親友のそばで
家の事情や僕の吐露、月城家がやすらぐというのを聞いた希摘は、「いつ来てもいいよ」と言ってくれた。
初めは遠慮していたけど、次第に甘えて、希摘をよく訪ねるようになった。休日はもちろん、放課後に行ったりもする。希摘が眠っていたり、作業でこもっていたりで会えなくても、軽く事情を聞いたおばさんが理解して、リビングに通してくれた。
ちなみに、結華さんは旦那さんが迎えにきて、三日で帰ったそうだ。その日も、僕は制服のまま月城家を訪ね、リビングでおばさんとたわいなく話していた。そこを起床してきた希摘に見つかり、「こち来なさい」と部屋に招かれた。
「ごめんね、通うみたいに来ちゃって」
重たい荷物を連れて階段をのぼりながら、僕がそう言うと、「俺は嬉しいよ」と寝起きでぼさぼさした頭の希摘は微笑んだ。
「頻繁に来いって意味じゃなくて、悠芽が俺んとこ来て息が抜けるって思ってくれるのがね」
二階に着いた僕は、はにかんで咲う。部屋のドアノブに手をかける希摘も照れ咲いする。家では向ける宛てがなくて死につつある僕の笑顔を、希摘は上手に生き返らせてくれる。
希摘の部屋には、除湿がひんやりかかり、絵の匂いがしていた。あくびを噛んだ希摘は、プリントシャツとラインパンツに着替える。シャワーは昼前の寝がけに浴びたそうだ。
制服すがたの僕は、通学かばんを床にどさっとやり、堅苦しいボタンをひとつ外してベッドに腰かける。希摘のベッドは寝起きのままくしゃくしゃで、かすかに体温も残っていた。
シャツの裾を引っ張る希摘は、僕をじろじろして何だか笑う。
「何?」
「いや、制服だなあと」
「変かな」
「見慣れてないんで。制服着るんだね」
「着ますよ、それは」
「変な感じ。変ではないけど」
僕は開襟シャツと黒いスラックスを見下ろし、「希摘も着てたでしょ」と隣に座った希摘を向く。
「一瞬着てたなあ。びっくりだよ」
「制服持ってるんだよね。どうした?」
「雑巾にした」
「………」
「嘘だよ。破って捨てた」
「………」
「ほんとに」
「ほんと?」
「ほんと。だって、いらないもん」
「卒業式どうすんの? 着なきゃいけないよ」
「行かないよ」
「行かなきゃ卒業できないんじゃないの」
「そうなのか? ま、別に卒業しなくていいしさ」
「ずっと中学生?」
「俺は、すでに中坊ではない」
「……そだね」
手櫛で髪を整えた希摘は、床に落ちたパジャマを拾って丸めた。一階に行ったとき、洗濯かごに放りこむそうだ。
僕は入ったときも感じた絵の匂いに希摘のつくえを向き、パレットや絵の具が散らかっていることに気づいた。「僕がいて大丈夫?」と心配になると、「何が」と希摘はまばたきをした。
「絵が。取りこんでない?」
「ん、ああ。大丈夫。今、乾かしてるとこだし」
「できたの」
「モノトーンの部分は終わった。次はそれに色乗せるんで、今はしっかり乾かす」
「そっか。希摘って、アトリエ持ったりはしないの?」
「んな金ないよ」
「いつかはさ。ずっと、絵、描いてくでしょ」
「仕事は、絵と切り離したことやると思うよ。絵は趣味かな」
「そお。何か、すごいね」
「すごい」
「将来のこと、そういうふうに考えてるって。僕なんか、ぜんぜんダメだよ。今のこともあつかえない」
希摘は僕を見つめて、その言葉の影を凛とした眉に映した。「大丈夫?」と覗きこまれ、僕はその瞳の穏やかな色が傷んでいるのを見る。
「分かん、ない。どうなのかな。麻痺してきてるような」
「家は相変わらずか」
「……うん。どんどん窮屈になってる。親が悪いんでも、遥が悪いんでもないだよね。僕が自分で外れてるんだし」
「おじさんたち、そんなに悠芽をほっといてんの?」
「露骨ではなくても、まあ、遥が一番って感じ。遥の安定を一番に考えてて、そのためには僕は多少傷ついてもいいっていうか……いや、被害妄想かな」
