久しぶりの外出
XENONのゆいいつの恒例行事、EPILEPSY──綴りはフライヤーにあった──の宣伝に集まったのは、メンバーの四人と悠紗と僕だった。「少ないですね」と僕が言うと、「ここじゃなかったら四人だけだよ」と返ってきて拍子抜けた。
とはいえ、かたまって行動はせずに、二手に分かれるのだそうだ。てっきり梨羽さんと紫苑さん、要さんと葉月さんかと思ったら、それは絶対しないらしい。
「俺と要が一緒だったら、宣伝投げだして煙草ふかすだろうしさ。梨羽と紫苑だったら、そのへんに突っ立って路頭に迷子になりそうじゃん」
然りだった。いつも要さんと葉月さんが保護者、梨羽さんと紫苑さんがそれについていくかたちになるという。このバンドの精神性を考慮すれば、最善の効率だ。
勝手にポスターを貼ったりしていいのかを問うと、「えらい人と友達なんだよ」と返された。
「あのあたりの、えらい人な」
携帯用ゲームをする悠紗を膝に乗せる助手席の葉月さんは、煙草をふかして笑った。
要さんは運転席にいて、後部座席に残りの三人がいる。後部座席、といってもバンなのでシートが向かい合っている。背中合わせのシートに、左に紫苑さん、真ん中に梨羽さん、右に僕がいた。
荷物は背凭れを倒してトランクと通じた、僕たちと向かいの席にある。紫苑さんは相変わらずギターを抱え、梨羽さんはロックを聴いていた。
葉月さんの話に、漠然と凡人の恐怖を覚えていると、「大丈夫だよ」と声がする。
「来た日、遅かったじゃん。そんときにご挨拶にも行ったしさ」
「はあ」
「ここは知ってる奴が多いよ。うろちょろするようになって来るの減ったけど、やっぱここが一番楽だわね。十六の頃から来てる」
「………、高校は」
「行ってると思う?」
訊くに及ばないことでもある。
「あいつら、どうしてるかな」
信号で停まった要さんが、不意につぶやいた。「ん」と葉月さんに顔を向けられると、「あいつら」と要さんは繰り返した。
「俺はあいにく、お前の恋人じゃないの。以心伝心など」
「っせえな。ほら、前にここに来たときに逢ったバンドいただろ。俺たちの地元に遊びにきたと」
「えー」
「僕、憶えてるよ」
悠紗の声だ。
「葉月くんが僕のこと要くんの子供って言って、信じた人たちだ」
「そうそう」
「ああ、あいつらね。思い出した。あれ、信じさせたまま別れたっけ」
「忘れた」
「信じてたらやだねえ。要なんかから悠ができるわけないじゃん。しかし、ほんとにどうしてんのかな。つぶれたんではあるまいな」
「逢わないの?」
「さあ。あっちが話しかけてこなきゃ分かんない。ふたりほど髪染めてなかった? ピアスも」
「してたな。あと、名前なら聞くぜ。LUCID INTERVAL」
「あー、はいはい。何かあいつらもバックグラウンド変わってたよな」
葉月さんは窓の外に煙草をふかす。隣の車は、さいわい窓を閉めている。
「萌梨は聞いたことある? その──ルシッド何とか」
「え、いえ、ないです」
「そいつらね、どの気が違ったか、俺たちに憧れてバンド始めたの。変わってるよお。メンバーがふたりほど、すっごいワル。施設送りにもなったらしい。ドジだね」
「はあ」
「たまにそういう奴に逢うよな。俺たちが好きだってバンド。そん中には、きつい過去を持ってる奴もいる」
「梨羽が、もろに歌で嫌なもん吐き出してるように見えるからな。俺たちの音で、音楽やろうって思う奴はいるみたい。ま、それで更生してくれるんなら、喜ばしいことですわ」
「音楽って更生か」
「………、極道か」
信号が変わったのか、車は動き出す。「ごくどうって何?」と悠紗に訊かれ、「電車に乗る楽をしない奴だよ」と葉月さんは答えていた。
車は駐車場ではなく、路上駐車で停められた。「投機だよ」と葉月さんは言った。つかまったら罰金は高くても、つかまらなかったら駐車料金より安いからだそうだ。が、「点数取られるのは俺だぜ」と要さんはぶつぶつとしていた。
三人ずつの二組で、僕は要さんと梨羽さんのほうについた。要さんのほうが迫力があるのと、梨羽さんが僕のそばを動かなかったからだ。
