Blue hour-24

ブルーアワーの彼方

 年末にあの海の町に行かないかと希都が誘ってきたのは、十一月の中頃のことだった。僕たちは仕事帰りに落ち合って、久々に一緒に飲んでいた。僕は相変わらずレモンサワーで、希都はビールだ。一気に気候が冷えこんで、つまみはおでんばかりだった。
 あの海の町に行く。僕はちょっと考え、心寧ちゃんのことは本当にもう整理がついた話を繰り返そうとした。しかし希都は「それはよく分かってる」とさえぎり、「普通にいつものペンションのご主人と奥さんに誘われてるんだよ」と続けた。
「冬はそんなに客いないらしいけど、実は蟹がうまいらしい」
「蟹ですか」
「食い放題みたいに食えるらしいぜ。瑞奏も行きたいって言っててさ」
「僕も行っていいの?」
「いや、夏にお前が泊まらなかったから、冬には泊まりにこいって誘われたんだし」
「……そっか。挨拶もしなかったもんね」
「そこは客の勝手だけどな。やっぱ、優空ちゃんも来なくなってたし、あのふたりは心配してるんじゃないか」
「優空のこと、そろそろ話さないとね」
「うん。良くしてくれてたもんな、毎年」
 僕はこくりとしながら、柔らかな大根をひと口大にして、熱に気をつけながら頬張る。染みこんだだしがふわりと広がり、湯気が口元からこぼれる。
「まだ、心寧ちゃんって子に会いづらいか? それなら無理も言わないけど」
「それは別に。メッセは続いてるし、行くって伝えたら挨拶もできると思う」
「じゃ、年末に蟹食い放題しようぜ」
「うん──あ、でも、クリスマスは今年も優空の実家で過ごそうと思ってて」
「クリスマスは瑞奏さんがオフ取れるわけねえだろ。もっと年の瀬だよ」
「それなら普通に年末休暇に入ってると思う」
「よしっ。今年の締めは蟹フルコースだ。ちなみに、料金は常連割引だそうだから安心しろ」
「確かにそこ少し心配した」
 希都は笑って、おいしそうな色合いが染みこんだ煮たまごにかぶりつく。僕もレモンサワーで胃を発熱させつつ、次はほくほくしたじゃがいもを口に入れて、何だか年末はいそがしくなりそうだなと思った。
 希都だけでなく、聖空さんや梨苗ちゃんにも心寧ちゃんのことは話した。「本当によかったの?」と聖空さんは気にしてくれたけど、「心寧ちゃんを選べば、優空への気持ちが終わるってわけじゃないですから」と僕はきちんと答えた。すると聖空さんは一考して、「そうだね」と微笑んだ。「そんなスイッチみたいに切り替わらないよね」と。梨苗ちゃんも、「まだ真永くんが優空の近くにいてくれるなら、やっぱり、よかった」と言ってくれた。
 十二月になって、僕はついにスマホを機種変した。引き継ぎできないと思っていたものが、いつのまにかけっこうそのまま移行できるようになっていることが判明し、あんなに必死にスクショしたりキープしたりした優空のメッセも、新しいスマホで変わりなくアプリで読むことができた。優空のトークルームが存在しないまま、連絡先としてだけ残っているのはすごく寂しかったと思うから、それはとても嬉しかった。
 心寧ちゃんに年末にそちらに行くことを伝えたときには、『夏に、って言ってあのときお別れしたのに』と笑われてしまった。今でも哲基くんとよりは戻していないそうだけど、口喧嘩の前に落ち着いて話はするようになってきたそうだ。おにいさんの芳磨さんは、彼女さんといよいよ結婚することになったらしい。芳磨さんが三十歳になる来年、籍を入れて式も挙げるそうだ。リュカも相変わらず元気に看板犬をやっているという。
 今年はクリスマス当日は休みを取った。朝から優空の実家におもむき、ご両親と聖空さんと共に、優空の墓参りに行った。灰色の寒空の下、何となく墓石に触れるとびっくりするほど冷たくて、優空も最後はこんなに冷たかったのかなと思って泣きたくなった。
 怖くて、触れたら認めなくてはならなくて、亡くなった優空の肌に触れられなかった。それでも、触れておけばよかった気がする。その肌は柔らかくなかったかもしれないけど、確かに優空の感触だったのだ。
 墓掃除が終わると、聖空さんが大事そうに持ってきていた箱を取り出した。出てきたのは骨壺だった。「何だか離れたくなくてずっと家に閉じこめてたけど」とおかあさんが涙ぐみながら言う。
「ここでいつでも真永くんに会えるようにしてあげないとね」
 優空のそばにいた祖父母の骨壺はおとうさんが持ってきていて、墓石の中にみっつの骨壺が安置された。「優空は幸せだった」とおとうさんが噛みしめるようにつぶやく。
「こんなにいい人と巡り逢って、きっと……真永くんのために、最後はあんなに安らかな顔だったんだ」