うなだれて泣きそうに咲うと、「んなこともないと思うよ」と希摘は首をすくめる。
「遥くんの世話は神経質になりそうだし。家出に自殺にヤクだろ。必死にもなるよ」
「……うん」
「悠芽が落ち込んでも、目に留めないのか」
「家では僕、平気そうにしてるもん」
「それがいけないのでは」
「そしたら、遥が変なことになって医者が嫌がるんだよ。医者は僕は耐えればいいと思ってる。可哀想なのは遥だから」
「精神的に健康だったら傷ついていいってこともないだろ。ていうか、健康だからこそ、それを保つんじゃないのか」
「あいつら、自分の患者しか頭にないんだよ」
「みたいね。遥くんに嫉妬とかはする?」
僕は希摘を見、「どうだろ」と首をかたむけた。
嫉妬は、ない。家にいると、ぽつんとたたずんでいるような自分が寂しい。嫉妬の烈火より、寂しさの肌寒さが強い。
それを言うと、「ふむ」と希摘は立て膝を抱えこんだ。
「俺は悠芽も間違ってないと思うよ。ほっとけって言ったの遥くんだし、悠芽が関われば遥くんの安定も揺らぐだろうし」
「嫌われてんだよね」
「それは分かんないけどさ」
「嫌われてるよ」
「そうかなあ。親と遥くんの関係って、今どうなの」
「遥、親には心開きつつあるんだよね」
「マジ?」
「マジ」
「えー……親は、何か体当たりしたの? 遥くんのために泣くとか、恐れずに毒を吐くとか」
「別に」
「何なんだよ。分かんないなあ。それ許して、悠芽は拒むのか」
「遥には、そっちのが気が楽なんだよ。僕みたいに、傷まで受け止めようとしたのは、重かったんだ」
希摘は仏頂面で膝に顎をうずめた。「怒った?」と自嘲ばかりの自分に不安になって彼を伺う。かぶりを振った希摘は、「変だなと思って」と眉間の皺を深めた。
「遥くん、病院で悪化したんじゃないの」
「え」
「夏休み前の遥くんは、とりあえず優しくしとく奴と仲良くする感じじゃなかった。聞いてた限りだけど。なのに、そういう態度の親を許すって、要はおしまいじゃん」
「おしまい」
「自分を治すのをあきらめたってことだろ? 人生を投げたってこと。本人がその重大さを理解してるかは分からんが」
僕は空を向いて考え、まあそうだな、と思った。あるいは、僕が知らないところで、両親と遥は熱のこもったやりとりをしたのか。いや、たぶんしていない。こちらが熱をこめるほど、遥が逆上するのは身をもって知っている。
遥は両親に構われると、すぐ落ち着いている。そして、両親は本質には触れないよう、「優しい」と名状される態度を取っている。両親は遥に直視させることではなく、目をそらすことを教えている。
僕がそれを言うと、「最低じゃん」と希摘は顰眉した。
「そりゃ両親に飛びつくね。簡単だもん」
「簡単……かあ」
「遥くんには、悠芽の真摯な態度はもったいないよ」
「………、」
「悠芽はいつも、遥くんから目をそらさなかっただけなのにね」
希摘は哀しい柔らかさで僕を見つめて、それを見つめ返すうちに、僕も哀しくなった。
そうだ。僕はできる限り、遥の傷から目をそらさないようにしてきた。ぜんぜん目をそらさなかったことはなくても、なるべくそこを見つめた。落ち込んだときも、暴れ狂ったときも。
なぜなら、傷の具合を見ない限り、何の施しようもないからだ。僕はいつも、遥が癒されるように見ていた。もしかすると遥は、僕の瞳がしめすその行方に分外を感じ、殺意じみた嫌悪を結んだのかもしれない。
僕の気持ちや両親の視点について話しこんでいると、外は真っ暗になっていた。虫も歌いはじめて、「あの声、どう?」と希摘は深刻な話の息抜きに問い、「あれは、まあ許す」と僕は答える。時刻は十九時を大きくまわっていた。
「帰んなきゃ」と立ち上がろうとしても、にぶるように軆が重い。通学かばんを一瞥し、あれを引き上げなくてはならないと思うと、腕には筋肉がたるむような感覚が流れた。
