野生の風色-48

力になれるなら

 夏休みが始まり、遥はいっさい帰ってこないことはなくも、しょっちゅうどこかにふらつきにいっていた。
 しかって自殺未遂をされた両親は、もう厳しくしかる勇気はないようだ。僕は遥と接する機会が来るのはあきらめ、放っておこうと決めていた。
 僕が関わるだけ、遥が傷つくのは事実なのだ。僕は遥が嫌いなわけではないし、いちいち傷つけようとは思わない。放っておくのだって、別の意味で傷つけるのだろうが、何かしての傷よりマシだ。そもそも、顔を合わせないので、放っておくほかない。
 クーラーで神経をなだめて、かじるように宿題をやりながら、僕は家でたるんだり、希摘の家に行ったり、駅前に空の本を買いにいったりしていた。
 新しい本は、しばらくつくえに置いて、ヒマがあればめくっていた。八月に入った日、増えたコレクションとしてキャスターつき本棚に並べた。幼い頃から、ゲームや漫画へつぎこむ小遣いを縫って買い集め、空の本は数十冊にのぼっている。やっぱ空の仕事がいいよなあ、と本棚をクローゼットとつくえのあいだにしまいかけた僕は、下段のコレクションではない本を見てふと手を止める。
 漫画はここでなく、テレビの脇の本棚に並んでいる。ここにある本は、小説やサブカルチャー本だ。漫画研究本、ノンフィクション、今のところ十八禁はない。僕には好きな小説家なんていなくて、小説の大半は、映画の原作や漫画やゲームの小説化だ。ゆいいつそうではないのが、真織さんの本で、僕はしゃがみこんでそれを手に取る。
 処女作のハードカバーと、賞で終わらず生き残った二冊目のソフトカバー、まだこの二冊だけだ。二冊目の表紙は、希摘が描いている。真織さんが希摘に描いてほしいと頼んだのだそうだ。希摘は初め嫌がったが、水彩色鉛筆セットで手を打った。僕はそのソフトカバーを手にする。
 厚さ二センチぐらいのこの本は、短編集だ。表題作は、イジメられて妄想世界に堕ちこみ、最終的に報われない孤独に飲みこまれる少年の話だ。表紙は絵の具やクレヨンや色鉛筆、希摘が持つ画材の“黒”をぶつけるように混ぜたもので、そこに金の箔押しで題名と真織さんの名前がある。
『光のない場所 月城真織』
 僕は本棚をしまい、冷風が吹くベッドにうつぶせになると、その本をめくった。

  僕は寂しいのだろうか? 誰かにいてほしいのだろうか?
  誰かって誰だろう。自分以外のすべての人間は敵だ。
  分かっているのに、どうして、僕はそれでもこんなに寂しいのだろう。
  翌日は、病院に行く日だった。細身のナイフみたいな、医者の鋭い質問を思うと、僕の心は鎧を着たように重く暗くなる。
  体調が悪いふりで、何とか中止にこぎつけようとした。しかし、母はぐずぐずする僕にいらだつだけだ。
  仕方なく、鎧の代わりに黒いコートを着て、真夏の焼けつく太陽の元に出た。
  医者が僕の腐った心を癒やせるわけがない。彼ができることは、せいぜい腐敗を進めて、僕の胸を空洞にしてしまうことだ。
  空洞になれば、片づくこともある。どろどろの膿。ひどい腐臭。だけど、僕の心に必要なのは、空洞ではないのだ。
  僕に必要なのは「誰か」だ。専門家に僕を押しつけるでも、この痛みを症候群とかに定義づけるでもない、「誰か」。
  病院に来るたくさんの人間と並行して、僕を処理しているだけの医者には心を開きたくない。
  僕が欲しいのは、僕しか僕じゃないことを尊重してくれる人だ。
  でも、そんな人が絶対にいないのも、僕は知っている。

