帰宅の条件
「いってきまあす」
約四十日ぶりの制服を着た僕は、校章入りの無意味に紐が垂れた手提げを持ち、家の中にそう残して玄関のドアを開けた。
昨日の蒸し暑い雨も、匂いだけ残して退いた。今日は白い雲ばかりの晴天だ。蝉のだみ声が減ったおかげで、甲高いすずめの声が聞き取れる。直視できない太陽から察するに、今年も残暑はタチが悪そうだ。
きしむ門を開け、気候を案じる僕の前を、焼けついていく日射しなんか気にしない、元気な子供たちが駆け抜けていく。
今日は九月一日、夏休みが過ぎ去った二学期の始業式だった。登校日をサボった僕には、久しぶりの学校だ。
数日前、桐越や成海には会ったので、教室でのリズムは思い出していた。つくえに着いての授業のリズムに慣れるには、どのぐらいかかるか分からないが──いや、今年はすぐ慣れるかもしれない。この夏休みは、だらっと怠けきれない緊張感があった。
宿題や成績表が入る手提げを肩にかける。今日の夕方、病院から戻ってくるいとこに、どうしても複雑な気持ちになる。
遥は戻ることになった。が、医者もお気楽ではなかった。一ヶ月、遥の様子を見た彼らは、ふたつの条件を彼に課した。
ひとつは、学校は休むこと。もうひとつは、今年の暮れになっても問題が尽きないなら、病院がその身を引き取って治療に専念すること。
病院側としては、遥の意思を踏みにじるつもりではないらしい。あくまで保護だ。おかしな行動が続くなら、意思自体が病みはじめていると判断するそうだ。両親にそれを聞かされた僕は、ちゃんと考えてんだな、とバカにしていた医者への目を少し入れ替えた。
両親は遥の帰還に恐々としていても、僕は無関心だった。本人に放っておけと言われたのだ。僕が放っておくと約束したので、遥は帰ってくるようなものだ。そう言えば、両親は僕が遥に関して冷淡でも、何も言えなかった。遥は両親にも放っておいてほしいだろうが、僕は何も言わずに外野でふたりを傍観していた。
騒がしく排気ガスが行き交う大通りを抜けると、同じ制服の集団がちらほらしてきて、見える人混みはすぐそればかりになる。新学期早々、生き生きしている生徒は少ない。ゆいいつ活気づく瞬間は、久しぶりの友人に会えたときだ。
そんな無気力な生徒たちを、校門に立つ教師は張り切った声で校舎に追い立てる。教師ほど生徒に合わない人種もない。そんなことを思う僕も、花壇沿いの道に追いやられ、校旗のそばの時計で、予鈴に余裕があるのを確かめ、靴箱に踏みこんだ。
「おはよー」
教室は窓を開けていても暑かった。席に着いて何やら本を読む成海がいたので、その茶髪の頭に手を置いて、軽い挨拶はする。成海は、自分の後ろの席に着く僕を振り向き、「ガキあつかいしないでよ」とむくれた。
「ごめんごめん。何それ。参考書?」
「漫画だよ。美坂に持ってきてもらって借りたの」
「こんなとこで読んでたら、没収だよ」
「大丈夫っ。このカバーを見よ」
かざされたカバーには、堅い本の品揃えで有名な書店の名前が入っていた。「何でそんなとこのカバー持ってんの」と根本的なことを問うと、「失礼だな」と成海は眉を寄せる。
「まあ、これは美坂がつけてきたんだけど」
「何だ。びっくりした」
「びっくりしないでよ。俺だって、買おうと思えばむずかしい本くらい買えるよ」
「買うのは、お金あれば誰だってできるだろうけど。それより、夏休みの最後の一週間、どうだった?」
成海はジト目をして、僕は笑ってしまう。
一週間前、桐越の家で会ったとき、成海は遊びまくってもよさそうな女の子が出てこないとぶつぶつとしていた。この一週間でどうにかしてやると息巻いていたが、玉砕したみたいだ。
「まだ十四なんだしさ」
「俺は十三だよ。あーあ、何で俺って、こんなふてぶてしくかわいいんだろ」
「意味がよく分かんない」
「天ケ瀬は、女の子とどうこうしたいと思わないわけ」
「それもよく分かんない」
「クラスに、ものにしたい女子がいないのが悪いんだよね」
「そうかな」と僕は日射しに明るい教室を向き、日焼けしたクラスメイトの女子たちをたどる。「お目当ているの?」と成海は大きな瞳をくるくるさせ、「いないけど」と僕は手提げをつくえの脇にかける。
「ほんとお? あ、桐越と日暮だ。おはよー」
後ろの扉から入ってきたふたりに成海が声をかけ、僕も振り返る。「久しぶり」と日暮は挙手をし、「おはよ」と桐越も笑みを作った。ふたりは手提げを連れるまま、僕たちの席にやってくる。
「うわ、やばっ。成海が勉強してんじゃん。猛暑でイカれたんじゃねえの」
「勉強じゃないよ」
成海はカバーの中身を日暮に見せ、「新刊出たのか」と日暮は色めいて本をぶん捕る。「人に借りたんだよ」と慌てる成海をよそに、「どうだった?」と桐越は廊下の窓にもたれて僕を向いた。
