野生の風色-53

ふたりの対話

 僕は背後のドアが閉まるのを見届け、いったん動作を止めて息をつくと、おもむろに遥に向き直る。
 緩い逆光の中で、遥はうつむいていた。黒髪にぼさつきがあって、肩も頼りなく下りている。手首は膝でぐったりして、左手首には白いものが覗いていた。
 黙りこんでいるが、僕にも話題なんてない。室内には、呼吸するのも痛くなる重苦しさが停滞し、それは張りつめた緊張感より気が遠くなる。教室の話し合いで、積極的意見や立候補が挙がらないときの沈黙だ。誰かが破ればいいと思って、自分がどうかしようとは思わない。
 だが、ここは教室ではない。沈黙が長引きすぎて、遥が変なことになれば、間違いなく僕のせいになる。僕はソファの上でぎこちなく身動ぎすると、心を決めて細い息を吐いた。
「話って?」
 遥は、にぶく顔を上げた。僕は意識的に硬い無表情を作る。
「僕に話があるんでしょ。そう聞いてるけど」
「……ああ」
「何?」
 遥は口を閉ざし、端的に“話”を持ち出そうとはしない。遅疑する遥を、逆光に目を細めながら見つめたのち、「よっぽど言ってやりたいことなんだろうね」と僕は下を向いてかすかに咲った。遥の視線が額に触れる。
「あの夜のことなら、分かってるよ。全部、遥が正しかった。僕が悪かったと思ってる」
「………、」
「ごめんね」
「………、何で」
「え」
「何で、あんなの言おうと思ったんだ」
「あんなのって」
「やめろとか、堕ちていくだけとか。何で、あんなの言うんだ」
「気に障ったのは分かってるよ、ごめん──」
「謝れなんて言ってない。何で言ったのかって訊いてるんだ」
 遥を見た。隠微に窺える遥の瞳は強かったが、憎悪の点火はなかった。
 何で。何で、だろう。なぜ僕は、遥にあんなお節介な言葉を吐いたのだろう。
 もう遥は放っておこうと決めていた。でも、薬だけは──
「訊いて、おきたかったし」
「何を」
「ほんとに、薬かどうか。あの家出があった時点で、遥に口を出すのはやめようって思ってた。けど、薬はやめたほうがいいと思って」
「何で」
「遥が気に障った通りだよ。僕は遥が薬に耐えられるとは思わなかった」
「俺が薬でめちゃくちゃになったって、お前には何にもないじゃないか」
 僕は床に視線をやり、うなだれとうなずきをずるく綯い混ぜにした。そうだ。遥が薬で崩壊しても、僕には何もない。そして、それではいけないかと思い、お節介を焼いた。薬で壊れたら困る、家族になろうとして──
 しかし、こんなのはおそらく“逆撫で”になるので、遥には言えない。
「このままじゃ、何も変わらないと思ったし」
 精一杯そう言うと、遥は警戒するような眼つきを僕を刺す。
「俺はたぶん、お前の家に行く」
「え」
「だから、言っておきたかったんだ。二度とあんな、くだらない口出しはするな」
 僕は口元をこわばらせ、遥に萎縮の入り混じった目をやる。
「何されたって、俺はお前の家には馴染まない。十六になったら、働いて縁も切る。お前のとこに行ったのは、ここよりマシと思っただけだ。ここにいたら毎日医者がたかってきて、昔は医者どころか研究家とか作家も来た。会いにくるのは医者が止めたけど、たくさん手紙が来た。取材したいとか、俺の体験を本をしたいとか。ここにいる限り、俺は見せ物にしようとされるばっかりだった」
「………、」
「それで、お前のところに行った。そこなら、俺の過去をかきまわす奴はいないって。みんなうるさいんだよ。俺はお前のところに行って、十六になったらお前の家も出ていって、ひとりで生きていく。それで、何でもない奴になる。普通の人生を送ってきた奴になるんだ」
 僕は息を飲み、遥の攻撃的な空風に言葉もなかった。湿っぽいより、ずっと痛かった。その述懐が極めて本心に近い、純粋な毒なのは分かる。