 真織さんは、元精神科医なのに、医者を批判する人物をたまに登場させる。元精神科医だから、だろうか。
 にしても、これはけっこう遥の心臓を突いているかもしれない。遥もそうなのだろうか。それで医者なんか嫌いで、医者に自分を押しつける僕たちも嫌いで、「誰か」を探して非行しているのか──そんな人が見つかれば、遥の心は癒されるのだろうか。
 本来なら、僕たちがなるべきだった。ここに来た三月の時点で、まったく遥にその期待がなかったとは言い切れない。少しはここに来れば、損なわれた過去をどうかできるかと思っていたと思う。
 僕たちはそれを裏切り、何もしなかった。むしろ、絶望を深めさせた。遥はこの主人公のように、自分には誰もいないとは思いこみたくなくて、非行に走っているのだろうか。
 本をぱらぱらめくる。親に投げうたれて育った高校生の少年が、自分を想う女の子に出逢って、救われる話も収録されている。
 初め、主人公は女の子を拒絶している。あることないこと言いまくって、どうにか自分から遠ざけようとする。惹かれて信じてしまうのが怖いのだ。
 それでも、女の子は主人公の闇に無鉄砲なぐらいに立ち向かおうとする。

 「何で、俺なんかをそこまで想うんだ。そこまで想えるなら、ほかにお前を好きだって奴いるよ」
 「ほかの人に好かれたって、あたしが好きじゃないと意味ない。あたしが好きなのは、君なんだよ」
  彼女は俺の手を取った。言葉は熱っぽいくせに、その手は真冬の凍てつく空気より冷たかった。俺はつい、その手を握って温めてやりたくなって、ぞんざいに振りはらう。
 「ほっといてくれよ。俺は、……親にも愛してもらえなかった奴なんだ。何でそんな人間を好きになれるんだよ」
 「あたしは君の親とは違う」
 「うるせえなっ。同情なんか迷惑なんだよ」
 「同情じゃないよ。ねえ、それなら、君にはあたし以外に誰かいるの?」
 「は……?」
 「君がこれ以上ひとりでいることが、あたしは怖い」
 「………」
 「あたしなんかいなくても、君には好きな人がいるなら、……あきらめるよ」
 「そんなの、」
 「君に想ってる人がいるなら、それでいいんだ。でも……誰もいないなら、ひとりを選ぼうとしてるなら、あたしは君をあきらめない」
  俺は彼女を見つめた。彼女の瞳は、いつも通り真剣だった。誰も信じられなかった俺には、その真摯さは痛いほどだ。
  彼女は、白い息と共に、俺に訊いた。
 「あたしじゃなくてもいい。君に、大切な人はいる?」

 主人公は答えない。突っぱねることもしない。女の子を抱きしめもしない。
 ただ、雪がうっすら積もった地面に涙をこぼす。女の子がその頬に冷たい指を這わせると、やっと彼は、彼女を腕の中に受け入れる。
 僕は本を閉じて、仰向けになった。エアコンの冷たい息が顔にかかる。
 遥には誰かいるだろうか。今はいない。グレた先で見つけていたら、きっと家になんか帰ってこない。
 今、遥に真剣に取り組む立場にある人がいるだろうか。いや、医者ぐらいだ。しかし、遥は医者を嫌悪している。ならば、あとは僕たちしか、遥にさしのべる手は持っていない。僕は日中の日射しに明るい天井を睨み、ほっとくのはまずいのかなと決心を揺らす。
 もはや遥は、僕たちも嫌悪していると言っていい。が、遥が嫌悪しているからと言って、こちらも投げ捨てるのなら、何も始まらなくて当たり前なのかもしれない。この女の子みたいに、痛みにめげずにつきあう人間が、遥の「誰か」だろう。
 希摘は、接さなくては何も始まらないと言った。僕も元はそう思っていた。やはりというか、しょせんというか、そうなのだろうか。放っておいたって、速度が婉曲になるだけで、遥の心が腐敗するのは変わりない。
 同じ腐敗なら、遠まわしよりも、一気にさせるほうが残酷ではないのかもしれない。僕は冷風に目を細めて、「何かできるのかなあ」と蝉の声に押しつぶされそうなほど小さく独白した。

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