野生の風色-57

朝の帰宅

 かくしてその夜、僕は希摘の家に泊まった。夕食を取りに一階に降りると、おばさんはおじさんのぶんのさんまを僕のために焼いてくれていた。「いいんですか」とどぎまぎすると、「適当に外で食ってくるでしょ」とおばさんは笑う。
 希摘の家のさんまは簡単な塩焼きで、醤油が欲しい僕は、あとで自分でかけることになる。だが、僕の家において、焼き魚の醤油はかあさんが永年の感覚であらかじめかけている。僕は頃合いがつかめず、かけすぎてしまい、さんまはやたら辛くなった。
 それにみじめになっていたところで、かあさんからの折り返しの電話が来た。時刻は二十時半も過ぎていた。
「今気づいたわけか」という綺麗にさんまをほぐす希摘の独白に、おばさんは「話したい?」と訊いてくる。僕は首を横に振った。おばさんは追求せずにうなずき、何やら対応してくれて、「暗くなった希摘の相手してるって言っといたわ」と戻ってきた。
「俺、暗くなるかなあ」
「あんたは明るいわよ」
「そう?」
「こもってるくせに明るいなんて、すごく変だわ」
「へへ、そっか」
 希摘は変と言われるのが嫌いではない。普通とか、みんなもそうだとか、そう言われるほうがむすっとなる。ちゃんとそれを分かって言葉を選ぶおばさんに、いろいろあったぶん賢い母親になったんだろうな、と僕は醤油の辛さを白いごはんで紛らした。
 シャワーは明日の帰宅後に浴びるとして、買い置きの歯ブラシで歯を磨いたりすると、僕は希摘と二階にあがった。おばさんは在宅の仕事をするそうだ。僕も宿題があったのを思い出して勉強する。希摘はつくえで取りとめなく落書きし、僕が宿題を終えると、ゲームに電源を入れた。夜更かししたくても明日も学校で、僕は二十三時には就寝のために腰を上げた。
 希摘はまだ起きているので、眠る僕に合わせ、明かりを消したりエアコンを消したりできない。僕は結華さんの部屋を借りることになった。
 初めて入るその部屋は、ベッドやつくえはそのままでも、からっぽの棚や段ボールが置かれていたりした。掃除はされているのか、ホコリっぽさはない。「お邪魔します」と何だか断りながら、僕はさっきおばさんがふとんを用意してくれたベッドにもぐりこみ、知らない匂いや慣れない柔らかさの中で眠りについた。
 翌朝、希摘に六時に起こしてもらった。今から帰り、シャワーを浴び、時間割を整えたりするのを考慮すれば、それでも寝坊なぐらいだ。「今度来たとき返してくれればいいよ」と、服については希摘は寛容にしてくれた。
 おばさんもおじさんも眠っている。だいたい六時半に起きるのだそうだ。
 希摘が淹れてくれた紅茶で頭を覚醒させると、僕はかばんを手に取って立ち上がった。帰っても、すぐ学校に逃げこめると思うと、夕べほど軆は重くない。このあと寝るという希摘に見送られて、僕はほんのり白い感触の朝の家並みを歩き出した。
 夜はすっかり明けていて、明け方の空は見れなかった。写真で見る暁の空は、光と色の溶け合いがすごく繊細で鮮烈だから、ちょっと見たかったのだけど。
 早起きな鳥たちが、甲高い声で空を遊び、清涼な空気は嗅覚に澄んでいる。朝の風は寝汗を残す髪に涼しかった。
 ジョギングや犬の散歩の人は、寝起きのくしゃくしゃの格好のまま通学かばんを引きずる僕に、訝しそうにする。目をこする仕種でその視線をとぼけながら、僕は輝きを強くしていく太陽を背に家に到着した。
 鍵がかかっているだろうとドアフォンを押して門を抜けると、すでに起きていたかあさんが、鍵もドアも開けた。「ただいま」と僕が笑みを作ると、一応、かあさんはほっとした息をつく。僕はかばんをかかえて、ドアの隙間に軆をすべりこませた。
「シャワー浴びていい?」
「え、いいけど」
「昨日、シャワー浴びなかったんだ。汗もかいちゃって」
 屈託ない口調でスニーカーを脱ぐ僕を、先に家に上がったかあさんは愁眉して見る。
「悠芽」
「んー」
「何か、あったの?」
「え」
「希摘くんの家に泊まったの、いきなりよね」
「普通の日でも、泊まったりしてたじゃん」と僕は咲って家に上がる。僕とかあさんだと、心持ち僕が目線が高くなってきた。
「日曜日とかでしょ。平日は──」
「何でもないよ。ていうか、時間ないんだ。訊きたいことは、学校終わってからにして」
「悠芽」
「大丈夫だから」
 僕は笑みを模造すると、廊下を抜けて階段をのぼった。かあさんの死角に入ると、嘘咲いが死んでため息が出る。
 何かあったのかなんて質問は、かあさんたちが、自分たちの態度で僕が悩んでいると知らないという意味だ。差別している自覚もないのか、その差別を正当だと感じているのか。
 僕の心が健康だからかなあ、とうつむきながら階段をのぼり、何となく顔を上げた。はたと足を止めた。
 手すりのところに、遥がいた。下にいる僕を、見下げるかたちでじっと見ている。とまどうより怪訝に眉が寄り、何、と訊こうとした。
 そのとき不意に、遥の無愛想な口元が変質した。
 笑み、だった。好意的な笑みではない。バカにした笑みでもない。何かおかしいのでも、楽しいのでもない。無論、口元の痙攣でもない。悠然と、口角が切れこむ。ほくそえむ、という名状が近い笑みだった。
「何、」
 物笑いを僕にかぶせると、遥は身を返して行ってしまった。僕は眉を寄せ、その場に突っ立った。
 遥の笑みの意味が分からなかった。即座には。自分がかあさんの態度に傷つき、のろのろと階段をのぼっていたのを思い出したら、僕は風船がふくらむように目を開いて息を飲んだ。
 つまり、遥は分かってやっているのか。計算ずくで落ち込んでみせたり、暴れてやったりして、心を開くふりで僕の両親を抱きこんでいる。
 両親が表面的なのも承知し、演技をしている。そうすればなびくと両親をバカにして、上っ面の介護に乗っかっている。そうやって、僕を排斥している。関心を自分に引きとめ、僕をないがしろにさせて、両親の心を奪い、この家庭では僕こそを “異物”にしようと──
 すうっと頭が冷たく、暗くなる感覚がした。何を感じればいいのか、分からなかった。怒るか、哀しむか、参るか──単純な気持ちではなかった。
 恐ろしさは感じた。家をはじき出されることにではない。小賢しく人を貶める感覚に、僕は軽蔑の混じった畏怖を覚えた。
 階段をのぼり、湿気をこもらせはじめる部屋に踏みこんだ。すずめの声がめまいに響き、開けっぱなしのカーテンに室内は白くまばゆい。
 こんなの両親に言ったところで、僕が引っぱたかれるだろう。どうしよう。僕は、そんなじわじわした拷問に甘んじなくてはならないのか。愛されることをちぎられてちぎられて、ついにはこの家を追放されなくてはならないのか。
 遥の傷のために?
 いや、そんなの遥の傷のためじゃない。
 なぜ遥は、僕にそこまでするのだろう。僕は遥に、そんなに罰されるべきの罪を犯しただろうか。
 理不尽は、やがて毒を塗った針のような憎悪になる。部屋に満ちる朝陽の光の中、僕はベッドにかばんをおろし、遥に対してかつてない冷えこんだ感情を氷結していった。

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