梨羽さんは、別に、僕を見つめてきたり、咲いかけてきたりはしない。それでも、梨羽がいるという聖樹さんの言葉が頭をよぎった。すでに梨羽さんは、僕の記憶に感づいているのだろうか。
要さんと葉月さんがトランクをあさっているあいだ、僕は見知らぬ通りを眺めていた。リュックを背負う悠紗は、タイヤの脇にしゃがんでゲームをし、梨羽さんと紫苑さんはいつもと変わりない様子で車のそばに立っている。
聖樹さんに見送られ、マンションを出発したのが十二時半前で、今、車を降りるときに一瞥したデジタル時計は“13:12”だった。十二時前に四人が鈴城家に来て、そこでみんな昼食を食べてきた。昨日の話通り、聖樹さんは四人の洗濯物を頼まれていた。聖樹さんは今頃、大量の食器を洗い終え、あれに取りかかっているのかもしれない。
思ったより通りは人の行き来は激しくなかった。そこそこうろつく人も、まばゆい太陽を受けてだるそうだ。こんな昼間にシャッターが降りている店もある。
たまに大音量の音楽をかけた車が抜けていく。電柱や店、そのおりたシャッターには、ポスターや落書きがいっぱいだ。道路にもチラシや煙草や空き缶が転がり、路上駐車の車やオートバイも並んでいる。
僕はこういう場所に慣れていないが、慣れていない僕でも、ここには太陽の光よりけばけばしいネオンが似合うのは分かる。
晴れ上がって、雲もない空を仰ぐ。ここの人ではなくも、日光がまぶしかった。
マンションを出るのは初めてだ。気候はだいぶ寒くなっている。停滞する空気に深夜の冷たさはなくても、流れる風をはらむとひやりとする。
太陽の熱が恩恵に感じられる季節だ。僕は聖樹さんに貸してもらったコーデュロイのジャケットを着ていて、寒さは気にしなくてよかった。
聖樹さんを想う。出かけ際、一日聖樹さんが部屋にひとりきりになることに気づいた。「大丈夫ですか」と訊いたら、聖樹さんはすぐ微笑んだ。意味が分からず、きょとんとしなかったのが心配だ。
用意が整うと、悠紗と紫苑さん、投げキッスをしてきた葉月さんとは別れた。僕も荷物を持ち、要さんに梨羽さんとついていく。
紙や糊やテープで重たい荷物にも、梨羽さんは無表情だ。この人は、咲ったことはあるのだろうか。僕もここに来る前は咲えなかったとしても、引き攣った愛想咲いはしていた。梨羽さんにはそれもない。
「そんなんと並んでても、つまらんだろ」
要さんに顔を上げる。その言葉を肯定する行動に躊躇いながらも、梨羽さんを離れて要さんに並んだ。
「歩きながら、糊でもテープでも貼って。適当でいいよ」
「しっかり貼らなくていいんですか」
「来週には意味なくなってんだぜ」
まあそうだ。裏面に糊をひとはけ塗ったフライヤーを渡し、要さんはそれをそのへんに貼った。この街並みは、無断でそうしてもちっともおかしくないほど、そういうものがあふれている。
「これ、エピレプシーって読むんですよね」
「ほお。英語できんの」
「あ、いえ。悠紗が言ってて。聖樹さんに“癲癇”って意味も聞きました」
「まあな。何で“癲癇”かは知ってるか」
「ライヴ見れば分かるって」
「そっか。梨羽のことなんだ」
「梨羽さん」
「そう。──貸して」
急に言われて、慌ててフライヤーに糊を塗り、要さんに渡す。
「エピレプシーってのは、もともとギリシャ語で悪魔が乗り移ってきたって意味なんだ。悪魔が軆に入ってきて、暴れてる状態。昔の人は、癲癇の症状を、ありゃ悪魔に憑依されたのに違いないと迷信したわけだな」
「はあ」
「梨羽の知識だぜ。そのタイトルの曲もある。その曲ができた頃に、俺と葉月が十三日の金曜日のライヴを特別にそう呼びはじめて、板についちまったと」
納得し、梨羽さんを一顧した。梨羽さんも、一応テープを貼ってそのへんにフライヤーを貼っている。
その気乗りしない手つきに、「あいつはなるべく客に来てほしくないんだもんな」と要さんは笑った。
「帽子被せてくりゃよかったな。夜になる前に買ってやるか」
「帽子」
「梨羽だって分からないように」
「梨羽さんって分かったらダメなんですか」
「梨羽を崇拝する人間にはな。はい、パス」
糊つきのフライヤーを渡すと、要さんは通りすがりの電柱にそれを貼る。
「梨羽さんって、神様みたいに思われてるんですよね」
「神? 神ねえ。ま、そうだな。梨羽って客に見向きもしないんで、その傲慢なとこが」