「どうとは」
「いとこ。帰ってきた?」
「あー、うん。今日帰ってくる」
「学校は──来るわけないか」
「休むんだってさ。不登校。担任にもそう伝わってると思う」
「何? 何の話?」
勉強会に来なかった日暮は、僕のある程度の愚痴を知らない。「いとこ、問題起こしてどっかに引き取られたんだって」とカバーを正す成海が言う。
「どっかってどこ? 少年院? 精神病院?」
「まさか」と言う通り、彼らにはそこまで話していない。「元いた施設にね」とだいぶ事実を省略して話している。
「問題って、あいつ何かやったのか?」
「前に、ここで切れたじゃん。あれを家でやらかして、ストレス溜まってるみたいだから療養、みたいな」
「へえ。で、帰ってくると」
「今日の夕方にね」
「ヘヴィな夏休みだったねー」と成海は本をぱらぱらとする。
「帰ってくるの嬉しい?」
桐越に切れ長の目でにやりとされ、「複雑」と僕は椅子に体重をかける。
「まあ、ほっとけって言われたんで、ほっとくよ」
「本人がそう言ってんだもんな。そういや、日暮はマジでバイトしたのか?」
「しましたよ。金があるって、やっぱ単純に便利ね」
「ばれなかった?」
「夜は手伝わなかったしな。お前はどうなのよ。女作るとか燃えてなかったか」
「ふん」と成海がそっぽを向いたとき、チャイムが鳴って担任が入ってきた。笑いを噛む桐越と日暮は自分の席に移動し、僕も笑みを残して頬杖をつく。
しかし、遥の空席を見ると、まぶたは憂鬱になる。担任の話は、遠くで流れた。
八月の最中に較べれば、夜の訪れは早くなったものの、まだ日は長い。遥が戻ってきた十八時過ぎも、空はやっと陰りはじめたばかりだった。
僕はゲームに飽きて一階に降りてきて、クーラーの効くリビングで、チョコチップクッキーのアイスを食べていた。夕食の匂いを嗅ぎつつ、テレビのチャンネルをころころさせて、おもしろいのないなあ、と銀のスプーンにすくった冷たい甘みを舌に蕩かす。
不意にドアフォンが鳴ったとき、エプロンをつけたかあさんがリビングに駆けてきて、こわばった声でインターホンに出た。遥なのは、確かめるまでもない。帰ってきていきなり僕がいたらまずいよな、とテレビを消すと、「ここにいなさい」とリビングを出ようとしていたかあさんは振り返った。
「何で? 遥は僕が嫌なんだよ」
「挨拶ぐらい、いいでしょう」
「……あのさ、そうやって『それぐらい』ってなるべく常識を持ちこむのが悪いんじゃないの?」
かあさんは僕を見た。ちょっと、眉や頬が怒っている。僕は息をつき、「知らないからね」とテレビをつけなおした。また鳴ったドアフォンに、かあさんは慌ててリビングを出ていく。
両親がいまだ、できれば僕と遥に仲良くしてほしいと願っているのは分かっている。僕が遥に冷たく、遥が僕を厭うことに、まごついているのだ。
本音では、僕は両親が性懲りもなく僕と遥に光を見出そうとすることが不可解だった。僕たちは、どんな角度から見ても扞格なのに。期待する両親が、忌ま忌ましいとかにはつながらなくても、多少焦れったかった。
遥に付き添っているのは、いつだか真織さんを想起させた医者だった。遥の荷物を持ったかあさんが、それを追いかけてくる。リビングに入ってきた暗色の遥に首を捻じった僕は、無関心な目でスプーンをかじった。
「おかえり」
深い意味もない“挨拶”の言葉に、遥は無言で僕を見つめた。「久しぶりだね」と微笑んだ医者には愛想咲いをして、アイスの最後のひと口を食べると、僕は立ち上がった。「どこに行くの」とかあさんがすかさず咎め、「これ、ここに置いといていいの?」と甘ったるい香りのカップをしめす。
かあさんは黙り、僕はそれをキッチンに片づけにいった。そのまま、「夏休み明けの試験勉強あるから」と嘘をついて、二階に逃げた。
廊下のむっとした空気は重く、生き残る蝉の声は静まっていた。夜の虫の歌声もまだ眠っていて、束の間の静けさがかたむいていく日にたなびく。僕は足音を殺して階段をのぼり、滅入ったため息を押し出した。
遥を放っておくのも、親の目がある限り、大変そうだ。だが、僕はそうしなくてはならない。遥にそうしろと言われた。転嫁と言われようが、もはや僕はそうするほかないのだ。
春から夏にかけ、だいぶやったつもりだ。全部、裏目に出た。僕は傷つけてまでも、遥に気遣いを振り撒きたくない。遥に言われなくても、僕には放置という手しか残されていない。
両親はほとんどぶつからず、机上で遥を見ているので、遥と関わった上での僕の選択が分からないのだろう。
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