風切り羽-44

守られながら

 途中、開いた百均があった。要さんは、そこに梨羽さんを引っ張りこんだ。「顔を隠せるもので好きなものを選びなさい」と──ヘッドホンに軽い隙間を作って耳元で──要さんに言われ、梨羽さんは不審がって睨むような目で帽子をあさった。
 梨羽さんが持ってきたのは、黒無地のフリーツ素材の帽子だった。つばもついている。「よし」と要さんはそれを買い、梨羽さんに深くかぶせると宣伝に戻った。うつむく梨羽さんの顔は、つぐまれた口以外窺えなくなった。
 陽がかたむくにつれ、通りには人が増えはじめた。これからが本番なのだ。夜には気をつけたほうがいいと聖樹さんも言っていたし、自分で自分を守る覚悟はしておかないといけない──のだが、いまいち自信がなかった。
 何せ僕は、外敵に対して硬直する致命的な悪癖がある。聖樹さんは梨羽さんがいると言ったものの、梨羽さんに僕を気にしてくれる余裕などありそうにない。要さんが頼りだった。
 増殖しはじめた人に、要さんは声をかけたりかけられたりする。どう見ても寝起きのおじさんや、綺麗な女の人や、年齢層は定まっていない。
「紙飛行機にでもして」と、要さんはその人たちにもフライヤーを渡す。僕について訊かれると、子供だとか恋人だとか平気で答えていた。冗談が通じる場所ではあるようで、みんな笑って本気にしなかった。
 子供はともかく、恋人で笑われると僕は憂鬱になる。男同士が笑殺されるのは痛む現実だ。
 さっき葉月さんたちを見たと言う若い男の人がいた。「どうだった?」と要さんが訊くと、「ハンバーガー片手だったぜ」とその人はフライヤーを眺めながら去っていく。
 僕は要さんと顔を合わせた。
「腹減った?」
「いえ」
「あいつはなあ。まあいいか。俺こそポルノ片手にやったことが。人が増える前には食っとこうぜ。萌梨はあれには滅入りそうだしな」
 僕が抱えるトートバッグは軽くなってきている。覗くと、ぶあつかった紙の束が半分くらいになっていた。「そろそろ取っといて」と要さんは言った。
「あとは俺が配ってる後ろで、梨羽と丁寧に貼ってりゃいいよ」
 うなずく。梨羽さんもいつのまにか貼るのをやめ、黙々とついてきている。
 僕は夜の人出はすごいかを要さんに尋ねる。
「萌梨にはすごいだろうな。俺はもっと昼と夜の落差があるとこも知ってる。今日は土曜の夜なんで、多いのは多いな」
「そう、ですか。梨羽さんは大丈夫なんですか」
「ぜんぜん」
「………、いいんですか」
「ふらふらしてきたら休ませるよ。萌梨もな。無理すんなよ。根つめなくたって、どうせチケットノルマは売れてんだしさ」
 それもそうだった。
 要さんは、梨羽さんや僕には気遣いをしてくれる。角が丸くなったのか、許した相手だからか──残虐なあしらいをする人とは思えない。それほど要さんにとって、合わないものとは罪深いのだろうか。
 ごく短い夕暮れのあいだに、僕たちはファーストフードの夕食を取った。テイクアウトして、そのへんの道端で食べた。
 梨羽さんは地面にしゃがみ、要さんはそばの電柱にもたれ、僕はガードレールに腰かける。ガードレールには、青いスプレーで無意味な曲線の落書きが施されていた。
「葉月たちと落ちあうの、二十三時だよな。今──十八時前か」
「二十三時で切り上げていいんですか」
「もっとしたい?」
「え、いえ。何か、夜中からって感じですし」
「まあな。でも、最高潮の人間に声かけたって無視されるだろ。全部終わって、明け方に来るときもあるよ」
「行くんですか」
「さあ。萌梨と悠は連れていかないよ。二十三時ってのも、せめて零時には帰せって聖樹に言われてるんだ。悠も寝ちまうだろうし、それをおぶさってうろうろすんのもな。萌梨は平気か」
 うなずき、甘いカフェオレをストローで飲んだ。要さんはハンバーガーの最後のひと口を口に放る。
「梨羽の神経もある。あんまり逆撫でると、マジで歌えなくなるんだ。こいつはライヴ前には、練習重ねるより精神を安定させとくほうが大事なんだよ」
 梨羽さんは、ずるずるとチョコレートシェイクをすすっている。こうして見おろすと、帽子の下にしゃがむ梨羽さんは小さく映った。
 ふと、この人はXENONのメンバーを失ったらどうなるんだろうと思った。もろい内閉を理解し、庇護してくれる三人がいなくなったら。
 とても、生きていけない気がした。僕はその危懼に対し、梨羽さんに強さが宿ることではなく、けして三人がいなくならないのを祈りたくなる。梨羽さんは、何もかも──癒えるという変化すらも、拒んでいる。
 ゴミ箱に紙クズをまとめて投げこみ、再び歩き出す。太陽の名残もなくなって、店が開店したり明かりがついたりしてくる。けばけばしい色はまだない。
 僕はホテルを逃げて走った大通りを思い出した。何となく周囲を見まわしても、怪しい影はない。
 あれから三週間経った。先生たちはあきらめただろう。もしかすると、おとうさんも。
「どうかしたか?」と要さんの声が降ってきて、瞳が遠くなりかけていた僕はかぶりを振った。陰りを縫って、梨羽さんがこちらを見つめてきていた。
 すっかり暗くなり、それをネオンが抑えつけるようになると、ゆっくりだった人やざわめきの増加が急激になった。しきりに人と行き違い、僕はトートバッグを抱きしめて要さんのあとをついていく。隣に並ぶのは、通行の邪魔だった。
 後ろの梨羽さんは、昼間に要さんと僕の平行についてきたときよりもそばにいる。人とぶつかりそうになると、さりげなく要さんは僕の軆をかばった。さすがに、ここを何年も前から歩いている梨羽さんは、自力でよけるのには長けている。
 三差路や十字路に行き当たると、同じく広告を配る人がいた。そういうときは、ヘッドホンの隙間から「こいつのこと任せるぜ」と梨羽さんに僕をしめし、要さんはそこに混じっていく。
 梨羽さんは思いのほか僕を守ってくれた。はぐれそうになって焦ったときにはちゃんと僕を待っていたし、ぶつかってよろめきそうになるとぞんざいながら服を引っ張ってくれた。
 僕と梨羽さんは、壁や電柱にフライヤーを貼った。要さんが帰ってきた去り際に、梨羽さんは地面にも何枚かフライヤーを放っていった。そういうのを繰り返した。
 梨羽さんが無表情なのは、いいことだったらしい。梨羽さんは人にぶつかられたりすると、ほんとに一瞬、空気で分かるものすごい憎悪を滾らせた。人に触れたところは無闇に嫌悪し、服の袖でそこをはらう。要さんがいると、要さんがはらってやっている。僕は初めて梨羽さんの表情を──噛みしめた唇を見た。
 騒がしい通りに出ると、梨羽さんは今度は耳をふさいで、無理に音楽に集中しようとした。だが、この騒がしさには完璧には太刀打ちできないのか、梨羽さんは苦しそうにうめきだした。
 僕は要さんの服を引く。梨羽さんのことを言うと、「休みますか」となった。

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