風切り羽-42

ここにいられるなら

「プロではないんですよね」
「うん」
「テレビとかにも」
「出ないね」
「だったら、次にどこでライヴするとか、好きな人にどうやって知ってもらうんでしょうか。あ、ホームページとか」
「いや、あの四人はそういうのは作ってないんじゃないかな。ほんとにアンダーグラウンド。ライヴハウスが貼り出す予定表とかね。出演は前から決まってるんだし、そこに名前は出る。好きな人は、まめにそういうのを確認しておくしかないんだね」
「それでも、たくさんお客さん来るんですよね」
「うん。梨羽たちは受けつけにくいぶん、好きになったら飽きられない。よく来る人なら、要と葉月はステージから憶えてるし」
 そこはそれで、世を風靡するのと同じくらいすごい。最近の音楽が一年も持たずに消えるのは、僕も知っている。ライヴにしても、大きな宣伝で人を集めるより、そうやってこまやかに調べてもらうほうが大変だ。
 夕食が終わると、悠紗はバスルームに行った。聖樹さんはつきそいに追いかけ、僕は食器を洗う。
 具がいくつか残る土鍋は、「放っておいていいよ」と聖樹さんに言われたのでそうした。
 洗剤を染みこませたスポンジで食器を泡立て、あの四人の夕食何食べたんだろ、と思った。料理はしそうにないし、食べないのもなさそうだし、出前やコンビニ弁当か。栄養取ってるのかな、とお節介な心配をして、泡立てた食器に水を滑らせていく。
 食器が水切りに並ぶと、手を洗ってリビングに戻る。かばんのそばに置きっぱなしにしたタオルに目をとめ、ベランダに干しておいた。
 空気は刺さりそうに冷たく、虫の声もなく静かだ。乾いて間もない柔らかい髪に頭がきんとして、慌てて部屋に戻る。
 歩み寄った座卓にでんと残る土鍋を突っ立って眺めていると、聖樹さんと悠紗が帰ってきた。
 聖樹さんに髪を乾かされた悠紗は、眠くなるまでゲームをした。僕はそれを隣で観て、聖樹さんは土鍋と残り物を始末すると、ふきんを走らせたテーブルにノートPCを広げる。「仕事溜まってるの?」と悠紗に訊かれると、「週末いそがしそうだから、進めておく」と聖樹さんは答えた。
 テレビ画面のCGを見つめ、沙霧さんと葉月さんだったら、どちらがゲームがうまいかを悠紗に問うてみた。悠紗は眉を寄せて真剣に考えこみ、「どっちかなあ」と問い返し、「ゲームが好きなのは沙霧くんだよ」とつけくわえる。葉月さんはヒマつぶしなのだそうだ。葉月さんが好きなものは何か訊くと、「ぽるの」と悠紗は即答し、聖樹さんに注意を受けていた。
 ポルノ。あの部屋に停滞していた酒のにおい同様、僕はその言葉にも不思議な気持ちになる。ポルノなんて言葉を聞けば、決まって僕はあのことを思い出していた。
 なのに、要さんと葉月さんのからっとした愛好は、あの陰湿な使用を連想させない。おかげで僕は、ふたりの悪趣味に普通にあきれられた。僕が変わった、のではなく、やっぱりあちらが変わっているのだろう。
 悠紗はうつらうつらしてきて、聖樹さんに寝支度を追いたてられ、寝室に連れていかれた。手持ち無沙汰な僕が、乱雑にしまわされたゲームをちゃんとしていると、聖樹さんは帰ってくる。仕事するならどうしようかな、と思ったものの、聖樹さんは軽い操作ののち、ノートPCを閉じた。
「いいんですか」
「うん。明日もあるしね」
 テーブルのそばに行き、「明日行かないんですか」と訊く。聖樹さんはうやむやな笑みはしても、うなずくのははっきりしていた。
「日曜日にはつきあわせてもらうよ。みんなと話もしたいし」
「そうですか」
「萌梨くんは行ってみたら? あの四人がついてたら安心だし。僕の上着も貸してあげるよ」
 あの四人がついている。そういえばそうだ。場所ばかり気にしていたが、ひとりでおもむくわけではないのだ。
「僕、行っても大丈夫でしょうか」
 書類をまとめる聖樹さんは、首をかしげる。
「邪魔とか」
「いえ、そのへんをうろついたりして。駅前は行かないほうがいいと思うんです。誰かいるかもしれないし、いなくてもあのときみんなと歩いたところ、まだ見たくないですし」
「……そっか。そうだね」
「明日は、歓楽街のほうに行くって言ってました。歓楽街って、どのへんですか。僕、あの日、大通りとか走ってきたんですけど」
 聖樹さんは視線を空に置き、しばし考える。地理を思い浮かべているのだろう。
「大通りは、入口かな。その奥の、でも風俗の店だけになる手前に、ライヴハウスとかクラブが並んでるところがあるんだ。たぶん、行くのはそこだよ」
 風俗という生々しい言葉にどきりとする。性的なものに触れるのは嫌だ。人のを見るのも嫌だ。要さんと葉月さんは、あくまで特別だ。
「危ないところ、ですか」
「萌梨くんが心配してる危険はないよ。通ってきたところは外れてると思う。学校はあんなところを歩かせないよ。ただ、ほかの意味で危ないよ。要たちとはぐれたらダメだよ」
