心が崩れるように
僕は希摘ほど学校を嫌悪していなくても、おもしろくない場所だとは認識している。
それが、ここのところ、家にいるより学校にいるほうがいい。勉強は退屈だし、担任は嫌いだ。それでも、家での窮屈に較べれば、その嫌悪のほうがマシだ。学校アレルギーの親友が聞けば、僕以上に僕の感覚を非常事態だと取るだろう。
木曜日の五時間目、国語の授業で僕は黒板の文をノートに書き取っていた。適当にやっつけると頬杖をつき、シャーペンの絵柄である見飽きた四コマ漫画を読む。
空は残暑厳しく晴れあがり、けれど、開け放たれた窓が吸い込む風には流れがあった。九月の席替えで、僕は三列目の一番前という教卓の真ん前の席になった。が、こういう席ほど教師は目に止めないもので、僕はだらだらと考えごとができてしまう状況にいる。
最近の思索は、遥のことというより、家のことだ。六時間目の学級活動は、おそらく、始まった文化祭の用意にあてられる。そうしたら放課後で、僕はまた家に帰らなくてはならない。
遥の魂胆は、着々と僕の家庭を侵略していた。特に確信はないのだけど、遥のあの笑みに何の含みもなかったとは考えられない。そして、どんな含みだったかと考えると、僕をはじき出そうとしているとしか思えない。
動機はある。遥は僕を殺したいほど憎んでいる。思うに、肉体的に殺すのをやめ、精神的に殺すことにしたのだろう。遥は僕を抹殺しようとしていて、家庭内でそれは確実に成功しつつあった。
確かに、僕の心は健康だ。大した傷もなく、病もなく、大概の傷には自癒が働く。しかし、「健やか」は「放置していい」と同義ではない。
僕が健康なのは、むしろ放置されなかったからだ。今、僕の心は健康にかこつけて放置され、ときには踏みつぶされている。遥が傷ついているのは分かっている。それに対し、ある程度は自分が犠牲になるべきなのも分かっている。だが、ある程度だ。行き過ぎれば、僕の心の健康にも限界はある。
両親は遥の心をほどくのに夢中だった。遥は一気には心をほどいていない。徐々にほどき、その熱中を堅実に積み重ねている。
遥はあれだけ危険なところに来ていた。心をほどいたそぶりをされれば、嬉々と飛びついてしまうだろう。だが、僕は親に失望していた。遥にバカにされているのを見抜けず、虚構に没頭して、実の息子の心の陰りには目もくれない。
僕の親は、そんなに間抜けではなかったはずなのだが。買いかぶりだったのか。遥が絶大な力で両親をあやつっているのか。何にせよ、僕はおとなしく哀しくなるより、トゲっぽい毒を親に感じはじめていた。
遥にはうんざりしている。彼に憎まれているのはあきらめた。何だろうが、彼は僕が気に入らないのだろう。ただ、それを一方的にぶつけてくるのが鬱陶しかった。
一階や、夕食どきや、休日が憂鬱でたまらない。できればそこにいたくない。家にいると、いたたまれない。僕の心は、たぶん健康でなくなっている。だが、遥に較べればマシである限り、当然の処置として僕はないがしろにされ、遥が尊重される。
両親も医者も、大人はみんな遥だ。嫉妬より、大人への絶望感が強かった。頭が悪いのか。なぜ表面しか見ることができないのだろう。遥が癒されるのなら、僕が死んでも構わないというのか。周囲が遥に構うばかりで僕が死ねば、僕のわがままだったと済ますのか。
実際、この状況下でそうなれば、大人は僕を自己中心的だとして捨てるだろう。なぜ、誰も分かってくれないのだろう。健康と鉄面皮は違う。痛みだってきちんと感じるのに。みんな、僕のかすり傷を遥の致命傷と比較しては切り捨てる。
僕の痛みを尊重してくれるのは、希摘だけだった。いや、そういえば大人だけれど、希摘の両親も僕を分かってくれる。「あのふたりは、子供の頃を苦痛で残してるんだよ」と希摘は言った。でも、僕のとうさんだって家庭に問題があったらしいし、やはり個人的な視野なのだろう。
「遥は、心の傷を僕に体感させようとしてんのかも」と制服すがたで希摘のベッドに座る僕はつぶやいた。
「体感」
「うん。孤独感にハメようとしてるのもあるだろうけど」
「体感させて、何?」
「さあ。遥、僕には痛みは分かるわけないとか言ってたしさ。分かんないくせにでしゃばるのがムカついて、だったら体験させてやる──とか」
ベッドサイドで脚をぶらつかせる希摘は、僕を眺めた。
うじうじ悩むうち、九月は下旬になっていた。夕方になれば、涼しさもある。今、希摘の部屋には除湿がかかっているが。つくえは散らかり、水彩絵の具の匂いがしていた。
希摘はいったん視線を床に落として、それから壁にもたれる僕を見直した。
「おじさんたちに、言ってみたりしないの? 遥くんが悠芽を孤立させようとしてるとかは言いにくくてもさ、自分も見てくれって」
「……言えないよ。だって僕は普通だし、何にもないし。わがままとしか取ってもらえない」
「そうかなあ」
