野生の風色-50

これが兄弟

 そうして、遥は八月いっぱい入院することになった。僕の家は一年前のかたちになり、それで誰かひとりでも“戻った”と感じたのなら、もう遥はここには来ない何よりもの証拠となるはずだった。
「──暗ーいですねえ」
「ですねえ」
「ここで死なないでね」
「迷惑?」
「悠芽の死体、見るの怖いもん」
 希摘のベッドにうつぶせる僕は、まくらに伏せていた顔を横に向けた。希摘は床に座り、例の新しいゲームをやっている。
 外は昼下がりを過ぎてもまばゆい太陽に、今日はよく晴れていた。ゲーム内の荒城に響く不気味なBGMに、僕は辛気臭いため息を重ねる。まくらに顔をうずめなおすと、後頭部をエアコンの冷風が撫でていった。胸にぐずつく悪い靄に虚脱する。
 八月に入って十日目、僕は昨日の夕方から希摘の家に泊まっていた。
 そろそろ僕の精神も限界だった。遥に出会って五ヵ月、たっぷり息を抜けたことがない。とにかくゆっくりしたかった。
 今は遥は入院中で、家にはいないのだけど、とにかく“家庭”を離れた場所に身を置きたかった。盆の帰省のため十二日には帰ってくるよう言われ、親の承諾をもらうと、僕は希摘に連絡して、月城家に二泊三日の外泊をすることにした。
 夕立の名残に蒸していた昨日の夜、僕は遥とのひと騒動を希摘には話している。ベッドサイドに腰かけ、僕はバニラアイスを、希摘はチョコアイスのバーをかじっていた。
「ほんとに薬してたんだねえ」と希摘はチョコ味をかじっているのに渋い顔をして、僕はバニラの甘さも届かない疲れにどっと老けている。
「もうやだ。やっぱほっときゃよかったんだ」
「別に、間違ったこと言ったんじゃないんだろ」
「無責任だった。口だけだよ。そんなもん、確かに遥の勝手だよ」
「悠芽が言ったこと、正しくはあると思うよ。精神弱いだろうし、薬にも飲まれるだろうし、イカれるだけだし。正しいこと言われて腹立ったんじゃないの?」
「………、けど、遥だって間違ってなかった。遥だって正しいよ。僕は遥のことなんて分かんないし、分かりもできないくせに、えらそうに薬を止めてさ。僕より薬が賢いんだよ」
「問題発言ですよ。それはありません」
「遥にはそうなんだよ」
「じゃ、遥くんはドラッグ以下のバカだね」
 僕と希摘は顔を合わせた。希摘は僕の目を見ながらアイスをかじり、舌に溶かして飲みこむ。僕はうなだれて、ぼんやりとバニラを舐めた。クーラーが効いているので、急いで胃にやる必要はない。
「遥は、僕に癒されるぐらいなら、薬で死んだほうがいいって言ってた」
「アホとしか言いようがありませんね」
 外から聞こえてくる虫の声を残し、僕は希摘を見た。希摘は無頓着にアイスをかじっている。
「自殺も止めなきゃよかったんだ」
「かもね」
「何ででしゃばっちゃうんだろ。ちょっとは期待してたのかな、遥がこの痕は薬じゃないって否定するのを」
「ほっとけなかったんじゃない?」
「何で」
「家族だから」
 僕はアイスをかじった。きんと来る冷たさにわずかに頭が痛み、バニラ味を口内の熱に蕩かすと飲みこむ。
 家族。僕は遥をそんなふうに想っているのか。
「家族というか、家族面しちゃったのかな」
「家族面なら、もっと安全策取るよ」
「安全策」
「大人にチクったりね。生徒が教師にチクって、正義と権力を味方につけるみたいに」
「希摘ってさ、僕の親友だよね」
「うん」
「少し、僕をかばって意見してない?」
「してない」
「ほんとに」
「ひどいわ、疑うなんて」
 希摘は泣き真似をして、溶けたアイスが指に流れそうになったので、慌てて舐めた。茶化したものの、僕の発言は彼をけっこう傷つけたのが何となく空気から伝わってきた。「ごめん」と恐縮して窺うと、希摘は僕をちらりとして、息をついた。
「そういうふうに聞こえる?」
「僕が遥に関して自信ないんだ。ごめん。希摘が悪いんじゃないよ」
「俺の意見を丸呑みすんのもどうかと思うよ。俺は遥くんを直接知らないし」
「でも、意見欲しいよ。せめて聞いて。希摘にしか、こんなん相談できない」
 希摘は僕を見つめた。「ほんとに」と念を押すと、希摘は満足げな笑みを見せてアイスを食べた。
「遥くん、入院するんだな」
「うん。カウンセリング三昧じゃない?」
「帰ってくると思う?」
「どうだろ。医者には、遥をここにやって失敗したって感じもあった。非行に薬だよ」
「まあね。そういや、責められなかった?」
