風切り羽-36

再び、1004号室【2】

 午前中はそうやって過ごした。のぼった太陽に陽射しの角度も変わり、床に転がる時計は十二時をまわる。昼ごはんどうしよう、とお腹をさすったとき、突如、ごとっと音がした。
 悠紗と共に振り返ると、クローゼットの扉がのろのろと開いていた。その隙間に、タオルをかぶった人がのっそり出てくる。
 タオルが陰になって顔は窺えずとも、床を這った細く華奢な手で梨羽さんだと分かった。タオルの中でしばらくもそもそとやった梨羽さんは、それをむしりとると、寝起きかしらぬ無表情でこちらを見た。
 僕が畏縮する横で、「おはよ」と冷静に悠紗は言った。梨羽さんは悠紗を凝視し、かすかにうなずく。悠紗がゲームに戻ると僕を見つめてきて、でも僕は何にも言えずに軽く頭を下げる。梨羽さんは、何の反応もよこさず目をそらした。
 放られているいくつもの旅行かばんをあさり、服とタオルを選び出す。それとヘッドホンの垂れたあのリュックを抱くと、ふらつき気味に立ち上がって、奥の引き戸に消えていった。
 僕は思わず息を吐き、心臓の緊張を認める。
 変な感じだった。嫌がっているとか敵意とか、沙霧さんが向けてきたようなものはなかった。といって、許容しているふうもなく、だが黙殺でもない。どれなのか分からなかった。
 僕のとまどいを見取ったのか、「平気だよ」と悠紗が顔を仰がせてくる。
「梨羽くんは誰にでもああなの」
「そう、なの」
「うん。怖がらなくていいよ」
「嫌われてないかな」
「大丈夫だよ。好きかも分かんないけど。初めて会った人と、仲良くできない人いるでしょ。梨羽くんはそれが大っきいんだ」
 梨羽さんについての知識がない僕は、首肯のほかない。確かに、嫌われてるのでは、とは僕も感じなかった。
「ほかのみんなも、萌梨くんと仲良くしてるじゃない。紫苑くんはしゃべらなくても、睨んでなかったし。梨羽くんが嫌だって思ったら、要くんと葉月くんが代わりに向こうにやるんだ。間違って触ってきたら、紫苑くんがそばで守るの。そういうの、みんなしなかったし」
 進む画面を観て、悠紗の言葉を咀嚼した。
 要さんと葉月さんが外敵を防ぎ、紫苑さんが外敵から守る、といった感じだろうか。さながら梨羽さんはお姫様だ。手厚いなあ、というより、根本的な話、あの四人にそんな連帯感があるのだろうか。
「ねえ、悠紗」
「んー」
「この四人って、仲いいのかな」
「えー。さあねえ」
「悠紗は仲いいと思う?」
「要くんと葉月くんはね」
 そこは、僕も同感だった。が、ほかにはつながりを見出せない。しかし四人は、おそらく脱退も加入もなしに何年もバンドをしている。部外者が一見したのでは分からない、機微な鎖は存在しているのだろう。
 梨羽さんが戻ってくる前に、紫苑さんが起きた。僕には嫌がるでも喜ぶでもない瞳をして、「おはよう」と言った悠紗には梨羽さん同様うなずく。ぬかりなくギターを引き寄せてから、からっぽのクローゼットと、要さんと葉月さんがぐっすりしているのをちらりとする。小さい吐息が聞こえた。
 次は葉月さんかなあ、と予測していたら案の定だった。いきなりむくっと上体を起こすという、こちらをどきっとさせる起床だった。そのあと肩の力を抜いて、あくびをしながら目をこする。
 悠紗が声をかけるときょろきょろして、発見すると笑みになった。僕にもにっとしてきて、歓迎してくれているようだ。頭をかいて部屋を見まわすと、「うちの女王様は」と訊いてくる。
「お風呂行ってるよ」
「っそ。俺もシャワー浴びたいな。紫苑、俺が先な。決まり、残念でした」
 笑う葉月さんを、紫苑さんは無言で見つめる。葉月さんは意に介さず背伸びをして、「ん」と頬に触った。
「何かついてる。ひげか。違う。あ」
 葉月さんは、顔を埋めていた雑誌に気づき、それをつまみあげる。
「やだなあ。あそこに顔うずめて寝ちゃった」
「あそこってー」
 悠紗がすかさず質問する。葉月さんは、雑誌を放るとふっと笑う。
「君がぶらさげてるもんに不気味な変化が起こったら、それの使用法その他も含め、懇切に教えてあげます」
「ぶきみ」
「聖樹じゃ無理だもんなー。あいつうぶだし。悠を作ったのが驚異ですわ」