「はあ」と声にも出して息をつく僕を、希摘は脚をぶらつかせて観察する。
「帰りたくないの?」
「……わりと」
「じゃ、泊まれば」
「えっ」
「嫌?」
「希摘は、いいの?」
「俺は構わないよ。あ、俺、朝まで起きてるんで、寝るときうるさいかな。ま、姉貴の部屋があるし」
「おばさんとか、いいって言うかな」
「言うだろ」
僕は正面を向いた。僕のかあさんも、希摘の家に泊まると言って、断固否定はしないだろう。「着替えどうしよ」と制服を引っ張ると、「俺の貸すよ」と希摘は即答する。僕は希摘と見合い、気持ちをなだめるのは犯罪じゃないよな、と甘えさせてもらうことにした。
家に電話をするために一階に降り、夕食を作るおばさんに宿泊の可否を尋ねると、快諾してもらえた。「家に問題あるって鬱陶しいわよね」とおばさんはからから笑い、希摘は何やらあきれた息をつく。
希摘の家の電話は、廊下にあった。すぐに電話をかけるのを躊躇う僕に、洗面所にパジャマを放ってきた希摘は、「あの母親は変だよなー」と壁にもたれてこまねく。
「おもしろいじゃん」
「そうか? あの人も家に問題ありだったんだよな。母親が病的な男嫌いだったんだって」
「男嫌い」
「旦那に捨てられたからね。かあさんが男と親しくなりかけると、ヒステリックに関係を引き裂いてきたらしい」
「……それでグレたの」
「うん。テレビで虐待の話があって、うちもすごいよって非常に自慢げに語ってきた」
「………、そうなんだ」
「とうさんもさ、親が子供の頃に離婚して、親戚の家をたらいまわしだったんだ。だから、悠芽が俺のとこで楽になれるなら、理解してくれると思う。気にせずに、いつ来ても、いつ泊まってもいいよ」
僕は希摘を見て、「そっか」と微笑んだ。
グレーがかった水色の電話の受話器を取り、一瞬迷って、自分の家の電話番号をたどる。自分の家に電話をかけるなんてあまりないから、変な感じだ。
コール音は数回で切れて、出たのはなぜか留守番電話の応答だった。
「……希摘」
「んー」
「今、何時」
「十九時半ぐらいじゃない?」
「留守電なんだよね」
「あら。どっか出かけたか」
発信音の前に、僕は受話器を置いた。
「どこに?」
「知りませんよ。あ、君が遅いんで捜しに出たとか」
「遅いかな。前もこのぐらいに帰ったことあるよ」
「そうか」
「とうさんは帰ってないかな。帰ってるかな。微妙」
「留守電にしたまま、解除忘れてんじゃない?」
「そうかなあ。じゃ、もっかい──」
受話器を取りかけ、ふと手を止めた。視界の端で希摘が首をかたむける。
そういえば、親は遥に問題が起こると留守電にするようになっている。そばについておくのを邪魔されないように。それかもしれない。ならば、何度かけたって絶対に応答はない。
「どしたの」と腕組みをほどいた希摘は、腰をかがめて僕を覗きこむ。
「遥かも」
「え」
「遥に鬱とか来たら、かあさんたちって居留守つかうんだ。離れたらやばいから」
僕たちは、瞳を合わせた。希摘は体勢を正して肩をすくめ、「じゃあ、メッセージ残しとけば」と言う。皮肉になるよという含みは聞き取れて、僕はそうした。
「電話が鳴って、慌てて出なかったってことはさ」
部屋に戻って希摘の服を着る僕に、ベッドサイドに座る希摘は苦い目でつぶやく。
「悠芽が帰ってきてないの、気づいてないってことなのかな」
「………、」
「不器用だな、君の親は」
「……うん」
希摘のラグランシャツとカーゴパンツには、希摘の家の洗剤の匂いがした。僕の家の洗剤とは違うようだ。「君には俺がいるの、忘れんなよ」と希摘は隣に座った僕の肩をはたき、僕は思わず笑いつつこくんとした。
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