「口調はきつかった。とうさんたちは、こうも自分たちが無力と思わなかったって、へこんでるよ」
「そもそも悠芽の親って、遥くんに何かした? 悠芽みたいに」
「………、別に。しかったか。それぐらい。あとは医者呼ぶばっか」
「じゃ、無力だってことを測る資格もないじゃん。悠芽は自分を無力だと思うなら、思っていいほどやったと思う。俺は」
 僕は希摘を肘で突いた。希摘は笑い、「まあね」とその笑みをきまじめな瞳に切り替える。
「遥くんが言ったのも、わがままだとは切り捨てられないよな。いくらかは本音だと思う」
「……うん」
「いつ殺されてもおかしくなかったんだ。薬に飲みこんでほしい苦痛もあるだろうし、堕ちていくのは捨て身になりゃ怖いもんなし。癒されるのは、腐るより大変だよ。遥くんは怖いのかもしれない」
「怖い」
「悠芽のいろんな言動がね。それで癒されることになって、いろんな変化を乗りこえなきゃいけないのが、怖い」
 それはありえそうだ。遥を理解していると思い上がるわけではなくも、僕は彼を回復へと向かわせようとはしている。もしかすると、遥は治療に内含される痛みが怖いのかもしれない。
「精神的な苦痛って、気分悪いけど依存できるもんなんだよ。俺だってたまに思うんだよ。人づきあい不全をどうにかして、社会復帰すべきかなとか。家にずっと閉じこもってて、いつもちっとも寂しくないってのはない」
「そなの」
「そうなの。それでも、人とつきあえるようになるにはいっぱい試練がある。それ思うと、今のままでいいかってなる。ていうか、今の生活、考えて選んで、やってんだしね。寂しくなると、その決意を忘れそうになるわけ」
「誰かがそばにいるあったかさより、ひとりぼっちの寒さを教えたほうが、遥を回復に向けられるのかな」
「かもね。荒治療だけど」
 希摘は棒が現れてきたアイスの面積を減らし、僕もアイスを喉に流しこんでいく。
 その夜、僕は希摘の部屋にふとんを敷いて眠った。希摘は僕の軆を気遣ってクーラーをかけずにいてくれて、今朝、僕たちは起床後には入れ違いでシャワーを浴びた。
 朝食を食べたり、ゲーム対戦したり、昼まで過ごすと、昼食後は僕は持ってきた宿題をやり、希摘はゲームをする。そして宿題に飽きた僕は、希摘のベッドで休み、こうして遥の憂慮にも襲われて死体じみているわけだ。
「うわっ、何こいつ。戦闘? 嘘だろっ。セーブポイントなしにイベントなんて殺生なっ」
 転調した旋律と希摘の雑言の先で、早い雨音がする。のっそり顔を上げると、窓の向こうが急に曇って雨が降っていた。夕立だ、と思っていたら、かっと色が抜けるように空が光り、不機嫌な唸り声が続く。それで希摘も窓を振りむき、「雨だ」とつぶやいた。
「やだねえ。カミナリ好き?」
「そんな嫌いでもないかな」
「マジで? 俺はカミナリやだなー。普通にビビるもん」
「あ、光った」
 希摘はコントローラーをおいて耳をふさいだ。しかし、まだ遠雷で、あの大木をたたき割るような音はしない。
 僕の持つ空の本には、カミナリの写真集もある。稲妻が亀裂のごとく走る空や、あの一瞬間の光に浮かびあがった光景や、希摘がぶつぶつしている大きな音がなければ、カミナリも綺麗なものだと思う。
「セーブポイント見落としたのかなあ」とコントローラーを持ち直した希摘は、本気で悔しそうに突如現れたらしい敵と戦う。
「何そいつ?」
「分かんない。いきなり出てきて、突っかかってきた」
「人間?」
「たぶん。くそーっ、何か強いなっ。何だよこいつ。ちきしょう、どうせ死ぬなら死ぬ気でやってやるっ」
 仮想世界ならではの心意気だ。希摘はスキルやMPを消費しまくり、謎の男と戦う。ぎりぎりまで追いこんだものの、主人公一行もHPが半端だったので死にそうだ。
 すると、突然男は構えていた剣をしまい、戦闘画面が通常画面に切り替わった。希摘は怪訝そうに現れた台詞を読む。
「“すみません、力試しをさせてもらいました”。“あなた方なら、この城とご主人様を救えるはず”」
「どゆこと?」
「この城の主だった奴が、敵に乗り移られてどうこうみたいな──おっ、こいつここにいて、いつも回復してくれるらしい。いい奴じゃん」
「すごい寝返りだね」
「ねえ。これが実生活でもできたら学校も行けるのに」
 希摘はその男によってパーティを全回復させ、先にあったセーブもした。ゲームを横で見ているのは、自分もやりたくなるので、なかなか退屈だ。希摘が飽きたら僕も何かしよ、とベッドでうだうだしていると、不意にドアフォンが鳴った。
