応えなくてはならない気がしていた。それが正直、憂鬱でもあった。けして心寧ちゃんが嫌いだとか、そういうわけではないのだけど、どうしようもなく僕には優空が残像しているのだ。
しかし、心寧ちゃんは僕の中に優空がいることはよく知っている。そのことを疎むどころか、憧れてくれている。だから、僕の優空への想いを踏みつけて、自分を主張してくることはないだろう。
だったら、そんなに窮屈に悩むこともないのかもしれない。僕を侵害するような女の子ではない。それは、夏の夜にじっくり酌み交わして感じた。
僕にできる範囲で、心寧ちゃんに優しくするのは、罪ではないのだ。心寧ちゃんが僕に好意があったとして、優しくしたら期待させるかもしれないけど──やたら冷たくして、勘違いもされたくない。僕がまだとうぶん距離感を保ちながらやっていきたいのなら、心寧ちゃんはそれを尊重してくれるだろう。
『ありがとう。
何かそう言ってもらえてすっきりした。』
僕がそう送ると、梨苗ちゃんからはすぐに既読がついて、『よかった。』と返事が来る。
『全部、真永くんの気持ちで決めていいんだよ。
ぜんぜんわがままじゃないから。
優空も真永くんが望む通りに生きていってほしいと思う。』
生きていく──か。そうだなとスマホをソファに伏せた。僕は生きていくのだ。希都も言っていた。生きていくというのは、そういうことだと。優空に囚われすぎないこと。新たな関係も築くこと。そうやって、乗り越えて、遺されても生きていく。生きているからつらい。生きているから痛い。優空を過去にするのが怖い。でも、そんな神経をかきむしる傷口を経て、前を向くことが大事なのだ。未来は容赦なくやってくる。
心寧ちゃんは、だいたい二十二時過ぎに何かしらメッセをくれる。僕が折り返して終わるときもあれば、何度かメッセが行き来することも、無論僕が連絡をもらったまま寝たりしてしまうこともある。そういうときは、僕のほうから朝か昼に何かメッセをしておく。そうしたら、また二十二時に心寧ちゃんからメッセが来る。そんなサイクルだった。
ときどき通話もした。そのときの話題によると、十月くらいに休暇をもらってこちらに遊びに来れるらしい。「何日か泊まっていくの?」と僕が問うと、『ネカフェというものに行ってみたいので』と心寧ちゃんは答えて、ちょっと笑ってしまった。さすがにこの部屋に泊めてあげるのは気が引けるし、そう言ってもらえると心が楽だった。
「ネカフェ以外に、行きたいところとかはある?」
『うーん、何があるのか分からなくて』
「買い物とかは」
『あ、してみたいです。こっち、買い物っていったらショッピングセンターぐらいだから』
「モールとか行けば、いろいろあって楽しいかな。そういうのあるの、僕の地元ではないけど、一応生活圏だし」
『真永さんの地元には何かないんですか?』
「ただの住宅街だよ。そばにあるのは公園くらい」
『そっかあ。ちょっと歩いてみたい気もしますけど』
「そっちみたいに、景色が綺麗とかもないよ。まあ、悪い町じゃないから住んでるんだけどね」
『じゃあそのうち』
「うん。せっかくこっち来るなら、まずは何かある場所のほうが楽しいよ」
心寧ちゃんとそんな会話を交わしながら、煮えるような空気がやわらぎはじめ、空は高くなって秋めいて、季節は急速にうつろっていった。
十月になったのもあっという間だった。心寧ちゃんは十月の最後の週、火水木の三日間にこちらに滞在することになった。十月の頭にそれを聞いていた僕は、火曜日と水曜日にオフを取った。さすがに三連休は取れなかったので、出迎えるのと見送るの、どちらがいいか心寧ちゃんに訊いたら、『じゃあ、最終日はひとりで歩きまわって帰ります』と言ってくれた。そして、十月は心寧ちゃんをどこに連れていくかを考えながら過ごし、二十七日の火曜日に待ち合わせた市街地の中の駅におもむいた。
約束しておいた十三時の南口改札の人混みの中に、心寧ちゃんのすがたはなく、スマホを確認したら『中央改札って間違ってますよね?』というひと言が来ていた。『今、中央改札にいるの?』と訊いてみると、すぐ既読がついて『みんなが流れていくほうについていっちゃいました……』と返ってくる。僕はひとりで少し咲ってしまって、『そっち行くから動かなくていいよ。』と送り、念のため案内板を確認して中央改札に向かった。
この駅は平日でもかなり混雑しているし、ホームやエスカレーターが入り組んでややこしいので、初めてなら迷って当たり前だ。急ぎ足の人たちが行き交う通路を抜けて、中央改札に出ると、わりあい大きな荷物を連れた心寧ちゃんはすぐ見つかった。
僕が声をかけると、心寧ちゃんははたとこちらを見て心底ほっとした顔になった。「すみません、何か」とこちらに歩み寄ってきて、「分かりにくい場所で待ち合わせてごめんね」と僕も謝った。心寧ちゃんは首を横に振り、「帰りはここまで来たら帰れるのは分かったので」と苦笑する。「そっか」と僕も咲い、まずは心寧ちゃんの荷物をロッカーに預け、ふたりで街を歩くことにした。
【第二十二章へ】