「もし遥が僕をはじこうとしてるなら、僕がそういうの言ったって暴れて医者呼ばせて、医者に僕をなじらせるよ」
「最大限に傷を利用してますね」
「……ほんと。そんな奴ではないと思ってたのに」
僕はシーツの皺を這って、希摘の隣で脚を床におろした。「希摘は僕の親友だよね」と訊くと、「親友じゃなかったら何だよ」と希摘は答える。僕は咲い、「家を家と思えなくなってるから」とスラックスをいじる。
「家にいると、空気と自分が合わない。親が親じゃないみたいだし、遥は兄弟じゃないし。希摘といると、息が楽だよ。それって、親友が親友だからだよね」
希摘は僕を見て、肘で僕を突いて照れたように咲った。僕も咲って、「ほんとだよ」とは添えておく。希摘はうなずき、「グレて俺を見捨てるなよ」と言った。
その日、僕はだるい足取りながら家に帰った。流れる涼風に夕食の匂いが乗り、本格的になったさまざまな虫の歌が響く。空が闇に飲みこまれるのも早くなり、すれちがう電柱には白い街燈が灯った。
自宅が近づくごとに、黒いさざめきが心臓に繁殖していく。そしてその黒は、家の明かりを頬に受けた途端、一気に心をおおいつくす。さざめきが胸騒ぎになって吐き気を催し、手や膝に脱力が起きた。のしかかる荷物を肩にかけなおし、僕は冬でもないのに麻痺した指で、冷たいドアノブをおろす。
「……ただいま」
返事がないのにも慣れてきた。その感覚にかすかにぞっとして、僕の視界は濁って沈む。この頃、自分の家の匂いに違和感さえある。偶然見つかり、「帰ってたの?」なんて言われたくなくて、スニーカーを脱ぎ捨てると、暗い廊下と階段を突っ切って部屋に逃げこむ。
明かりをつけ、少し空気は熱で重くても我慢できるので、クーラーはつけない。かばんを投げるように床におろし、制服に手をかけた。が、急に激しい虚しさが襲ってきて、ふらりとベッドに腰かける。なおも力が流れ出して、うつぶせに倒れこんでしまう。自分の呼吸と心音だけの静けさに、虫の声や犬の声が頭の上を抜けていった。
何で、こんなことになってしまったのだろう。自分の何がいけなかったのか分からない。遥を受け入れようとしたのは、ここまで疎外されるに値する僭越だったのか。こんなことになるなら、何もしなければよかった。
闇を怖がったとき、カーテンなんて開けてやらなければよかった。教師と問題を起こしたとき、かばってなんてやらなければよかった。手首を切ったときも、注射の痕も、全部全部、あいつの勝手にさせておけば──
ぎゅっと痛くなった喉にまぶたが熱くなり、僕はベッドの上で軆を引きずって、まくらに顔をうずめる。
僕が間違っていたのだろうか。大人は誰も僕の行動を肯定しない。それを仕掛けたことによる、遥の行動で測る。遥が助かれば褒め、遥が切れたら余計だとなじる。
みんな遥だ。遥を基準に見て、僕の心は放置する。遥がぼろぼろにしている苦痛を感じる部分が、僕の胸にもあるのを無視する。
どうすれば、僕のこの疎外感は正当だと認められるのだろう。何があれば、この痛みが自然であり、わがままな自己憐憫ではないと取ってもらえるのだろう。
僕も「可哀想」になればいいのか? 僕にも心の傷があれば、孤独を癒される権利が与えられるのか。遥のような、深い深い、致命傷がこの心にあれば──
バカバカしい。でも、きっとそうだ。そうでもなければ、大人は僕を見ないのだ。心が健やかである限り、信頼と厚顔を履き違えて僕に対応する。
なんてバカなのだろう。もう嫌だ。僕は無神経ばかりのこんな場所にはいたくない。
僕だって、痛むのに──。
両親を手中におさめると、遥の波はだいぶ起伏を緩めていった。鬱状態にありながら食事に降りてきたり、暴れたあと自分で片づけたり、健気な行動で点数を稼いでいる。からくりを知る僕は、それに冷たい眼をして、両親は僕の冷淡に注意を入れた。虚栄心だけが、泣くよりむっとするのを助けて、「ごちそうさま」と席を立って部屋に向かう。
夕食どき、隣にいる遥は僕を見つめていた。あの笑みを再び刺してくることはなくても、僕は遥に悪感情を凍結させている。そっぽをすると、僕は遥の弱者の視線を侮蔑した。
家でそうして虚勢を張っているのが、余計に負担を蓄積させる。僕の集中力は散漫になり、張りつめた神経はいらつきにすぐさま反応した。五感が休まるなんて、学校の休み時間か希摘の部屋にいるとき、つまり友達や親友といるときだけだ。
寝つきも悪くなり、まぶたを腫らす眠気や、こめかみをうろつく頭痛が、過敏な不調を増進させた。授業で当てられて答えられなかったとき、僕はみんなの前で小言をもらい、教師に捨て鉢じみた殺意を抱いた。何でもいいから破壊したいような衝動で、自分がそんなものに駆り立てられることに愕然とした。
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