 僕はおとうさんの横顔を見て、顔を伏せて瞳を滲ませた。僕のために。僕を想いながら、優空はこの世を旅立っていったのだろうか。だから苦しさもない、優しい顔で息を引き取れたのだろうか。だとしたら、僕も優空のために、優空を想いながら、前を向いて生きていきたい。
 昼から夕方にかけては、優空の実家でおとうさんと話しながらゆっくりさせてもらった。おかあさんと聖空さんは、キッチンでご馳走を作ってくれた。夜はそれを四人で食べて、優空の仏壇にもケーキとチキンが供えられた。そのあとは帰るつもりだったけど、三人が優空の部屋に泊まっていけばいいと言ってくれたので、その言葉に甘えさせてもらうことにした。優空の読んだ本、聴いた音楽、眠ったベッド、学んだつくえ──そういうものに囲まれて、ああ優空はこんな匂いだったなあなんて思った。
 つくえの上のノートPCはアダプターにつながっていて、開いてみると起動した。でも、やっぱりデスクトップに行く前にパスワードを要求される。それか、四桁のPINコードでもいいみたいだ。しかし、どちらの見当もない。たぶん三回間違えたらロックなのかなと思いつつ、コードで僕の誕生日を試してみたけど、案の定弾かれた。優空の誕生日はおそらく試されているだろうし、だとしたら──。
 しばらく考えこんだのち、あともう一度だけ、と優空と僕がつきあいはじめた日を入力してみた。あの海。マジックアワー。優空から僕に言ってくれた。「好き」という、魔法のような言葉──エンターキーを押した瞬間、僕は息を飲んだ。きらきらしたマジックアワーが終わりはじめ、静かに青くなりかけた空の画像がぱあっとPCに表示されたのだ。え、と動揺しているうちに、デスクトップが立ち上がった。「うそ」と思わずつぶやいてしまったけど──いや、実家にいた頃の優空が想いをつめこんでいたであろう箱が、確かにそこにひらかれている。
 そして、何だか咲ってしまった。優空はいつもマジックアワーを撮り損ねていた。たぶん、この画像もそうだろう。すごく綺麗な写真だけど、優空としてはマジックアワーがいっぱいに広がった写真を撮りたかったのだと思う。そして試しているうちに空が暗くなってきてしまった、そのときの写真だろう。けれど、ちょうど美しく、ブルーアワーへとうろつう瞬間を切り取っている。
 二年前のクリスマスイヴ、幸せで楽しくて、あれが僕のマジックアワーだった。次の日、優空は亡くなった。あのひどいクリスマスから僕の心は溶暗していき、ブルーアワーを経て、闇に覆われた。いつまでこの寒い、暗い、孤独な時間が続くのだろうと思った。もしかして、死ぬまで僕は夜に凍えているのではないかと思った。
 けれど、そんなことはない。確かに優空の不在を埋めてくれるような奇跡的な出逢いはなかった。たった二年じゃ、なかった。でも、十年後や二十年後は、分からないかもしれないと思える。空のブルーアワーは一瞬だけど、僕のブルーアワーは永い。いろんな人が僕の周りにはいて、堕ちたような暗闇の時間はなだらかに終わりはじめている。深い青の気配を感じている。これから僕は、永い永い青い時間を過ごし、やがて朝を迎えるのだ。
 朝を呼ぶ魔法が、何なのかは分からない。誰かとの出逢い。熱中できる何か。あるいは、僕自身の命をまっとうした死なのかもしれない。それでもいい。朝は来る。魔法は必ず僕に光を与える。ブルーアワーから、また、あの美しいマジックアワーへ。
 どきどきした心臓が落ち着いてきたので、躊躇いながらも優空のPCを覗きはじめた。ブックマークとかメールとか、プライベートを覗き見るのはさすがに気が引けたし、特に興味もかきたてられなかった。ただ、これで優空の書いた小説を読むことができるのだ。それも優空にとっては見られたくないものなのかもしれないけど、僕は優空が紡いだ景色を見てみたい。
 ライブラリを彷徨っていると、『小説』とだけあるフォルダを見つけた。クリックする。すると、思いがけないほどたくさん、作品タイトルらしき名前がついたファイルが並んでいた。何だかすごくわくわくする。僕の知らない優空の瞳が見つめた光景が、そこにつまっている。
 ふうっと深呼吸すると、心を決めて、一番上のファイルをかちっと展開した。Wordが起動開始する。
 優空。一緒にあの空を見たみたいに、君が目を凝らした物語を、僕も今から大切に見るよ。どうか怒らずに、はにかむくらいで勘弁して。
 白い画面に、ざあっと文字が表示される。僕はおそるおそるそれを目でたどっていく。カーテンの隙間で、窓の向こうはまだ濃い夜空だ。だけど、夜明けが来るまで読んじゃうかな──そう小さく苦笑して、心から愛した人が綴った視線に、僕は優しく視線を重ねはじめた。

 FIN

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