Koromo Tsukinoha Novels
「ひとりなの?」
君がそう声をかけてきたのは、高校三年生の夏休み、勇気を出して行ってみたクラブイベントでだった。
僕は自分のことを誰にも打ち明けられず、ここなら誰かと話せるかもしれないと思ってやってきた。確かに、軽薄に会話が発生している。けれど、やっぱりそういうのはこの雰囲気に慣れた人同士だ。大音量の音楽も、それに合わせて踊るのも、何だか気まずくて乗れない。
だったら帰ればいいのだけど、入場料を三千円も出したのに、三十分もせずに帰るのも癪だ。とりあえず、ドリンク代は回収しないと──そう思って、結局ひとりカウンターで烏龍茶を舐めるハメになっていると、君が声をかけてくれた。
「え……あ、うん」
僕はグラスから顔を上げて、暗目に君の小柄でかわいらしい印象の容姿を認めた。君も僕を眺めてから、「そっか」とにっこりして隣のスツールに腰を下ろす。
「あんまり、こういうとこ慣れてない?」
「ん、まあ。分かる、かな」
「何となくね。俺も初めはそんなだったし」
僕は君を見つめた。君も大きな瞳で僕を見て、「すぐ慣れるよ」と微笑んだ。
「また来るか分かんないな」
「そうなの? こういうとこでも来ないと、出逢いないんじゃない?」
「まあ、そうだけど」
「俺でよければ、相手しようか」
「えっ」
「俺とは話せてるじゃん」
「あ──うん、まあ」
「よし。じゃあ、場所変える?」
思いがけない運びにおろおろすると、君はくすっと笑みを噛んだ。そして、僕の手に手を重ねる。熱い指先が手の甲に響く。どきどきしてまごついていると、「ほら」と君は僕を引っ張って、スツールを降りる。吸い寄せられるように、僕はそれについていっていた。
君と手をつないで、騒がしいクラブを抜け出した。急な階段で地下から地上に出ると、あたりのバーやライヴハウスからネオンが夜空に伸びている。道端の暗がりでは、たぶん知り合ったばかりのふたりが身を寄せ合っている。
蒸し暑い夜だった。「ホテル行く?」と言った君に、こういう機会に慣れていない僕はぎこちなくうなずいて、早くも汗をかく手を握り直す。
「あ、かわいい」
ホテル街へと歩いていた君は、ふとそう言って、僕の手を引いた。
異国人が開く、お香のような匂いがする露店があった。シルバーアクセサリーが並んでいる。僕も君の隣にしゃがみこんだ。店主の異国人は、ほかの客と話している。
「すげー。こういうの好き?」
「うん、けっこう」
「そっか。俺も好き」
「あ、これ綺麗だね」
「ん? あ、ほんとだ」
僕にしめされて君が手にしたのは、小さな蝶のピアスだった。銀色の蝶は、イルミネーションを反射してきらめく。
「でも俺、ピアス開けてないしなー」
「そうなんだ。開ければいいのに」
「ピアスって痛そう」
「そんなことないよ。僕は耳に開けてるよ」
君は首をかしげて僕の耳元を覗きこみ、「ほんとだ」と耳たぶに触れた。その微熱に、心臓が跳ねる。「これも似合うよ」と君はその蝶のピアスを僕の耳たぶに重ねた。
「そうかな」
「うん。買ってあげようか」
「えっ」
「買ってあげる。──ねえねえ、これちょうだい」
店主はこちらを向き、ありがとうを片言に言いながら、君がさしだしたお金を受け取った。遠慮するヒマもなかった。君はピアスを僕のポケットに入れて、「行こ」と立ち上がる。
僕は引っ張られながら君に並び、適当な値段のホテルに入った。
一緒にシャワーを浴びた。お互い、すでに昂ぶっていた。それを愛撫しながら、手を泡立てて軆を洗い合う。でも、ベッドまで我慢した。
シーツに倒れこむとキスを交わして、肌を唇でたどる。君は僕を口に含み、僕は君を手でこすった。やがて、僕が君に分け入る。呼吸に喘ぎを混ぜて、深くまで交わった。
それが、僕の初めてのセックスだった。終わってもほてる軆でベッドに横たわると、君は僕のピアスをさしかえた。
「高校生ぐらい?」
「うん。三年」
「受験生?」
「一応。君は?」
「俺は大学生」
「大学って楽しい?」
「レポートで死にそう」
「はは」
「でもまあ、自由かなあ」
「自由」
「ひとり暮らしできてるし」
「そうなんだ」
「俺は両親に分かってもらえてないからさ」
「ゲイってこと?」
「うん」
「カムしてるんだ」
「うん。君はしてない?」
「してないけど、ばれてるんじゃないかな」
「理解あるんだ」
「確かめてこないから、認めたくないのかも」
「そんなもんだよね」
「うん」
「クラブとか通ってると、ゲイくらい普通じゃんって思ってくるけど。そんなわけないんだよなあ」
君は僕の髪を撫でながらため息をついた。僕は耳たぶに触れた。「やっぱり、似合ってる」と君は咲った。
僕にそんなふうに咲いかけた人は、君が初めてだったような気がする。
ひと晩だけの相手だった。きっともう会えない。なのに、君は心に焼きついて、僕は蝶のピアスを外せずにいつも身に着けていた。
やがて受験を越え、大学生になった。ひとり暮らしを始める資金のために、喫茶店でバイトを始めた。そこで僕は、君がほかの男とお茶しているのを見かけた。
仕事中だから、こちらから声はかけられない。君が僕に気づくのを祈ったけど、君は僕に気づきもしなかった。その男と睦まじそうに店を出ていった。
『ひとりなの?』
そう、ずっと僕はひとりだった。物心ついたときから、なぜか異性より同性に惹かれる自分にとまどい、持て余していた。
誰にも相談できない。相談したら、きっとその相手を失ってしまう。それで家族すら信頼できなかった。
あの夏休みの夜、君が初めて僕を知った上で咲いかけてくれた。
それがすべてになるほど、君とのあの夜は僕を支えてくれていたのに──
それから間もない日、僕は君が刺してくれた蝶のピアスを片耳だけ失くした。ずいぶん探したけど、見つからなかった。バイトの休憩中、コーヒーを飲みながらもうひとつの蝶のピアスを外した。深い意味もなくコーヒーの中にピアスを落とすと、わずかに雫を上げ、銀色の光はすぐ黒に沈んでしまった。
君とのあの夜も、それと同じだった。咲って、話して、分かってくれた君だけが僕のすべてだったのに。僕を連れ出したその光は、闇に飲まれ、消えてしまった。
そうして心に宿っていた君がいなくなり、僕はまた、ひとりぼっちに戻る。
FIN