 確かに遥の体験は金にもなるだろう。虐待、殺人、心中。遥はここにいるあいだ、どんぞこの痛みを見せ物にしようとする見知らぬ大人に怯えていたのだ。
「でしゃばるなって言いたかったんだ」
 遥は僕を硬く見つめ、僕は弱く見つめ返す。
「それだけだ。もし家族面でも俺を想ってるなら、お前は俺をほっとくんだ」
「遥は、僕が嫌いなんだね」
「嫌いだ。顔見るだけで吐き気がする。お前はみんなと一緒だ。俺のことなんか分かってない」
「……そうだね。分かんないよ。ごめん」
 遥を見ている自信も失せて目を伏せると、僕は息をついて立ち上がった。「ほかに話はないよね」と訊いても、遥は答えない。何か捨て台詞を残すべきかと思っても、どうせ何も思いつかなかった。
 室内のどんよりした空気はほどかれ、もう終わっている。何か言っても、逆撫でるだけだ。僕は淡々とした足取りでドアに向かい、廊下に出た。
 正面の長椅子にかあさんがいた。開いた僕を見つけると、立ち上がって「終わったの?」と声を抑えて問う。室内ほど涼しくない静かな廊下には、医者や看護婦の行き来はあっても、さっきの医者や事務の人はいない。後ろ手にドアを閉めた僕はうなずき、「とっとと回収したほうがいいんじゃない?」とドアに瞥視をくれる。
「遥くん、何か話した?」
「帰ったときにはでしゃばるなって」
「帰る」
「あいつ、夏休みが終わったら僕んちにまた来るみたい」
「本当に? 遥くんがそう言ったの?」
 僕は遥の見せ物への嫌悪も話しそうとしたけれど、これは吹聴になるかと黙ってうなずいた。希摘には言うと思うけど。
 思いのほか、愚痴りたい悪感情はなかった。嫌いと言われた自分の痛みより、遥の痛みが深くて重かった。
 何でもない奴になる。それほど、遥の傷口を明示する言葉があるだろうか。
 遥は主人公になりたがらなかった。なれるのに嫌がった。彼の傷口は本物なのだ。本当に痛ければ、主人公にはなれない。舞台に立ち、足元の観客の見せ物になるなんてできない。遥の過去は劇でも映画でもない。ただの人生だから、恐ろしいのだ。
 その後、医者と話して知ったのだが、遥はカウンセリングでは押し黙って何も言わないらしい。医者が真っ先に僕に問うてきたのは、遥が口をきいたかどうかだった。僕はうなずきつつ、じゃああの話は何だったんだ、と首をかしげる。遥にしては、ずいぶん内面についてしゃべったようには感じたけど──
 自己嫌悪で夜に変になるかもしれない、と思ったが、そもそも遥がそんな深い話をしたのは伏せたので、医者に忠告はできなかった。遥が家に戻るつもりでいる発言は、医者にも大きな収穫だったようだ。礼を言われながら僕とかあさんは彼に見送られ、二時間かけて明るさの残る十九時過ぎに家に着いた。
 その日の夕食はデリバリーで済まし、僕は部屋でゲームをした。夏休みもあと十日と二日で終わる。宿題は、桐越たちとの集まりで片がつきそうだ。夏休みが終われば、遥が戻ってくる。
 遥が行くと言えば、医者はそちらを強く検討するだろう。僕の家にも、遥がいなくなって息が抜けた感じはなかった。彼の不在に、しっくり来ない重さがある。いい感じとは言えなくも、それなりに、遥の存在は僕の家庭の一部になっていたわけだ。
 しかし、僕は遥を放っておくだろう。はっきり言われた。でしゃばるな。そうしよう。僕は遥を放っておく。
 そうしてどうなるかは分からない。帰ってきて遥がどうするかも分からない。いや、またふらふらと遊びまわるだろうか。そうして遥は、十六になった暁に転がりこむ場所を探しているのかもしれない。遥には、僕の家は居場所ではないのだ。
 好きにさせておこう。家族になるより、他人になるほうが僕たちにはずっと簡単だ。もう僕は、遥のために細々と心を砕くのはごめんだった。

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