「誰か来たね」
「誰だろ。回覧板か」
「回覧板、ちゃんと手渡しするんだ?」
「君んち、しないの?」
「郵便受けに入れとく」
「宅配便かもなー。俺こないだ、通販で服買ったし」
「トラック停まる音した?」
「さあ。かあさん出かけてたよな。ちょっと見てくるか」
 希摘はコントローラーを置いて立ち上がり、僕も手足に力を流して起き上がった。CDロムのケースをよけて床に飛び降り、ドアノブを下ろす希摘に続く。
 蒸した廊下には、夕立の轟音がして、雨の匂いと雨が立ちのぼらせる土の匂いがした。風通しに階段の脇の窓が開けられているせいだろう。
「他人だったらどうしよ」と階段の手すりで怖がる希摘に、「僕が見てこようか」と言っていると、どさっと何やら玄関で物音がした。
「もうっ、何でいきなり降り出すのよっ。びしょ濡れじゃない。誰かいないのー?」
 手すりに前膊を預ける僕と希摘は、変わらない背丈で見合った。
「あの声──」
「姉貴だ」
結華ゆいかさん」
「そっか、姉貴なら鍵持ってるな。また健司けんじさんと喧嘩か」
「行こ」と希摘は階段に足を踏み出し、僕はついていく。
 真織さんのほかに、希摘には結華さんという八歳離れた姉もいる。結華さんは今年二十二歳で、はたちのときに出逢った男の人と去年結婚した。真織さんはおっとりして、希摘は悪戯っぽくて、あいだに挟まった、結華さんは何というか──飛んでいる。
 玄関を覗くと、まともに夕立を受けた結華さんがいた。肩に届くしっとりしたストレートはびっしょりで、黒いタンクトップとデニムのカプリパンツは軆にまといついて、色を重くしている。ボストンバッグの水滴をはらっていた結華さんは、僕たちの足音に顔を上げた。
「希摘じゃん。何してんの?」
「何してんのって、ここ俺の家だよ」
「あんたが『俺』っていうの、まだ聞き慣れないわ」
 結華さんは濡れた髪を後ろにはね、「かあさんは」と焼けた肌にはりついた服を剥がす。
「昼に出かけた」
「そっ。あたし、しばらくこっちに泊まるわね」
「また喧嘩?」
「うるさいわねっ。ガキが夫婦の問題に口突っ込むんじゃないわよ」
 結華さんの顔立ちは、希摘や真織さんのように穏やかなものでなく、開放的だ。おばさんの挑発的な印象を強調して譲り受け、瞳はぱっちりして、多少不平を並べても口元は快活で陰気さはない。
 腕組みをした希摘は、「こういう女とは結婚したくないね」と廊下の陰にいる僕を向いた。僕は曖昧に咲い、それで結華さんは僕に気がつく。「久しぶりね」とにっこりされ、僕は一応笑みを返した。
「今もこいつの友達してくれてるのね」
「え、はあ」
「大変でしょう、こんな捻くれた変人とつきあうなんて」
「え、いや──」
「おばさんが男の友情に口突っこむなよ」
「おばさん!? あんたはもう、歳取るごとにかわいくなくなるわね。昔は『おねえちゃん』ってかわいかったのに」
「え、そなの?」
「記憶にございません。悠芽行こ、降りてきて損した」
「タオルぐらい持ってきなさいよ。たったひとりの姉が、土砂降りに打たれてびしょ濡れなのよ」
「しょっちゅう戻ってくるし、どこにあるか知ってるだろ。ゲームどこまで行ってたっけ」
「セーブポイントのとこ」
「あー、そうそう」
「何でとうさんとかあさん、もっとかわいらしい弟に育てなかったのかしら」
 ぶつぶつしながら、結華さんはドアマットに上がる。腕をほどいた希摘は、それを無視して階段をのぼっていった。僕は結華さんに頭は下げておき、希摘を追いかける。二階に着いてから、「ほっといていいの?」と訊くと、「これが兄弟なの」と希摘は部屋のドアを開けた。
 これが兄弟、か。僕と遥も紙の上では兄弟だが、あんなやりとりをしたことはない。多少は毒も吐くほど打ち解けるのが兄弟なら、僕と遥は絶望的だ。長年ひとりっこだった僕には、兄弟自体が謎の間柄なのだ。でも、遥をどういう対象として見るのかは、決まってなかったかも。そんなことを思いながら、僕はベッドに仰向けになり、希摘は荒城を進んだ。
 夕立はまもなく上がり、「虹出るかなあ」と僕は窓辺に行った。雨の雫が流れる窓で退散する雲を見送っていると、「それ座っていいよ」と希摘は窓辺の足元のチェストをしめした。ちょうどいい高さのそれにそうさせてもらうと、僕は空が青く澄み渡って、鳥が帰ってきたり蝉が再燃したりするのを眺めた。

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