 葉月さんは愉しげに笑って、悠紗はぽかんとする。何だかなあ、と僕もあきれていると、突然要さんの長い脚が動いて、葉月さんの腰を蹴った。
「痛っ」
「朝からガキに変な話すんな」
 要さんだ。タオルにこもったその声は不機嫌で、どうやら寝足りないらしい。
「もう昼だよ」
「そういう問題じゃねえの」
「じゃあ何」
「夜にしろ」
「そっちこそ、そういう問題じゃないじゃん」
「今は俺が寝てるんだよ。うるせえだろ」
「けっ、自己中。熟睡してないそっちが悪いのさ」
 要さんは再度葉月さんを蹴たくると、タオルに顔を埋め直した。
「こいつ、たまに説教臭いんだよな」と葉月さんが言っていると、梨羽さんが帰ってくる。髪を濡らしてヘッドホンを首にかけ、服装も変わっている。
 葉月さんは梨羽さんにシャワーを使えるか問い、うなずかれると立ち上がった。腰を抑え、「渾身で蹴りやがって」とぶつぶしている。かばんに収められた着替えやタオルを引き出すと、要さんには腰に蹴り、紫苑さんには「お先」と残し、たたずむ梨羽さんにはすれちがいざまに肩を軽くたたいて、葉月さんはバスルームに行ってしまった。
 引き戸が閉まると、梨羽さんは僕の背後を通って、コンポのそばに行く。接近したとき、石鹸の匂いがした。梨羽さんはこちらに背を向けて座りこむ。
 けっこう近さがあって、どきどきした。梨羽さんが開けた引き出しには、何十枚もCDが敷きつめられている。見たところ全部アルバムだ。何枚かを選びぬくと、梨羽さんはヘッドホンを装着してそれを聴き始める。
 ロック、だと思う。こちらにも強い音がもれてきている。XENONの音を思い出したけど、梨羽さんは自分の歌をそんなふうには聴かない気がした。
 悠紗はゲームにキリをつけ、データセーブをする。「しないの」と訊くと、「勉強見てもらうの」と返ってきた。そうだ、この四人は悠紗の音楽の先生でもあった。
「萌梨くん、ゲームする?」
「え、ううん」
「そお。葉月くんするかな。ま、いっか。するんだったらつけるよね」
 セーブが終わると悠紗は電源を切り、テレビも消した。
 ゲームのBGMがなくなり、部屋は急にしんとなる。朝陽と比すと落ちた陽射しの中、梨羽さんのヘッドホンのしゃかしゃかという音がやたら響く。その合間に、やっぱり爆睡の要さんの寝息が重なる。
 どのへんからここに帰ってきたのか定かではなくても、二、三時間で移動できる場所ではないのは確かだ。そのあいだ、要さんはひとりで運転していた。車の運転がどういう感じか、僕にはつかめなくも、何時間もやって軆が軽くなるものではないと思う。ほかの三人に較べて疲れは重いだろうし、そこを考えると爆睡にも理解がいった。
 悠紗は置いていたリュックにカードをしまい、「お腹すいたね」と言う。僕もうなずき、空腹を覚えていたのを思い出す。
 転がる時計は、十三時に届きそうだ。普段なら食器を洗っている。
「ここに来て、いつもはどうしてたの」
「いつもはねえ、ピザとか頼んでたよ。コンビニでお弁当買ってきたり。あ、今日は帰ってきたばっかなんで、何か荷物にあるかな。探しちゃえ」
「え、いいの」
「いいの。ね、紫苑くん」
 紫苑さんはこちらを瞥視し、ひとつのかばんを短く顎でしゃくった。僕には何を意味するのか分からなかったものの、悠紗は解して立ち上がる。
 要さんを飛びまたいで、そのかばんのところに行くと、悠紗はファスナーを開ける。すると、目を輝かせた。
「お菓子だ。萌梨くん、お菓子だよ。どれがいい?」
「お菓子でいいの?」
 言いつつ、僕は要さんをよけて悠紗のそばに行く。
「要くんか葉月くんが、あとでごはん用意してくれるし」
「そっか」
 僕までおごってもらっていいのかなあと思っても、まあそこまで細かい四人ではないような気もする。
「どれがいい? あ、チョコレート。これはダメだよ」
「え、どうして」
「梨羽くんが好きなの」
 悠紗はかばんをあさって、床にポップコーンやクッキーを羅列していく。チョコレートは離れたところに置かれた。悠紗はポテトチップスを、僕はポップコーンをもらった。散らかしたお菓子を片づけると、悠紗はその場で封を開ける。僕もそうして、悠紗とたまに替えっこしながらお菓子を間食した。

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