 動揺は不安に豹変する。はぐれてしまったら。僕はまた、通学路でされた誘いをかけられるかもしれない。
「はぐれそう、ですか」
「夜は気をはらっておいたほうがいいね。悠は誰かにおぶさるか、抱いてもらうかで移動するし。ほんとは、六歳の子がうろうろする場所でもないんだよ。あのあたりで生まれた子なら別でも」
 気休めのかけらもない情報に、いよいよ怖くなった。歓楽街、と呼ぶからには、いかがわしいものもあふれているだろう。
 僕の精神は安静が第一だ。ここで良好になっているとはいえ、調子に乗ってはいけない。下手な刺激を受けたら、僕のささやかな平常はたちまち壊れる。
「僕が言っておくよ」と聖樹さんは言った。行きたくない、に振れていた僕の心を、柔らかく制す口調だ。
「あの四人がついてれば、悪いところでもないよ。僕が頼んでおく。僕の子供と僕の友達なんだ。ちゃんと安全な範囲にいてくれるよ」
「けど、何が安全か危険かとか、違いますよ。……されてみないと」
 聖樹さんは口をつぐむと、小さく息を吐いた。あきれた息ではない。ノートPCや書類をしまったかばんを脇に置くと、「梨羽がいる」と聖樹さんは言った。
「梨羽、さん」
「梨羽は僕たちみたいなことされてたわけではなくても、そういうのに敏感なんだ。不愉快かもしれないけど、何度か会ってれば、梨羽は萌梨くんが何を抱えてるのかも見抜くよ」
「……はあ」
 梨羽さん。何なのだろう。なぜ、されたことがなくて敏感になれて、痛みが分かって、あんなに沈みこんで──
 そこで、ひやりとする。あの内閉。隔離教室。加害。まさか。
「あ、の」
「うん」
「梨羽さん、って、隔離教室になってたんですよね」
「え、ああ。うん」
「もしかして、その、僕たちがされてたことをして、そうなったとか──」
「まさか」と聖樹さんは即座に否定した。ほっとした。それに関しては、さすがに要さんや葉月さんへのような冷静な判断は下せない。
 あの暗さは後悔かと思ってしまった。したほうにとって、ああいうものは後悔など引きずる必要もないことなのだけど。要さんと葉月さんの無頓着さも、それを裏づけている。
「梨羽がそこに送られた理由、聞いてないんだね」
「あ、はい。要さんと葉月さんは、今日聞きました」
 聖樹さんは面食らったようなとまどったような顔になり、「そうなんだ」とつぶやく。「びっくりした?」と訊かれてうなずき、「怖くはないですよ」とつけたした。
「要さんたちは要さんたちですし」
 聖樹さんは安堵した笑みになる。要さんたちを許したのを批判されるのでは、と構えたのだろう。
「萌梨くんなら分かるかなとも思ってた。梨羽と紫苑は聞いてないんだ」
「はい。あ、いいですよ。あのふたりが話さなかったんです。勝手に聞くのも」
「そう。まあ──これは言ってもいいと思うけど、梨羽と紫苑は学生の頃もあの通りで、教室を追い出されたんだ。梨羽は授業中も音楽聴きっぱなしで、紫苑もギターを離そうとしなかった。協調性がぜんぜんなくてね。あきらめられて教室を外されたんだ。要と葉月みたいに害があったんではない。持て余されたんだね」
「そう、なんですか」
「うん。でも、そういう馴染まない行動をしてた理由は、ほとんどの人は知らないよ」
 聖樹さんを見つめ、聖樹さんは知ってるんだろうな、と思った。あの四人に聖樹さんは受け入れられている。聖樹さんは、音楽には携わらないあの機微な輪の一員なのだ。
「ほかの三人も鈍感ではないし、萌梨くんの感じは今日一日で分かったんじゃないかな。何をされてきたかじゃなくて、萌梨くんの性格を考えて、平気なところに抑えておくよ。萌梨くんが嫌なら嫌って言っていいんだし」
「………、言える、でしょうか」
「萌梨くんが言えなくても、悠が代わりに言ってくれるよ」
 確かに、と思った。悠紗が敏感に僕の気持ちをすくいとるのは事実だ。それに、あの四人もそんなに無神経ではない──許した人には。
 やっと気が楽になってくる。悠紗は僕を分かってくれるし、あの四人も僕をちっとも分かってくれない人たちではない。
 よく考えれば、そもそも、その場所を堪能しにいくわけでもない。見物のヒマもなく、チラシを配ったり何をしたりに駆り出されるのだろう。周囲におろおろしているヒマもなさそうだ。
「一度行ってみたらいいよ」と聖樹さんは言った。押しつけがましくはなく、厚意の勧めだ。
「向こうに連れ戻されることはないんですよね」
「うん」
「じゃあ、大丈夫です。何かあっても、ここにいられるなら」
 聖樹さんは微笑み、僕も不安にさいなまれずに咲い返せる。「今日のこと聞かせてもらっていい?」と訊かれ、僕はうなずいた。「じゃあ飲み物用意するね」と聖樹さんは座卓に手をついて立ち上がり、僕も手伝いに続く。

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