「神様って傲慢なんですか」
「傲慢だろ。ご慈悲があったら、世の中こんなに荒んでないぜ」
「人間がそうしたんじゃ」
「人間の脳みそ洗脳して、よくすりゃいいだろ。俺たちは無視されてるんだ」
「いないだけじゃないですか」
要さんはにやにやして、「言うじゃん」と言った。僕は少し頬に熱を持たせ、フライヤーに糊を塗る。
「萌梨は、神はいないと思ってるんだ」
「あんまり、いるなあと思ったことは。でも、無視されてるなあって感じるときもあります」
「そっか。俺はいると思うよ。キリストみたいな大衆向けじゃなくて、もっと個人的な。いいのも悪いのも、そばにいるのもどっかいっちまうのもいる」
「守護霊みたいですね」
「うん。で、梨羽の神は分裂症なんだ」
「分裂症、ですか」
「梨羽本来のと、もうひとつある。もうひとつが来たときに、梨羽は歌う。さっきのEPILEPSYの語源な、神に操られてるって意味もあるんだ」
「神に操られる……」
「神が降りてなきゃ、あれ。マシにはなったんだぜ。昔はもっと、もうひとつの影が濃くて、突然泣き出したり震え出したりしてた。梨羽には歌は自虐なんだよ。わざわざ胸糞悪いほうを呼びよせることだからな」
「何で、歌えるんでしょうか」
「俺たちの音が檻になってんだろ。暴れても閉じ込められてる。ヤケになれない保証だよ。梨羽にはア・カペラは死の行為だな」
「梨羽さんは歌いたいんでしょうか」
「さあな。蓄積させたらやばいもんを吐いてるのは確かだぜ。吐き出す代わりに、もっとやばいもんを溜めていってるとこもある」
梨羽さんはガードレールにフライヤーを貼り、道端にゴミを落としていく。両面テープの剥離紙だ。
要さんは梨羽さんを見た。梨羽さんを見つめるときには、要さんの目はどこかしら柔らかくなる。
「梨羽が客をないがしろにするのは、スタンスでも何でもないんだ。そんなもん、見てる余裕がないんだよ。梨羽は自分に憧れる奴を怖がる。梨羽には、自分みたいになりたいと思う奴なんかふた通りなんだ。何も見えてないバカか、気違いだよ」
裏返したフライヤーに糊を塗る。
僕は気違いなのだろうか。何にも見えていないバカなのだろうか。憧れと言うより共感と言ったほうが近いけれど。共感してしまうとは、聖樹さんも言っていた。
要さんは僕が渡したフライヤーをシャッターに貼る。
「それでも、あいつを持ち上げる奴はいるよ。果ては、自分も音楽に手を出す奴もいる。さっきのLUCID INTERVALとか、ファントムリムとか。ファントムリムは、バンド名を俺たちの曲から取っただけか」
「使われていいんですか」
「いいんじゃない。それがバンドを表わしてんなら。向こうは俺たちに自分たちを知られたとき、ばつが悪そうだったけど」
「会いにきたりするんですか」
「ライヴハウスにも毛色があって、似た系統の音が集まるんだ。だから、その楽屋とかで」
渡されたフライヤーを、要さんはゴミ箱にも貼る。
「そういう奴はいいんだ。害はないし、つうか、それで害を発散するならやってくれって感じだし。変質者みたいになる奴もいて、これが厄介だな。梨羽の歌が煽動してんじゃないぜ。熱狂しすぎて、梨羽のもんを盗もうとしたり、尾行したり、抱きついたり触ったり。何考えてんだかな。梨羽もそいつらは怖がるより嫌がってる。で、そういう奴がいたときのために、顔隠せるもん買ってやらないとな」
「売ってるんですか」
「どっかあるだろ。──あそこ空いてるな、ポスターにして」
「あ、はい」
緩やかにふたつ折りにされている紙を一枚取り、要さんに一方を持ってもらって、糊を塗ってテープも貼る。貼られたのは何かの店の壁だ。「ほんとに貼っていいんですか」と通り過ぎながら訊くと、「嫌なら剥がすだろ」と要さんはあっさり言った。
そんな具合で、僕たちは通りを流れ歩いた。壁、シャッター、電柱、ガードレールやゴミ箱、自動販売機の横なんかにも宣伝は断続的に貼られていった。
振り返ってみると、そうべたべた貼られている印象はない。慣れた感覚なのだろう。
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